chap.1 :プロローグ/予兆
あまりに唐突だったので、少女ははじめ、それが自分に向けられた声だとは気がつかなかった。
「……すましてんじゃ、ねえよ」
男の声に、暗い怒りが混じったのに、少女は気づいた
はっとして背後を振り向いた。
点々と続く街路灯の明かりの中に、背の高い、若い男の影が見えた。
「……何やってんだい?こんな時間に。ご帰宅?」
男の恰好はよくわからなかった。だぶだぶに来た服のシルエットが、薄暗い街路灯を背に、不気味に浮かび上がっているだけだった。
……何?この人?
恐怖が、背中を走った。冷たい汗が、脇の下を流れて落ちた。
無意識に、半歩ほど後ずさった。
どん。
背中に,
何か固いものに当たったような衝撃が走った。
彼女はおそるおそる、背後をふり返った。
暗い、大きな壁が見えた。
「……?」
しかし、そこは道の真ん中のはずだった。壁など、あるはずがなかった。少女はゆっくりと壁を見上げていった。するとその先に、小さな頭が付いていた。
それは、少女よりずっと体の大きい、もう一人の男だった。
男の顔は、街路灯を背にした男より、まだよく見えた。考えがつかめない、鈍重そうな大男で、何がおかしいのか、へらへらと薄気味の悪い笑いを浮かべて、小柄な少女を見下ろしていた。
「いたいなぁ……」
男はそう言うと、彼女の無傷の左腕を掴んで、高くひねりあげた。
「……は、放して」
弱々しげな声で、少女は言った。
「……へぇ」
後から追い付いてきた男が、彼女のあごをつかんだ。
「こりゃあ……」
男はそういうと、彼女の顔がほとんど触れるくらいまで、彼の顔をよせてきた。男の口から、たばこと酒と、何か得体のしれない、耐え難い臭いが漂ってきた。無精ひげが、やすりのように皮膚を削った。彼女は苦痛を感じて思わず顔をそむけようとした。が、男の指にとらえられた首は容易には動かなかった。
「悪いコだな、こんな時間に出歩くなんて……」
顎をつかんだ男が、不吉な笑いを浮かべて言った。
「お兄さん、こう見えて真面目だからよ……、お前みたいなコを見てると、お仕置きしてあげたくなるんだよ……」
「……や、やめて」
口すら満足に動かせない少女の声は殆ど言葉をなさなかった。ただ青ざめた唇が震え、空気が漏れたにすぎなかった。
男の体が、彼女に擦りつけられた。男はそのまま、何かを暗示するかのように身をゆすり始めた。
身体を守ろうと、無意識に少女と男の間に挟まれていた右腕の白い包帯がほどけて、足元にはらりと落ちてしまった。だが、それに気づいたものは誰もいなかった。
「……離して!はなしてよ!」
少女は、激しく身もだえた。
「はぁ……。そう、暴れるなよ。優しく、してやるからよぉ……。」
男は少女を愛撫するように、その頬を、ざらついた指でなぞった。
「……なあ、どうする……?」
鈍重そうな大男が、にたにたと笑ったままもう一方の男に尋ねた。
顎をつかんだ男の顔が歪んだ。それは、彼の笑顔のようだった。強い粘り気を帯びた唾液が、痩せた犬歯の間で糸を引いていた。男は真っ黒い口を楽しそうに開けたまま、かすれた声で言った。
「かまうもんか、……さっさと……」
血走った男達の目に、そこからそう遠くない距離にある、明かりの少ない、暗く小さな公園が見えた。ブロック塀に二方を囲まれ、そこだけ、近隣の住宅からも見通せない死角になっていた。
男の口が、怪しくゆがんだ。