chap.1 :プロローグ/ライトハンド・ウィズ・アザーパーツ
奇怪な器具で散らかった父の作業机の脇に、ひっそりと置かれた、丸みを帯びた硝子の器。美しく磨かれたその機具を、父は愛でるようにじっと見つめていた。そういうときの父は、彼女が話しかけても、ずっと上の空に聞いていた。曇りひとつない、ガラスの器と向かい合って、心のうちで何かを語りかけるように、にやにやと薄気味の悪い笑いを浮かべる父。
彼女は、そういうときの父に対して、なぜだか、憎しみに似た感情が沸き起こるのを知っていた。それは、父の愛するガラスの器への嫉妬なのかもしれなかった。器に対して父が見せる気配りと、優しさを持って、もうすこし自分を見てくれたなら……。そういう気持ちが、考えても愚かしい、その感情の発端なのかもしれないとは気がついていた。
「……私をきちんと見つめて、名前で呼んでくれたことが、何回あった?」
名前は、父が付けてくれたものではなかった。そのためか父は彼女を名前で呼んでくれたことがほとんど無かった。少女は、それをひどく気に病んでいた。
普通の家族というものを知らなかった。昔から、父はこんな感じだった。用がある時以外、彼女を近くに置かず、後はほとんど、ほったらかしだった。
そのような生い立ちのせいなのか、街を歩くと、今でも目は自然に、並んで通りを行く親子連れに止まった。覚束ない足取りで、よちよちと支えられるようにして歩く幼い子供ら。そしてその傍らで、いつもその様子を首を傾げるようにして見守りながら、寄り添うように歩く母親たち。母と手をつないで歩く子供は、いつも嬉しそうで、にこにこと朗らかに笑っていた。子供をそのように微笑ませる何かが、手を繋いだだけで、両親から子供へ流れ込んでいるのかもしれない。彼女にはそう思えて仕方なかったが、それが具体的に、何であるかは、彼女には解らなかった。
もしかすると、彼女は解らないのではなく、忘れているだけなのかも知れなかった。ずっと遠く、もう、消えてしまいそうなほど遠い記憶の中に、誰かの大きく温かな手で、自分の小さな手を包まれた感覚があるような気もした。穏やかで、優しく、考えただけで思わずうっとりとしてしまうような甘い記憶。それは、幼い頃思い描いた、妄想の一種なのかも知れなかった。だが、妄想と言うには、あまりにそれは身体に染みついた記憶のように思えた。
まるで、あのとき優しくさすられていた右腕の皮膚が、未だあの大きな温かい手を覚えていたかのように、その感覚が次第次第に身体のうちに蘇ってくるのを、彼女は感じていた。本当に長い間、忘れてしまっていたその感覚をもっと詳しく思い出そうとして、少女はいつの間にか、無意識に泣いてしまっている自分に気づいた。
「……お母さん……」
闇の中に、静かな嗚咽が聞こえた。
彼女は、遠くを見るような目で自分の右腕を見つめた。その腕には、厚く何重にも包帯が巻かれていた。一人になると、この腕はいつも、締め付けられるように、じりじりと痛んだ。
「この腕さえ、なかったら……」
彼女は右腕を恨めしそうに見つめた。
この腕がなかったら、私は普通の女の子として生きていけるのだ。
父に怯えて暮らすまでもなく、同じくらい、あるいはもっと大切な人を作ることだって、出来たはずだった。
でも……。
そこで、ふと冷たい声が聞こえた気がした。
……そもそもは、この右腕を生み出すために、私は生まれたのではなかったか?
痛む右腕を見つめながら、彼女はふと、そう思った。そして、その後から、こみ上げるように湧き出したおかしさに我慢がしきれなくなって、おなかを抱え、身をよじるようにして笑い始めた。
考えてみれば、当たり前かも。
この右腕のために、私は生かされている。私のために、この右腕があるわけじゃない。
父がいつも見つめているのは、あくまでこの右腕なのだ。私は、これを生かすために、全身で、この腕を養っているだけの存在なんだ。
“お帰り”は、この腕に向けて、言っていたんだ。
少女の笑いは、いつしか悲壮な笑みへと変わっていた。
「……早く、帰らなきゃ」
父が、「腕」の帰りを待っている。
少女は耐え難く自虐的な思いに浸りながら、息苦しい家に向かう歩みを、わずかに速めた。
「……よぉ、姉ちゃん?」
その時、暗闇から突然、聞きなれない男の声がした。