8:地下でパンとサーカスを
「クレール、大丈夫!?」
私が目覚めたのは夕方を過ぎた頃。今夜のパーティの打ち合わせがしたいと電話をしたが、応答がない。部屋にトリヴィアを向かわせると、彼は寝込んでいるという。心当たりはしっかりあって、流石の私も罪悪感を抱いて駆けつけた。
「ロランも言ってくれたら良いのに! ああ、駄目よ! 病人に肉なんか食べさせちゃ!」
ロランは何を思ってか、ローストビーフをクレールに無理矢理押し込んでいる。私は慌てて彼を引き剥がし、彼をベッドに寝かせてやった。
「ごめんねクレール。ルームサービスで、消化に良さそうな物持って来させるから」
「お嬢様、雑菌塗れの男に触れてはいけません!」
「クレールは私の所為で倒れたのよ? そんなこと言ってる場合!?」
こんな時につまらない冗談は止して。軽く睨むが彼女は本気だ。
「ええ。アルチナ様と彼とでは命の重さが違います」
「トリヴィア……貴女、本気で言ってるの?」
風邪を移されて私が死ぬだなんて、あるわけないじゃない。いや、まだ風邪と断定は出来ない。不確かな状況下で危険を冒すな。エッセ家の者として、彼女の言いたいことも理解は出来る。それでも納得は出来ない!
「私を大事に思ってくれるのは嬉しいわ。でも、貴女は私の気持ちを解っていない! 彼らは道具ではないのよ!?」
「…………申し訳ありません、アルチナ様。少し頭を冷やしとうございます。一日……お暇を頂けないでしょうか?」
私の怒りに触れたトリヴィアは、蒼白の面持ちで暇を請う。私も怒りを解くまで彼女から離れたくなり許可をした。彼女が部屋を去った後、クレールが口にしたのは……
「アルチナ……アンジェリカは、どうした?」
「クレール、貴方って……いつも最初は犬のことなのね」
トリヴィアの言葉に傷付くよりも、不在のアンジェリカを案じている。眠っている内に、事件があったのではと不安になったのか。
「大丈夫よ。アンジェは姉様と一緒に居るわ。あの男と同じ部屋なんて私がいる内は行かせないもの。ほら、オリヴィエとローランドも隣の部屋にちゃんといるわよ」
ロランが隣室にふたりを隔離したのか。ロランは彼らに舐められていて、食事をしたなら奪われる。クレールの看病にならないため講じた苦肉の策。
「アルチナ」
これまで黙っていたロランが、ここで会話に割り込んだ。
「トリヴィア……あの人ってどんな人?」
「やめてよ、今は彼女のこと思い出したくもないわ」
「大事なことなんだ。教えて。トリヴィアと会ったの、イタリアじゃないだろ? アルチナは、その頃も旅行に来てた?」
ロランの真剣な眼差し……その黄金の輝きに、私は押しきられる形で従った。
「そうかもしれない、でも何処へ行ったかまでは覚えていないわ」
他国へバカンスへ行くことはよくあった。トリヴィアを拾ったのも、そんな時。
「九年か十年くらい前かしら。私が二、三歳くらいの……小さな時だから、自信は無いんだけど。ルビーは……たぶん狩人、猟兵だったと思うの。狩りで大怪我をして倒れているところを、偶々私が見つけたのよ。姉様と使用人と……犬の散歩をしている時に」
「昔のアルチナが散歩できる犬……大人しい子だった?」
アンジェリカとは別の犬だとロランは断定。事実その通り。姉様と一緒ではあったけれどもリードは私が掴めるくらい、彼女の先代はとても大人しい子で……そんな子が急に走り出して、私が引っ張られたのは初めてで。驚いている内に、もっと驚くことになった。私が彼を追いかけた先に、血塗れの人が倒れていたのだから。
「ええ。あの子は……ルジェロは」
黒色のラブラドールレトリバー……姉様の盲導犬。いつからか、いなくなってしまった犬。そうだ、トリヴィアと入れ替わるよう彼は屋敷から姿を消した。彼がいなくなって泣いていた私に、新しい犬となると言ったのだ。彼と同じ色の服を纏って……
「ルビーは、ルジェロが消えた理由を知っているのかも。私に何か負い目があって、私に仕えてくれている」
「名前はアルチナが付けた?」
「違うわ、彼女がトリヴィア・ロードと名乗ったの。愛称を付けたのは私だけど」
「……過去のデータベースにも、そんな名前の猟兵は登録されていない」
クレールも気になったのか、横になりながら端末を弄り出す。師団の資格未更新リスト。外部への情報は名簿のみ、顔写真が未掲載。師団のデータベースにならもっと詳しい情報があるのだろうが……敵対する騎士団の情報網ではこの程度。それでも十分すぎる収穫だ。2110年前後の数年間は不明者が嫌に多い。彼女は二十代半ば。それなら……十代半ば? 猟師免許を取得出来るのは、成人年齢十五歳に達した者。当時の十代猟兵……その多くが未更新で資格を失い、免許を手放している。トリヴィアに近い年齢の女性は何人も居た。検索をかけたクレールは、一人の女性に絞り込む。
「……似た年頃、免許未更新で失効している者に、“ダイアナ・エルトン”という猟兵がいる。失踪した年が、君達の出会いと同じ頃だ」
「他にもいるでしょ? なんでその人?」
「よく考えられた嘘は、長くて饒舌。咄嗟に吐く嘘は、粗がある」
「ああ。トリヴィア……トリウィアは女神ヘカテーの名だ」
何よ、息ぴったりじゃない。ロランとクレールの説明に、感心しながら苛立った。
「彼女の象徴の一つが狼で、彼女は三つの顔を持つ。一つが月の女神ディアナ……ダイアナだ」
(三つの顔……ルビーの顔)
彼女が名乗った偽名……私に向ける優しい顔。私の敵や、近付く人を警戒する怖い顔。他にも一つ……私の知らない彼女の側面があるのだろうか?
「師団内も当時はよく揉めていたらしい。特にその頃は……あの事件があって」
「“赤い水曜日”?」
ロランの言葉にクレールは小さく頷く。言葉を濁しながらの発言に、私は置いてきぼり。
「それ、名前だけは聞いたことあるわ。どういう事件なの?」
「ハンブルクに狼が現れ人を襲った事件だ。師団があんな風になったのは、それからだ」
それ以降もハンブルクに狼が出ることはあるが、師団が全て仕留めるという。シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州に狼がいないのはそのためだと、クレールが教えてくれた。師団の味方が多すぎて、騎士団のハンブルク支部は存在しないとも。
「襲ったって言うか、死なせたパックが居た。それも一人や二人じゃない。でも何もしてない他のパックまで撃つのは俺は擁護できない」
狼を許さない、猟騎師団。数日前に私も会った師団の人達……彼らも【赤い水曜日】の関係者であるのかも。
「そうだな。だが……パックの生き残りが他の群れに合流したという噂がある。その子孫が国内にいるかもしれない。そういう恐怖を持っている人はまだ多いんだ。彼らに罪が無くとも」
「それじゃあ十年前の猟兵って言うのは、狼を滅ぼそうと挑みまくっていたわけ?」
「ダイアナは事件の年に師団所属になっている。余程難かったんだろう……」
トリヴィアは、強い。けれどもアンジェリカに振り回される。犬が嫌い? そう感じたことはある。リードを引く時、彼女の手は震え……逃げ腰になっているのだ。
(ルビー……貴女は、一体何をそんなに恐れているの?)
第五デッキの図書室へ行こう。ここは兄弟団の船だから、騎士団とは違う情報が浮かんでくるかも知れない。
「まだその人がルビーと決まったわけじゃないけど……私もちょっと調べてみるわ。今晩は安静にして、クレールは寝てて。ロランも適当に。私が持つから好きなの頼んで」
そう言い残し部屋を出る。急ぐ私の後方で、私を呼ぶ鳴き声一つ。
「ワン!」
振り向いた先には大きくて白い犬。クレールの愛犬だ。
「オリヴィエ、来てくれたの?」
私一人では心配だと、護衛に付けてくれたのか。確かにこの船を一人で歩くのは少し怖い。犬も侍女も連れずに一人になったことなんて……もう何年もなかったこと。派遣された大きな騎士を、私は撫でて感謝を伝えた。
(忘れていたわ。一人になるってどういうことか……)
*
こんなに長く、意識のあるままロランと一緒にいるのは珍しい。眠るとまた悪夢に魘されそうで、僕は薄目を開けていた。暇だろうに、何故こんな所に残っているのか。
「ロラン、出かけてきたらどうだ? ローランドの散歩もあるだろ」
声を掛けたが、ロランは僕の端末で遊んでいる。壊されないか心配だ。
「ローランド、まだお腹空いてないって。散歩はパーティの後にする」
「プールがどんな物か見て来てくれ。良さそうだったら僕も、明日オリヴィエを……」
僕の通信端末が鳴った。同じく第七デッキで仕事が入った知らせだ。
「ロラン、仕事だ。代わりに行ってくれるか?」
「……ワン」
渋々奴は立ち上がり、その後ローランドに媚びへつらう。留守番を頼み込んでいるのか。
「パートナー無しで何が仕事だ。彼も連れて行け」
「わんっ!」
僕の命令にローランドが同意する。今の吠え方は、「そうだ、お前のような手下を一人で送り込むなんて、ボスとして心配だワン」とかそういう意味だと推測する。ロランは彼に甘える声を出していたが、服を噛まれて連れて行かれた。
狼は危険に関して敏感だ。犬よりも勘が鋭い。情けないことに……ロランに心配される程、今の僕は疲れているのだ。見張りが皆いなくなった後、僕は起き上がり身支度をした。
(大事な、仕事なんだ)
折角の大仕事。僕だけ寝ている役立たず、そんなの御免だ。ロランが戻るまでに戻ってくれば良い。今晩で蹴りをつけてやる。僕が向かうのは、三階層下第四デッキ。
「……昨晩の話を詳しく聞きたい。案内して貰えますか?」
「今夜はエッセのお嬢様とご一緒ではないのですか?」
「僕は反対なんですよ。本来彼女はここに入るような年齢じゃない」
「なるほど、それが宜しいでしょう。特別ルームのギャンブルは、些か乱暴でありますからね」
笑みを浮かべる支配人。彼に案内された扉の向こう……下の階層へと続く隠しエレベーター。
「特別会場は、0番デッキにございます」
本来エステ・ソレッラ号は十一デッキ。第一デッキの下に、もう一つのカジノがあるという。
「一番下か……大がかりなことをしているんですか?」
「ご覧になれば解りますよ、すぐにでも」
こんな所に隠すのだ、違法行為が横行している可能性もある。そうでもしなければ莫大な金は稼げない。いや、それだけ金を求める者を、彼らは待っているとも言える。どうにもきな臭い。アルチナを連れてこなくて正解だった。体調が万全であったとしても、僕は仮病をしただろう。一人でここへ来るために。
エレベーターの扉が開き、フロアを進むと歓声が僕の耳へと飛び込んだ。第0デッキはコロッセウムに似た作り。闘技場での試合に、観客は熱狂していた。彼らが熱い視線を注いでいるのは、闘技場で戦う者達……僕の目に見えたのは、人間と犬の姿だ。
「犬を見世物にしているのか?」
「いいえ、我々は動物を愛していますから。彼らが傷付くようなことは決して行いません。唯……躾の行き届かないお犬様は何処にでもいらっしゃる。本来の力を発揮できないことは不幸せだと思いませんか?」
犬も人も武器を持たない。けれど彼らは牙がある。闘犬からの攻撃を、人間は避け続ける。やり返してはいけないルールなのだと気がついた。
「どうです? 何分でギブアップか賭けるのですよ。大損したお客様は闘士としてご返済頂いております」
負債者は粘れば粘るほど、賞金が出て借金を減らせる。
「死ね、エルガー!」
「金返せ!!」
対戦者らしき相手の名、彼へのブーイングが闘技場に響く。
(エルガー社が大負けしたのか? 本人ではなさそうだが、あれは使用人か?)
昨晩はオロンド以外にもそんな大負けをした輩がいたのか。
「人が勝つことは?」
「先に犬が疲れて倒れるか、戦闘放棄をした場合はそういうこともございます。さぁ、オート様。何分に何秒にお賭けになりますか?」
分まで当てれば配当は出る。何分、何十秒、何秒。より棄権時間に近い時間を当てたなら、配当金は跳ね上がる。ルールを理解した僕は頷いて、端末の画面を彼に突き付けた。
「三十秒。全額、人間に賭けます。ただし、次の試合には僕が闘士として参加したい。可能でしょうか?」
*
次の闘士は線の細い少女。何処かの使用人なのだろう。格好はメイド服。こんなガキ、一分と保つかと誰もが笑った。短時間なら秒まで揃えられると彼らは笑い、競って少女の敗北へと賭けた。少女は外見も美しい。粘ってくれた方が面白いと彼女を応援する者も居た、闘犬に金を賭けながら。その子が戦うのは、傷害歴のある猛犬。殺処分を哀れむ兄弟団メンバーが引き取るものの、その凶暴さは矯正することが出来なかったという。
「キャンっ……!」
そんな猛犬が文字通り尻尾を丸めて逃げ出すなど、誰が予想しただろう? 彼女は避けることもなく、向かって来る闘犬を吠え強く睨んだだけだった。誰もが注目した一戦。結果は八百長かと疑うばかりの急展開!
「し、勝者、……エッセ!」
エッセ家は勝負師なのか。自分の所の使用人を出し、その子へ賭けて大儲け。配当金額の桁の大きさに、私は目を見開いた。そんな大金あったなら、自分の猟区が幾ら買えるだろうか?
「そんなに儲かるんだぁ。私も賭ければ良かったかなぁ……」
人間が勝つなんて。エッセ家以外の誰も彼女に賭けはしなかった。かき集めた金をそのまま持ち去ろうなんて、きっと誰もが許さない。会場は犬と少女に対するブーイングの嵐。もう一戦! もう一戦! そう望む声も出始める。得た金を全て吐き出してから帰れと。
「エッセ家この野郎! あの女以外にこんな隠し球がいやがったのか!」
「犬に色仕掛けかねーちゃん! 金返せー!」
「闘犬以下のゴミ屑が! さっさと処分されちまえ!」
兄弟団の客船カジノ。ブレーメンからベルゲンまでは飛行機が出ている。寄港中に乗船したは良いけれど、何と言っても景色が悪い。先輩の顔の次は、この治安の悪さ。優雅な船旅を想像していたのに。
私がここへ来たのは……護衛任務の依頼が師団に舞い込んだため。目敏く見付けた先輩が私を引き摺って来た。猟区代がチャラになる仕事がありますよ、なんて騙された私が悪いのか。与えられた船室は第一デッキ。先輩とは二人部屋だし狭いし最悪。部屋には窓も無いのだから。乗り込んで数時間……仕事と言われて降り立ったのは、更に下の第0デッキ。ここで私達の任務が始まった。厳密に言うと違法なのだろう。兄弟団のメンバーは無駄に金があるから、多少の問題は金で解決してしまう。故にこれは白なのだ。全くヘドが出る。
師団への依頼はそんなヘド共の良心、その呵責なのだと思う。師団は極限状況下では、獣よりも人を取る。本当に危なくなった時、私達が射殺の任を担うのだ。それでも金持ちの犬はまず人権持ちだから、揉めるのだろうな。
「本当に家族なら、大事なら……犬を賭け事になんか使わないと思うのに。変なの」
「スティラ君、もはや手に負えないのでしょう。他人の所為にして被害者面で、家族の死を悲しみたいのですよ彼らは」
処分を人の手に委ねる。可哀想だと涙する。そんな事の何が動物愛護だと呆れてしまう。
「先輩……それじゃあここには、彼らの家族はいないんですか?」
「ええ、直視できるわけがありません」
「いたら良かったのに。世の中には凄い人がいるもんですね。先輩も違う意味で凄いですけど」
エッセはもう一試合引き受けた。今度はもっと凶暴で大きな犬。それを五匹も放たれた。今度こそ瞬殺だと……一桁、二桁秒に多くが賭けた。私はいつでも撃てるよう、スコープを覗き……引き金に手をやっていた。それに対してエッセは、一番人気の秒数と同じ秒数で人間へと賭けた。恐るべき有言実行。彼らを脅えさせるだけではなくて、大人しくなった彼らを優しく撫でて……目を細める。頬ずりをし、顔を舐めさせるなんて……微笑ましいシーンもあった。彼女は指定時間ぴったりに、五匹全てを従えた。鮮やかな調教術……まるで魔法。こんなことが現実にあることなのか? 映画かミュージカルを見ているようだ。
「……先輩?」
尋ねた言葉に返事が返らない。疑問に思うと無音の魔女は、スコープに目を付けていた。
「生きて帰れると思うなよ! 飼い主を連れて来なかったことを地獄で後悔するんだな!」
逆上した男が少女に酒瓶を投げ付ける。彼女は避けたが服は無事とはいかない。それでも溜飲を下げなかった男は飼い犬を少女に嗾ける。犬では無意味だろう。そう思ったが、止まらない! 先程までが脚本か? それともあれは犬ではないと言うの? 私は慌てて銃を構える。
(あの子が噛まれたら、今までのが八百長だってことになる。嘘か本当か解らないけど、エッセは全てを失う)
人が傷付けられてはならない。私が撃つべきは、犬の方。だけど本当に悪いのは誰? 野生動物を撃ったことがあっても、私にはまだ……飼い犬を撃った経験が無い。引き金を引く指が震える。人権持ちを殺したら、私は殺人犯だ。師団が守ってくれるけれど、裁判で必ず勝てる保証はない。殺す覚悟が決められない。私の正義は、理想はその程度だったの? 泣きながら覗いても、涙で照準が定まらない。撃てる、わけがない。
私が恐怖に呑まれる中、傍から大きな銃撃音が二度。先輩が撃ったのだ。無音の魔女が、静寂を引き千切る……今のは空気銃ではなくライフル。近付きすぎて被弾したのか? 犬も少女も倒れている。先輩が撃ったのか? それともその直前に犬に噛まれた?
「すぐに医者を呼べ! ここは猟騎師団が取り締まる!」
先輩の、大きな声。会場はすぐにざわつき始める。逃げ惑う観客で賑わうエレベーターホール。あれではすぐに助けは来ない。
「スティラ、連絡を! 私は手当に向かいます!」
「は、はい!」
私達は人と獣の調和を図る者。最悪は、唯見ているだけ。まだ、救うチャンスがあるのなら……私は猟兵としての任を全うしなければならない。先輩の声に奮い立ち、回線を繋ぐ私の指は、もう震えていなかった。
*
映画館は薄暗い。隣に座るアルミダが腕を絡ませて来たことも……他の客からは見えない。温もりだけが近しく感じられて、彼女の心は解らない。
(アルミダは……もっと暗い場所を生きている。彼女に見えていたのは温もりだけ)
その手を振り払ったのは、私自身。だから戸惑う、こうして彼女に触れていると……まだ同じ場所にいるのではないかと錯覚して。
館内からは嗚咽、鼻をすする音……あちこちから上がって来る。この映画は所謂感動物で、犬好きの者はまずそんな反応になる。私やアルミダがそうならないのは、現実をよく知ってしまったからに過ぎない。タイトルは『2111』……動物人権が作られる、切っ掛けの事件を題材にした映画。事件は通称……盲導犬殺害事件。アルミダが、変わってしまった切っ掛けだ。
悲鳴もなく殺された犬。店の中と外……壁一枚の隔たりで気付けなかった飼い主。彼女の胸の内は。友を失った暗闇は、どれ程の深淵か。
「動物人権が出来て良かったわ。今ならこの犯人、殺人犯に出来るもの!」
「本当に、可哀想な事件だった」
映画の終わりに人々は、涙を拭い感想を吐き散らかした。当事者である私達は、そんな風には語らえない。まだ館内が暗い内に、アルミダに手を引かれた。アンジェリカと共に、出口へ向かって歩き始める。
「ねぇ、ラダ様」
昔は名前を呼ばれるだけで、彼女の感情を言い当てられた。今は怒っているのか笑っているのか、それさえ判別できない。チケットに印刷されたタイトルは『アルミーダ』。彼女と同じ名のオペラ・セリア。舞台の上と隣から……二人の魔女に責められる、罰をこれから受けねばならない。
「貴方のことを信じていたわ、誰よりも。それなのに、どうして傍に居てくれなかったの? 異教徒との戦いのため魔女を捨てた騎士のように……どうして私を、貴方は捨てて行ったの?」
かつて私は……任務で彼女に出会い兄弟団にと望まれた。団が経営する動物学校の教師になって欲しいと。兄弟団は飼い犬を甘やかし、満足な躾も出来ない飼い主ばかり。使用人が怪我することも頻繁で、彼らの愛玩動物は……強い恨みを買っていた。金でもみ消された殺人事件も過去にはあった。非力なアルミダとパートナーは、その槍玉に挙げられたのだ。
「最悪の誕生日だったわ。私は大好きな彼と、貴方を同時に失ったのよ。……もし貴方が傍にいてくれたら。あの子を失っても、私はまだ耐えられた。何故、騎士団に帰ってしまったの?」
「……アルミダ。君は歌劇のように、私に復讐を望むのか?」
「どうかしら。最後に、聞いてみたかっただけ。もうきっと……こんな風に会えなくなる」
私一人が殺されるなら、それで気が済むのならそうして欲しい。そこで彼女が止まるなら。嗚呼、それも無理な話。彼女の思惑は既に走り出してしまった後。私は、止められなかったのだ。彼女と袂を分かち、別の立場で戦っても。力の無い正義など、何の意味も無かった。
「友を私も守りたい。君の理想は……君の作る楽園は美しい」
「そう思ってくれるのに何故?」
「解ってくれ、アルミダ。そこに住める人間は殆どいないんだよ。人と動物が同等の権利を得れば、人が人に見えない者が必ず現れる。アルミダ……君のしたことで、救われた動物は多い。それでも君が知らない場所で、泣いた人もいるんだ」
愛玩動物保護条約の加盟国で、動物人権が施行されたのは五年前。動物人権は貧富の差を反映する。金が物言う世の中だ。金持ちの犬は人になり、貧乏人の犬は犬のまま。人権犬に噛まれた犬は、器物破損でお終いなのだ。保険制度とも違う。全ての動物にその権利を与えるというのならまた違う議論となるだろう。しかし今の動物人権は、富裕層からの有り難い税収源。利害の一致による歪んだ制度。
「この五年の間に幾ら殺人事件があった? 動物が被害者じゃない。人間が被害者の事件がだ」
人と同等の権利を持つ動物。人と同じ説明責任を果たせない。しかしながら弁護士が付き、すぐに殺処分とはならない。無期懲役も専用施設の室内犬になるだけ。精神病をでっち上げ、執行猶予ですぐに出てくる。
「アルミダ……君は君がされたことを、人に返していないと言えるのか?」
「そう……人と動物、貴方は人を選ぶというのね」
「ここは人の世だ。まず第一に人間だ。その上で、動物たちとの関係を大事にしたい。君と犬が崖にぶら下がっていたら、私は君を助ける。その後彼を助けるために努力する。間違っているというのなら、何か言ってくれ!」
「貴方は立派よ。とても立派な騎士様よ。だけどね……世の中には助けなくて良い人間もいるの。しぶとく崖にしがみつくなら蹴落として、犬だけ助けた方がずっと良いことだってあるの。本当は貴方だってそう思っているんでしょ!? ……“ ”っ!」
オペラ会場の前で、彼女に名を叫ばれた。その声は私の端末音に掻き消される。マナーモードにしていたが、緊急通信は防げない。通信番号はロランの物。慌ててコールを押すと、返ってきたのはアルチナの泣き声。
《ラダっ、早く来て! 第三デッキ! クレールが、クレールがっ!》