5:パートナー
大きな任務! それは嬉しいことなのに……どうも気不味い。ここには気軽に話せる相手がいない。一番まともなのがアルチナという事実が既に悲しい。
「クーン……」
「ありがとう、オリーヴ」
僕は心配しているパートナーを抱き締めた。別に会話なんて欲していない。いないけれども。
当初はまともに見えたトリヴィアさん。彼女はアルチナのことになると人が変わり鬼のよう。食事にも作法にも散々ケチを付けられた。その上で彼女はお代わりまで請求してくるのだから何を考えているのか解らない。僕が何をしたというのか。人の世は理不尽だ。
夜というのは静かなもので、波の音が心地良い。船室は数人ならここで暮らせそうな程設備が整い、寝室まである。そこはアルチナ達に譲っているため、僕らは床やソファーの住人だ。しかし何を思ってか「老体には堪えるわい」と副隊長がソファーを奪った。僕は犬達に「こいつ実は意外と大したことない」と舐められないか心配で、デッキで夜空を見上げている。
運河に入ってからは、システムのAIに自動操縦させているため、副隊長もしっかり就寝モード。マリアジさんの操縦より安定していて、正直あの人は何をしに来たのかと疑問に思う。資格持っている責任者が必要だっただけなのではないか?
毛布を持ち込み、ここで就寝しよう。傍にオリヴィエを招くと彼は嬉しそうに鳴いた。彼が隣にいれば風邪も無縁。タオルを一枚デッキに敷いたところで、僕は妙な盛り上がりに気付く。
デッキには先客がいた。あの馬鹿はローランドを腹に乗せ、毛布もなしに熟睡中。どこまでこいつは野生児なのか。
「起きろ馬鹿、風邪引くぞ」
「うー……」
無視も出来ず僕は渋々声を掛け、毛布を譲ってやった。寝惚け眼を擦るロランは、身体を起こし大きな欠伸。立ち上がったかと思えば、今度は柵に手を掛け身を乗り出して、船から飛び降りようとする。
「おい、こら馬鹿! 何やってるんだ!」
「トイレー……」
野宿だと思っているのか? あれは農地の柵ではない! あの向こうは海だ!! 手を伸ばしたが、寝惚け男は素早く届かない。僕は彼の名を呼んだ!
「……オリヴィエっ!」
「ワン!」
ドボンという落下音に続いた音と水飛沫。沈み流されるロランの襟首を掴み、オリヴィエは身体を下へ潜り込ませる。大きな身体の彼だから出来る芸当。寝惚けたロランはオリヴィエに掴まる力も無い。ロランはそんなに重くはないが、荷物を抱えながらの泳ぎ……船との距離が次第に広がる。
「副隊長! 早く起きろ!!」
船室に駆け込み僕は上司を揺すり起こすが、起きる気配がない。叩いてでも起こすべきか? 上司に手を挙げて良いか、瞬時の迷いが命取り。この間にも距離は広がる。僕も飛び降り共に泳ぐか?
「わん!!」
「ローランド……」
迷う僕に向かって、自分を使えと彼が言う。ローランドは身体が小さい。泳いだところで何になるんだ。ローランドに求められているのは、オリヴィエとは違う役目。人や大型犬が入り込めない隙間から、潜水して物資を届けるのが仕事。それでも彼は、俺に任せろと言っている。
「……行け、ローランド!」
「ワン!」
ローランドが吠えた。小さな身体から、初めて発せられた……低く凜々しい声。彼はよちよち実に愛らしく泳ぎ、流され彼らの元へ辿り着く。そして彼が最初にしたことは、ロランの鼻に思いきり噛み付くことだった。
「痛っ! 何するんだよ母さん! …………あれ、寒っ。オリヴィエ? ローランド!?」
起こしたところでロランは満足に泳げない。しかし意識の戻った荷物は……担がれる時軽くなる!
「足くらい動かせ馬鹿! 僕のオリーヴばかり働かせるな!」
備え付けのロープと浮き輪、彼らの方を狙って投げる。オリヴィエはそこまで頑張ってくれれば良い。彼なら出来る。僕が鍛えたパートナーだ。
「よし……」
彼らは期待に応えてくれた。僕はロープをたぐり寄せ、馬鹿の回収に成功。咄嗟のことで手袋もしていない。手はロープで擦れて痛いが、何とかなったからまぁいいさ。
運河入り以降船は低速であるし、荷物がなくなったオリヴィエ達は自力で船まで帰還する。ロランの頭から離れた帽子を、ローランドは拾って来てくれた。機械部は生活防水で、短時間の水濡れなら故障はない。濡れてはいるが乾かせば問題なく起動できるな。頼りになるのは犬達だけだ。今度はローランドごとオリヴィエを僕は抱き締め撫でてやる。
「いい子だ、流石は騎士だ! 二人とも偉いぞ! ……ロラン、何だその目は」
「俺には?」
犬達を褒める僕をロランが見ている。こいつはまだ寝惚けているのだろうか? もう一度海に叩き落としてやりたくなるがそれは大人げない。ロランの心を察する努力を僕はする。僕は今何をした? 犬達を撫でて褒めた。抱き締めもした。ロランを犬だと思え、隊長にはそう言われたが……やはりロランは人に見える。同じようにと言われても、簡単に出来ることではない。それにそもそも……
「……今のお前に褒められる点などあるのか?」
「クレールのばーか」
「痛っ! な、何だお前は!」
近付いてきたと思ったら、人の手を囓って去って行ったぞ。僕が何をしたというのか。ロランを叱るよう、ローランドが追いかけて行ったが……僕は濡れ鼠のオリヴィエと、彼らを抱き締め濡れてしまった制服に、溜め息零してクシャミと続く。持ってきたタオルはオリヴィエを拭いてお終いだ。夜風で僕らが乾くまで、夜が明けないことを祈った。最近疲れることが多すぎる。ゆっくり静かに眠りたい。
*
「あはははは! クレール風邪?」
「……誰の所為だ」
「夢でも見たんじゃない?」
翌朝私が目覚めた頃……船はとっくに運河を抜けていて、速度の増した船の上……隈一つ無いロランと具合の悪そうなクレールがじゃれていた。彼らの服は昨日よりシワがありみすぼらしくなっていたし、磯臭い。犬達もどことなく海の香りが漂っている。夜間に水泳訓練でもしていたのかしら?
私は昨日は遅くまで電子本を読んでいた。それでもいつの間にか眠ってしまっていて……気付いた時には外は明るくなっていた。朝食を求めに行った先がこれ。焦げた匂いが辺りに漂う。フラフラと赤い顔、覚束ない手つきで調理を始めるクレールの、周りをロランはウロウロし……作業の邪魔に没頭している。料理はトリヴィアに命じよう。
「酷い顔、外で寝たの? 近くの部屋でも気にしないのに! もう!! 仕方ないわね、向こうに着くまでに治してよ。ベッド貸してあげる」
「ま、待て! 僕は平気です」
「お嬢様のご厚意を無にすると? そんなはずありませんよねクレール様?」
私の温情にトリヴィアは涙ぐみ、クレールを引き摺って行った。
「で、結局どうしたの?」
再び二人きりのロランと私。教えてと強請ったがロランは拗ねていて何も教えてくれない。真面目そうなクレールが、体調管理を怠るとは思えないのだけれど。
「それじゃ帽子は? どうしたの?」
何かおかしいと思ったら、今日のロランは帽子を被っていない。彼の感情を耳から読み取れないため、彼の声や顔から私は様子を探っていた。しつこく食い下がると、ロランがぽつりと話し出す。
「クレールは、リナルナと違う。母さんとも違う」
「隊長さん? えっと……そりゃそうよ。別の人なんだし」
「俺だって頑張ってるのにさ」
「え、ええ。そ、そうよね」
話の流れで相槌を打つ。しかし腑に落ちない。彼は何を頑張っているのだろう。通訳だろうか? それ以外のロランはろくに仕事をしていないように見えるが。
「私から見ると別にクレール、特別ロランに対して厳しかったり冷たかったりはないわよ。元々人当たりが悪いんじゃないの? 第一印象……は恵まれてるし、第二印象が良くないからずっとそのイメージが付き纏うだけで、根は優しそうだし」
ロランのこと気に掛けてくれているじゃないと、言っても彼は納得しない。
「パートナーって、俺とローランドとか、クレールとオリヴィエみたいなのだろ。俺とクレール、全然違う」
「……それは確かに」
信頼関係、出来上がっていないわよね。意思の疎通出来ていないし。思い当たる節があり、私も同意してしまう。それでもフォローが出来るのだから、私は出来た子だ。唯の我が儘娘ではない。よく出来た我が儘娘だ。
「素直に言ったらいいんじゃないの?」
ロランはクレールの前に出ると、途端にじゃれつき邪険にされる。構って欲しい子犬と昼寝をしたい老犬のよう。それなのに、クレールが構うと離れて距離を置く気分屋で、ロランは雲のような人。
「柴犬って猫みたいな性格の犬って言われているの。そんな彼らが遺伝子的には一番狼に近いって言うから面白いけど。もしかして狼もそういう所あるのかしら? 貴方、もしかしたら狼に似てるのかもねって、そう言ったの!」
「……そっか!」
私の言葉にロランが笑う。照れているのか、嬉しそう。彼は狼が好きらしい。
「でもさアルチナ。狼にも色々あって、やっぱり一人一人性格は違うものだよ。あ、人間もそうってことか……」
「そうそう! ……え?」
先程の見解にロランが理解を示してくれて、私も嬉しい。私も微笑んだところで、言葉のおかしさに気付く。
「あの、ロラン……?」
私はまだ聞いていない。何故彼が犬の言葉が分かるのか。しかし気分屋な彼は、自分の悩みが解決したら、ふらっと私から離れローランドとじゃれ合い始める。デッキを走り回っている様は、子犬の戯れにも見える。年上の男を微笑ましいと称するのは抵抗がある。それでも彼らの様は微笑ましい。
(でも、大丈夫なのかしら)
今更のように、私は不安を覚えた。この先コペンハーゲンから私達が乗船するのは……兄弟団レベルの富豪でなければ入れない豪華客船。クレールはまだ弁えているが、ロランにはマナーのマの概念もない。
(何処かの部屋に閉じ込めて、必要なときだけ通訳を頼むとか……ロランの野放しは騎士団の顔に泥を塗る。顔に泥パックしながらパーティに行くようなものよ)
アンジェリカのケージ入りを可哀想という私が、ロランをケージにぶち込んだ方が良いのでは? そんな矛盾を抱える程、ロランは人として欠けていた。いざという時、彼が役立たずでは困る。付け焼き刃でも、無いよりマシ。私はにこりと微笑んで、彼に向かって手招きをした。
「ロラン」
彼が首を傾げる内に私は手を数度打ち、トリヴィアを呼び付ける。
「お呼びですかお呼びですねお嬢様!」
「来るの早いわね。まぁいいわ。ルビー、ロランを一人前の紳士にしてあげて」
逆境と私のお願い無理難題に、私の侍女は燃えていた。
*
僕が目覚めたのはもう数十分でコペンハーゲンという頃合い。薬が効いたのかきちんとした寝床のお陰か、大方調子を取り戻す。問題なく起き上がれることを確認された後、すぐさま上機嫌のアルチナに手を引かれ食事席まで運ばれる。そこで僕が目にした物は、夢のような光景だった。ロランが椅子に座り食事をしている。手にはフォークとナイフがあった。
「ふふん、どんなもんようちのルビーは!」
「やれば出来るじゃないかロラン。凄いですねトリヴィアさん」
アルチナの自慢に僕は頷いた。直後浮かぶのは感心と喜び、それから少しの屈辱感。あのロランがフォークとナイフを使いこなしている。僕が何度教えても、立ち食い手掴み皿舐めをやめなかったロランが! アンジェリカの躾も出来ない使用人が、この短時間でロランの一部を更生させるとは。僕のプライドにヒビが入った。
「どうした? 褒められたかったんだろ」
喜べよ。そう言った先、ロランは恨みがましい視線を僕へと向けた。
「どっちにしろ食べるのに。どうやっても食事は食事だ」
ロランの恨み言は屁理屈であり真理でもある。船内の風呂に叩き込まれたのだろう。今のロランからは獣の匂いは薄れている。おまけに髪まできっちり整えられて、しっかりアイロンがけされたシワ一つ無い制服を着せられていた。
「クレールのもルビーがやってくれたわよ」
「すみません……依頼先の方にそのようなことまで」
「あ、気にしないで! あんまり見窄らしい格好されるとこっちが困るし」
トリヴィアさんの替えの服を借りていた僕も、新品同様となった制服をアルチナから受け取った。アルチナの言葉は純粋に酷いが、優しさも隠されている。でも生暖かい目で僕を見ないで欲しい。彼女の着替えがこんな服だとは思わなかったんだ。到着する前に、いや今すぐにでも着替えよう。
「ロランさん? 紳士らしい言葉遣いは?」
笑顔のトリヴィアさんが、乗馬鞭を手にロランに迫る。あんな物を彼女は常備しているのか?
「どうやっても食事は食事だです」
青ざめながら口調を改めるロラン。あ、これは駄目な奴だ。ロランが人間性の前に別の物に目覚めてはいけない。恐る恐る僕は彼女に苦言を呈する。
「トリヴィアさん、それは僕の方針としてNGです」
「あらクレール様? 私に何か問題でも?」
アルチナ絡みのことで、僕も彼女には精神的にいびられた。雇用先の上司にも等しい彼女だが、騎士団として僕として……退いてはならない線がある。今の話は、退却できない戦いだ。
「上流階級のご家庭での躾がどういう物か僕には解りませんし、それに関して僕に言える言葉はありません。しかしロランは……犬です。騎士団の犬です。犬に暴力を振るうことは最も悪しきことです。それは信頼関係の構築に問題が生じます」
「だから貴方は彼に舐められているのでは? 犬は制御できても、人間を貴方は律することが出来ていません」
アルチナの我が儘に流されている彼女に言われたくない言葉。しかし凄みがある。アルチナ以外の相手には、彼女は彼女の言葉を守れているから。彼女は、エッセ家の……貴族の飼い犬、“番犬”なのだ。でも僕だって、余所の犬にうちの犬が噛まれて黙っていられない。
「ロランは僕のパートナーです。彼に何かが足りなくても、僕が助ける。半人前の騎士だから、二人で一人前になれば良い。こいつが何か問題を起こしたら僕が謝る。騎士の誇りに賭けて言いましょう、ロランが貴女に打たれる理由は何もない!」
「そうですか……では、まず貴方から」
「止めなさいトリヴィア」
アルチナの声が冷たく船上に響く。震え上がったトリヴィアは、振り上げた鞭を船室へと落とす。アルチナはこの猛犬を従えられるのに、何故犬一匹従えさせられなかったのか。人と犬の違いは難しい。妙な感心をしていると、風邪が移ったような赤い顔のアルチナが、フラフラ僕へと寄って来た。
「アルチナ、様?」
「アルチナって呼んで。船でのパートナー! 貴方に決めたわ、クレール!」
「ええと、あの、……アルチナ?」
彼女は分かり易いのに、今はロランよりも解らない。子犬のように僕の腕に飛び込んで来た。僕の身体を触った所で、頼りないと思ったのか? 彼女はしきりに食事を勧める。
「貴方も少しは何か食べない? 食べなきゃ駄目よ。これなんかどう? 少し私が手伝ったの。きっと美味しいわ!」
何故か機嫌良く話しかけて来るアルチナ。甲斐甲斐しく皿に食事を装った挙げ句、マナーも忘れて僕へスプーンを差し出す始末。騒がしい彼女の向こう、離れた席に留まるロランが一度だけ「ワン」と鳴いた。
(今の鳴き方は……)
ロランに話しかけよう。僕が口を開いたところ、同方向からトリヴィアに……怨念めいた眼差しを向けられていた。啖呵を切ったが、睨み合いとなると彼女は凄まじい迫力だ。金持ちの飼い犬なら汚れ仕事も苦でなかろう。アルチナの機嫌を損ねた瞬間、僕が殺される展開も大いに起こり得る話。今はアルチナの厚意を有り難く受け取ることにした。味についてはノーコメントで。