14:角笛と喜びの歌
何処かの方々、怒らないで下さい。未来のフィクション物語です。
「僕が、狼か。それならロラン……お前は、やはり人間だったんだな」
「クレール、落ち着いて。俺の話を……」
「言われるまでもないか。お前はいつも……僕の話を聞かなかったから」
俺の話を聞いてクレールは船室を出て行った。後を追おうとした俺に、オリヴィエが飛びかかり、ローランドが足に噛み付く。
「そこを、退いてくれ。オリヴィエ、ローランド!」
ふたりはクレールの命令に従い、俺が扉に近付くことを許さない。ショックだった。オリヴィエの他に、ローランドまでそうなるなんて。彼は俺のパートナー、俺のボスだ。彼に守られることはあっても、敵意を剥き出しにされたことなど一度も無かった。
ローランド……リナルナが名前をくれた。俺はその名をお前にやった。彼が俺の新しいリーダーだ。その名は他の誰かに聞いた名よりも、彼に相応しいと思ったから。俺はお前の一部で良いとロランと名乗った。あの日のように、俺はまだ自分を人と思えない。それなら英雄の剣になろうと思った。お前が騎士で俺が剣。剣が持ち主に逆らうなんてとお前は思うだろうけど。
「……次からまた負けて良い。でも今日だけは、今だけは俺はお前に負けられないんだ!」
唸り声を上げ、慣れた四足歩行の姿になった。噛み付かれるままローランドを転がして、天を向かせる。相手が降伏するまで手を噛付かれても放さない。俺が折れないことを知り、同時に自身の敗北を知る。部下の反逆に放心状態のローランド。俺は鎮まる彼を抱き上げて、扉を塞ぐオリヴィエを見る。相手は超大型犬。まともにやって勝機は無い。
それならとテラスへ向かう俺を見て、オリヴィエは迷う。彼が受けた命令は、扉を守ること。だからすぐには追って来ない。クレールへの忠誠心が仇となる。俺は一層下の客室テラスへ飛び降り逃れる。部屋の主は悲鳴を上げたが、緊急事態と伝えて部屋を通り抜けプロムナードへ。
焦る気持ちを逆撫でする、美しい船内BGMが気に入らない。鼻を動かし匂いを辿ろうとするが、余計な匂いが邪魔をする。
「なんだか焦げ臭いわ。厨房か機関室で何かあったのかしら?」
「まさか。こっちは高い金を払っているんだ。安全面はしっかりしているはずだよ。万が一、船が沈むようなことがあっても船には大勢クルーもいるし、補助に動物騎士もいるんだろ?」
乗客の話し声が集中を阻害する。エンジンは遙か下の階層。敵が複数、分かれて行動しているならば……たかだか数人の騎士で何が出来るというのだろう。
「きゃあああああああああっ! 人が、人が落ちたわ!」
「随分高い所から落ちたが大丈夫なのか!? 君、救助騎士だろ? 早く行ってくれ!」
俺とローランドの格好を見て、乗客が俺をテラスまで急き立てる。海面を見下ろせば、確かに誰かが落ちている。その人は気絶しているのか? 波間に浮かび漂う。
「ワンッ! ワンっ! ワオーン!」
上のデッキで鳴き止まない犬。あの声はオリヴィエ? 彼の様子に不安が過ぎり、端末を海へと向けて映像を拡大表示。はっきりとは認識できないが、落下したのは……海洋騎士団の服を着た金髪。体はそう大きくはない。クレールか? いや誰であれ、すぐに助けに行かなければ。その場を飛び降りようとした俺の耳に、突如響いた船内放送。
《我々は海洋騎士団【エーギルの牙】である! この船は海洋騎士団が支配した!》
昼間聞いた組織の名乗り。クレールの推測通り、エステ号はシージャックを受けていた。
《本日の事件の犯人を此方に引き渡せ。場所は第八デッキ。それが出来ないならば、エッセ家の者だ。
我々は、兄弟団を許さない。三十分以内に取引に応じない限り、船を爆破する!》
「海洋騎士団!? 潜伏していた仲間が居たの?」
「ええい、船の警備はどうなっているんだ! 今落ちたのも仲間か? 海洋騎士の制服だ。あんな奴助けなくて良い! 早くシージャックの方を何とかしてくれよ!」
「海洋騎士も動物騎士も同じ騎士団だろ? 仲間じゃないのか? 信頼出来るかよ! 早くそいつを捕まえろ!」
放送により、船内はパニック状態。俺も海洋騎士の仲間と疑われ、乗客から追いかけられる。デッキを下り、走り逃げ……見付けた倉庫へ逃げ込んだ。ほっと一息吐いた所で、現実逃避が頭を擡げる。あれは本当にクレールだったのか? 自信が無い。俺の頭が身間違えだと思いたがって騒ぎ出す。彼の無事を確かめようと、端末を鳴らすが応答がない。一秒毎に、不安が大きく膨れあがった。
(何処に居るんだよ、クレール!)
船内は上からも下からも人々の騒がしい声。クレールを探すことは出来ない。せめてオリヴィエが従ってくれたなら……彼のパートナーなら、俺に出来ないことも出来るのに。
(俺は……“人間”なんだ。何も、出来ない。犬にも狼にも勝てない)
頬を伝う涙は、抱えるローランドへと落ちた。気付いた彼は心配そうに、いつもの彼の表情で……俺をじっと見上げ「ワンっ!」と鳴く。情けない手下を叱咤するボスの顔。俺の情けなさを前に、ローランドが正気に返った。何故自分がしっかりしなければならないか、思い出してくれたのだ。そんな彼の姿に、俺は涙を拭い考える。
(クレールが言っていた位置から言うと、イギリスとアイルランドが近い)
現在地を確認。他国に救援要請をするには本部のキャロルの力が必要だ。端末の非常アプリ【角笛】に手を伸ばす。これは確か、応答する必要が無い。相手が通話できない状況であっても一方的に此方の声を届けられる。前にキャロルが言ったのだ。人間を信じられないと言う俺に。これを押せばキャロルまで声が届く。だから本当に困った時にこれを使えと。
*
もう大丈夫だと。助けられた日にも、あの人に抱き締められた。目を瞑って泣いていた私は、その人の顔を覚えていなかった。覚えているのは、温かさ。懐かしくて、優しい腕。再会したあの人は、思い描いた姿とはかけ離れた人物だったが、それでも優しい人だと私は思う。もう二度と悲しいことがないように、自分を壊してしまっただけ。悲しいと感じることが、辛いと思うことがないように。私とあの子にロジェス様が浮かべた表情、私はずっと忘れない。
《良いか兄弟殺しの罪人エッセ! 残り十分だ! 遅れれば一分ごとに一人ずつ殺してやる!》
目覚めは最悪。折角良い気分で眠っていたのにうるさい放送で目が覚めた。先輩はノーアと私を残して姿を消していた。書き置きもメールもない。気を利かせて料理を貰いに行ってくれた? あの人に限ってそんなこともあり得ない。それなら何があったのか。察するに余りある情報が大音量で流れている。室内には先輩のキルケ様も、私のホルス様も見えない。先輩が連れて行ったと見るべきか。
(外部に情報を? それなら私が眠ってしまってすぐに?)
まだフェロー諸島から遠くない場所で彼らを放ったならば、上層デッキから飛ばせば……陸地に辿り着けたはず。先輩は、これから船で何らかの事件が起こることを知っていた? では今彼は、勝手に動いてまた危険な場所に向かっているのか私を置いて。
「先輩の馬鹿!」
どうして私を頼ってくれないのだろう。私がまだ半人前の猟兵だから? それでも私は貴方の弟子なのに。腹を立てながら、私は装備を調える。
《あと五分だ! 五分後に大事な場所が爆発するぞ! 船が沈んでも良いのか?》
(爆発っていうと、動力部……エンジンに何か仕掛けた?)
以前降りた第0デッキに、機関室は見当たらなかった。部外者に公開することもあるだろう。存在しないデッキに機関室を置くとは思えない。機関室は下層……おそらく第一デッキ。私に与えられた船室と同じ場所。一番危なく、一番チャンス。脱出するにも解決するにも部屋から逃れる必要がある。聞けば第三デッキ、第九デッキのレストランに賊が侵入した。船内放送の主張によると、鯨油や鯨肉が使用されていたのが原因。食べた乗客全てを始末する、それが嫌なら提供側……捕鯨支援のエッセ家が人質になれとエーギルの牙は言う。
(同じ哺乳類だから、兄弟ねぇ……世界には猿だって駆除したり食べる地域もあるのに)
愛玩動物を食す文化、役畜食を嫌う文化。知能の高い生き物を殺してはならないと言う人々。人間同士が争うのに、馬鹿げたことだと私は思う。生まれる場所を選べなくても、生きる場所や信じる物は変えられる。それなのに何故、私達は人間以外の生き物に心を傾けてしまうのだろう? 背負った重み、小さな命。リュックキャリーの中にはノーア。
「お利口にしててねノーア。大丈夫よ」
他国の文化に口出しするのはお門違いでも、この子とそっくりの犬がまな板の上にいたなら、私だって何を言うか分からない。
(いいえ、でも……! それで人を撃ったらお終いよ、人間として終わりだわ)
エーギルの牙。彼らはその一線を越えた。海洋騎士団の主張は常軌を逸脱している。
(あいつ等は、ロジェス様を撃ち殺すつもりだった。躊躇したら此方がやられる)
本当は私が撃つべきだった。あの人に救われた私が。あの女性に罪と手柄を押し付けた私を私は許せない。同じ事があるのなら、私がどんな手を使ってもあの人を助ける。様子を窺い部屋を出て、私が目指すは階段だ。目的の場所は第二デッキ。
海洋騎士団の手引きした者がいると仮定する。事件後は警備も強化されより厳重。乗り込んだならそれは予め船員か乗客に分して。ラグジュアリー船は客よりクルーが多く行き渡ったサービスを受けられる。大勢送り込むなら、客より船員側だ。そして船のオーナーはオロンド・エルガー。十中八九、この事件は彼が計画した物である。私達の依頼人、アルミダ・エッセ。彼女の推測通りに。
*
「仕事は良いの? ルナ?」
私に手を引かれ、ゆっくりと歩くアルミダ。盲目の令嬢が、呼ばれてすぐに現れてはおかしい。彼女は敵を焦らせながら設定通りの役目をこなす。アンジェリカが傍に居ないのでは、一人で目的地に辿り着けるのも不自然。誰かが同行しなければ。
「今は君が仕事だ。君に何かがあれば、うちの仕事にも関わる」
「あらそう。それならエスコートをよろしくね。展望レストランまで」
止めても彼女は聞入れない。そのまま放置も出来ず、望み通りに第九デッキへと向かう。レストランまで辿り着くと、武装した海洋騎士に装備を確認される。敵意がないことを示すため、目に見える武器は置いて来た。代わりに私が掲げるは騎士団証。
「ドイツ動物騎士団ブレーメン支部隊長リナルナ・ベルタだ。船内の安全確保のため、交渉並びに中立立ち会いを希望する」
「し、支部隊長!? あの自由都市の!?」
私の登場に海洋騎士は狼狽える。上に指示を仰がなければ判断できないのだろう。慌てる見張りは連絡を取り、同デッキのプールへ行くよう此方へ告げた。他国の騎士団と揉めることは、外交問題に発展する。人質のアルミダの傍に私がいることで、彼らの行動は制限出来る。支部から切り捨てられた騎士、此処にいるのは殆どが末端。
「時間内に来たことは褒めてやる。遅れていたらお前の婚約者から死んでいたところだ」
プールには大型の鮫が何匹も泳いでいる。プールサイドには、縛られ顔の腫れ上がったオロンドが、アルミダに呪いの言葉を浴びせていた。
「話が違う! 謀ったなアルミダっ! 遅過ぎるぞクソ女! 何の役にも立たないゴミが、貴様の所為で俺の身に何かあってみろ! 俺という後ろ盾なしに、お前の妹がどうなるか!」
船員に海洋騎士団を潜伏させたのはオロンド。エッセ家を失脚させる計画を立てていたのは間違いない。しかし、海洋騎士団の反乱をオロンドは想定していなかった。
「エッセの娘、今すぐ父親に連絡をしろ。貴様が従わなければ、こいつをここから突き落とす」
「あなた方は騎士団に戻りたいのでは? そんなことをせずとも私が話を付けられる」
エーギルの牙は本部ではなく支部扱い。隊長同士、対等に話は出来る。私の声に海洋騎士に迷いが生まれた。彼が何か発しかけたその刹那、アルミダが口を開いた。
「映画にはしていないカットがあるの。私は……知りたいと思いました。私にあの子を食べさせた時、その人はどんな風に笑っていたのか。私の食事に愛犬の肉を使った腐れ外道、騎士とも呼べない畜生共が、私をどう嘲笑ったのか」
「お前は何を言っている? とうとう頭までいかれちまったか?」
不穏な空気を感じ取り、余計なことを言うなとオロンドが釘を刺す。それでもアルミダは止まらない。場の空気が変わって行く。
「船員の皆様ご機嫌よう! 放送では乗客になどと言っていたようだけど、調べが足りませんね。私が指示したのは……あなた方の部屋の灯り、毎朝のパンのマーガリンも鯨油! 食事には鯨肉も使って差し上げたわ! 何も知らずに美味しいと言う皆様は、とても愉快でしたわ」
船員に海洋騎士が入り込むことを見越し、彼らの食事に鯨を混ぜた。オロンドお口利きの他、アルミダから情報を受け取っていたトリヴィア自身、脅しをかけて示談に持ち込む。外部への情報発信を控えることを約束し自由の身。ここで激怒したのは潜入中の海洋騎士達。真面目に任務に励んでいるつもりが騎士団から追い出され、手柄を立てて許されようと決起した。支部側の配慮だろうか。彼らは退団させられた理由を知らなかった……今この瞬間までは。
(ルジェロを殺した犯人が……海洋騎士?)
あの日私が目にしたのは……首しか残らないあの子の姿。今も脳裏に焼き付き離れない。私もこれまで何年も、その件を追っていた。しかし初耳の情報。まさか騎士団同士の密約で情報を葬られた? 部外者であるアルミダ……兄弟団でなければ辿り付けない真相。アルミダに対する卑劣な行い。天下のエッセ家に潜り込むとは容易ではない。これは兄弟団内の権力争い。海洋騎士の後ろ盾には、別の派閥があるのでは? エッセ家を潰すため、連中は罪無きルジェロを惨殺したのだ。
「私はあなた方にされた事を返しただけですわ。けれど私を手土産にしたところで、組織の爪弾き! お前達に帰る場所などないのよ!」
アルミダの高笑い。海洋騎士は一様に、嫌悪感から嘔吐するが無駄なこと。彼女は一矢報いたが、この場で暴露するのは危険行為だ。自暴自棄になった彼らは交渉の声に従わない。アルミダは憎き海洋騎士団を悪にしたい。そのために自分を殺させるつもりなのだ!
「魔女め! 何と卑劣な行為を!! 地獄で我が兄弟に詫びろ!」
激昂した騎士がアルミダに銃を向ける! 私は咄嗟に彼女を背に庇う。
「そこを退け! 俺はもう……お終いだっ、隊長なんか知るか! 貴様ごと殺してやるっ!」
「ガルルルルっ!」
男が引き金に触れた瞬間、走り抜ける影。巨大なそれは男に向かって飛びかかり、彼が撃ったのは遠い空。アンジェリカをアルミダはよく躾けていた。人権を与えながら、忠実な下僕として。彼女自身、矛盾から目を背け続けていたのだろう。復讐のために友を……道具として育ててしまったことに。
「くそっ、退けよクソ犬っ! この野郎っ!」
銃を握る手を噛み付き、彼女は発砲を阻止する。蹴られてもアンジェリカは男を放さない。男は一度銃を手放し、もう一方の手で拾い構える。
あの日まで、ルジェロは唯の物だった。アルミダが世界を動かし、動物を人に変えた。同じ事件が起きたなら……今度は大きな罪に問えるだろう。父イドラスが娘を犠牲に権力固めを望んだように、アルミダはアンジェリカの死によって復讐を果たそうとした。罪に対する償いは。あの日の私の弱さは。ここで繰り広げられる全てを目に焼き付けること。アルミダが私に望むのは傍観者であること。君の側を離れた私には。違う道を選んだ私には……私には何一つ出来ない、変えられない。その無力さを思い知れ。これはそういうことだろう。
「……アルミダ、ばかだよ……君は」
いいや、馬鹿は私か。クレールを叱責した私がどの口でそんな言葉を紡ぐのか。嗚呼、それでも違わない。アンジェリカは私のパートナーではない。私が守るべき命なのだ。私はアンジェリカへと走り出していた。人と動物の命が等価なら。殺されるのは動物でなくても構わない。
「嫌……駄目よ、リナルナ!」
背中に届いた彼女の悲鳴。目的ならば、私でもアンジェリカでも果たせるのに。アンジェを止めないのにどうして私を? つまり彼女は解っているのだ。自身の本当の答えを。
*
人間は、俺が生きるために関係の無い生き物。テリトリーが重ならない限り、お互い好きに生きていけば良い……人間も狼も。だけどその、時は来た。人間が土地を開拓し自然を壊せば、巡り巡って食物連鎖で飢えて行く。俺達狼は縄張り争いで人間に敗れたのだ。人も自然の一部と考えるなら、彼らは間違ったことをしていない。なのに何故、俺は泣いたのだろう。俺のパックを滅ぼしたあの男を憎いと思ったのだろう。いいやそれより……どうして負けた俺がまだ生きているのだろうか。時に人間は不可解なことをする。
自分達が滅ぼしかけた生き物を、彼らは甦らせようと奮闘した。彼らは彼らの文明……その発展を時に否定する。自然に帰りたいのに帰れない。自然から外れた自分達を罪のように汚らわしく思い、人間以外の生命を美しいと思うのだ。だからその美しいものを守りたいと思う者もいる。動物騎士団はそういう奴らの集まりだ。
(俺がパックに戻った時に……思ったことと、同じだ)
一度引き離された群れ。彼らは俺を迎えてくれたけど、見知った彼らの姿と自分の違いを思い知り……俺は悲しくなったんだ。俺が人間社会を忘れていれば、躊躇なんてしなかったのに。彼方に連れ戻された時、俺の首にはきっと……見えない首輪が付けられたのだ。
(パックで、俺だけが生かされた。救われた……俺が〝狼じゃない”から)
俺が狼に戻れていたら、俺もあの場で死んでいた。戦って負ける、弱くて滅ぶならそれは当たり前のこと。パックで一番弱くても、俺は狼だった。クレールに退けられ、戦えず生き延びた俺は何なのだろう。俺は何処へ行けば良い? 俺は半端で狼でも人間でもない。
『最近引き取った中に、お前と同じ目をした奴がいる。会わせてやろう』
本部へ連行された日だ。あの日キャロルは俺をローランドと出会わせた。
『人を信じられなくとも、この子ならばどうだ? 手懐けた奴もいるにはいるが、基本的にはこいつも人を嫌っている』
人間嫌いの犬が人に懐いた? どういう意味だと俺は聞き返したと思う。キャロルは言った。
『人間は嫌いでも、そいつのことは嫌いじゃない。そういうことだよ』
その種族を憎く思い否定する気持ちを消せないままでも、例外は作れる。その例外を好きになることで、種族自体への気持ちも変化していく。本当に、そんなことがあるのか? 俺は彼女を疑っていた。
『お前が何者か、確かめてみよう。この子を抱いてみろ』
手渡された瞬間、大人しかった小犬が暴れて腕から飛び降りる。驚き倒れた俺を見て、彼は途端に落ち着いた。降伏に見えたのだろう。俺に脅えていた小犬が、自信に満ちた表情で俺の足を踏みつけて……傍らに丸まった。驚く俺を余所に、キャロルは〝よくやった”などと言う。
『お前は知っているだろうが犬にも心がある。心が不安定だと本来の実力を発揮できない。お前がこの子の心を支えたんだよ。だからな……パックにお前は必要な存在だったろう。ここにはな、強くとも不安定な輩が大勢居る。人と獣の間のような連中ばかりが。彼らにとって、私にとって……お前が必要なんだ』
群れでの俺を肯定し、騎士団でも同じようにすることをキャロルは望んだ。俺が人間らしくなるよう強いることもせず、パックと似た環境を用意した。母さんみたいなリナルナ、狼の匂いがするクレール……俺のリーダーをしてくれるローランド。
『お前が何者であろうと、騎士団はお前を歓迎しよう。今日から騎士団がお前のパックだ。私はこのパックの長……だからお前が困っていたら必ず駆けつける』
押した角笛、あの日の約束を果たそうとするキャロル。彼女の力強い声に励まされた俺がいる。俺はもう俺を欺せなかった。俺は狼、俺が人間を頼ることはない。母さんを、兄さんを姉さんを殺した人間なんか。そう思ってきたのに。人間を頼ってでも、俺はクレールを助けたい。
それなのに、鼻を動かしても彼の匂いが解らない。俺は鼻まで人間になってしまったのか? この場にいる誰もが不安に飲まれそうになったその時……俺は遠吠えをしていた。クレールの、リーダーの言葉を待つように。クレールは狼だけど狼の耳を持たない。彼を求める遠吠えも、届いているか解らない。耳を澄ませた。彼の言葉が返らないか。信じるよう、祈るよう……じっと目を伏せ音を聞く。人の騒音、自然の波風……それらに紛れて聞こえて来るはクラシックの音楽だ。歌の歌詞まである。歌を聞いている内に、目から涙が溢れ出す。
(なぁ、クレール。世界にもし、お前が一人きりであっても。お前みたいな狼が、お前しかいないんだとしても。それはお前がいなくなっていい理由にはならない!)
俺はそう伝えなきゃ行けないんだ。彼が去ってしまう前に。
「……ローランド」
俺は今泣いているから。さっきよりもっと、鼻が上手に使えない。だから教えてくれないか。俺をクレールの所まで導いてくれ。
「ごめんな。俺は……狼じゃなくて、お前を傷付けたのと……同じ、人間なんだ」
俺の弱音にもお前は振り返らず、ワンワン吠えて先を促す。
「俺は人間だけど。それでもお前は、俺のリーダーで……相棒でいてくれる?」
「わんっ!」
落水したのがクレールなら自体は刻一刻を争う。低体温症……いや、意識があるようには見えなかった。あのまま気を失ったままなら生存可能時間は幾許も無い。人が群がる救命ボートは使えない。デッキ備え付けの救命筏を海に落として、膨らませる。それを待つ時間も惜しい。筏が完成するまでに、俺は物資を用意する。その間にも、ローランドには救助に受かって貰う。
「ローランド!」
合図を受けた彼は、返事一つで海へと飛び込む。口には小型の呼吸器を持たせた。ローランドは人を引き上げる力は無いが、泳ぎは上手い。それでも彼が潜水訓練を行ったのは川。海での泳ぎはこれが初めて。波に押されて上手く進めない。いや、前にブレーマーハーフェンで特訓したことがあった。あの時クレールはどうしていた? 何て言っていた?
「……っ、〝潜れ(Tauchen)”!」
咄嗟に叫んだ俺の言葉に、ローランドの姿が消える。そうだ、彼は数メートルなら素潜りできる。潜ることで波の影響も弱まって先に進みやすくなる。そうして進んだ先……落下地点で彼は何かを見つけたのか、彼は海面へと浮かび上がり吠えた。俺は出来上がった筏を漕いで、そこまで向かう。荷物の所為で遅くはあったが必死に漕いだ。
(この下に、何かあるんだな)
筏に積めた荷物のひとつは……急遽手にした重り。アニマルナイト用の鎧。軽量だが隙間が多い。鎧の中に着替えを詰めれば海水で重くなる。潜水服に液体呼吸液を流し、鎧を着込ませふたりでもっと深くへ潜る。鎧なんて言っても作りは現代的で、ワンタッチで外せるベルトが主な効率的なウエイトだ。帰りにも問題はないだろう。装備を纏ったその時……俺は誰かに吠えられた。その声はとても焦っていて不安が滲んだ声色で。声の方向には、白い大きな犬が浮かんでいる。
「オリヴィエ!?」
俺達より先に潜っていたのか? 彼が咥えていたのは海洋騎士の服……それを纏った顔の無い人。これは人間ではなくて、……俺達は嵌められたんだ!
オリヴィエはデッキから飛び降りたため、多少足の動きがぎこちない。負傷している様子だが、「大丈夫だ」と言う彼は正気に戻っていた。寒さと怪我……まずは彼を助けなければ。彼を筏に乗せるため、筏から身を乗り出した時だ。俺はオリヴィエに噛み付かれ、海中へと引き摺り込まれる。直後、俺の頭上を続けざまに衝撃が海水を抉った。
(撃たれている!)
狙撃手は、俺が筏から出るのを待っていたんだ。水の屈折で狙いが外れてくれたようだけど、顔を出したらまた撃たれる。俺を狙うのは誰だ? 海洋騎士と間違えた乗客? クルー? それとも救助を快く思わないシージャック犯、その一味? 離れた場所に浮かぶ救命ボートを目標に、オリヴィエは水を掻く。彼は救助訓練で、安全な場所までの運搬を躾けられていた。彼が見つけた最も近く安全な場所がそのボート。超大型犬のオリヴィエは俺一人運びながら、泳ぐくらい訳もない。クレールが鍛えた潜水技術もお手の物。負傷のため普段より泳ぐ速度は遅いが、彼はウエイト無しでも十メートル程度は潜水できる。既に人が乗り込んでいる救命ボートを盾にすればいい。そうしてエステ号まで接近する! ボート上の人達を撃つつもりなら、もうそうしているはずだから。乗客は世界有数の富豪達。人質としては上客でも、下手に傷付ければどうなることか。狙撃手はそれをよく知っている。船の中で俺を狙わなかったのもそういう訳だ。そいつは流れ弾を恐れている。エステ号側からボートに乗るのは危険と判断。オリヴィエは反対側からボートへ近付く。後は浮上するだけ。水面まで後十メートル、八メートル……五メートル……三メートル、一メートル!
*
「放しなさいトリヴィア! 私が行くわ!」
「いけません。私が解放されたのは……アルチナ様、貴女をお守りするためです」
指定場所に向かうと決めた私を、トリヴィアが引き留める。シージャック犯の要求は、彼女でも良いと言われているが、彼女が向かう様子も見られない。私を一人にし、トリヴィアが向かったら……私が追いかけると知っているのだ。
「私が行かなかったら大変なことになるの。どうしても行かせられないって言うなら一緒に来なさい。それで私を守れば良いわ」
「必要ございません……もう既に、アルミダ様が向かっております」
「はぁ!? 尚更問題だわ! 姉様が危険な目に遭うのは駄目よ! 今すぐ助けに」
「アルミダ様には騎士が付いています。アルチナ様はご自身の安全についてだけお考え下さい」
もたらされた情報に私は声を荒げるが、トリヴィアは取り付く島もない。
「このデッキは危険です。大きな救命ボートのある下層へ降りましょう」
私は諦め従う様子を見せ、プロムナードへ。そこでアンジェリカのリードを放す。
「……アンジェっ! アンジェが逃げたわ! 追いかけなきゃ!」
アンジェリカは姉様が大好きだ。こうして放せば真っ先に、彼女の所へ向かってくれる。そんな私の浅知恵も、トリヴィアには通じなかった。私を抱えて下のデッキへ階段を駆け下りる。
「アンジェを死なせるおつもりですか? アルチナ様」
「貴女が見捨てさせようとしているだけよ! 私は今すぐ追いかけたいわ!」
必死の訴え。私の思いが通じたのか? トリヴィアは踵を返し始める。人が殺到する救命ボートの方へ向かわずに、彼女が戻ったのは……第七デッキの宿泊部屋だ。
「トリヴィア……? どうして此処へ?」
忘れ物があった風には思えない。彼女が私の命を第一に考えてくれている事は理解している。
「全ての部屋とはいきませんが、特に高価な特別室……第七デッキ以上の客室は部屋の一部が救命艇になっています。思えば貴方の名はこの状況では悪く働く。此方の方が安全でしょう」
この度のシージャック。全てはエッセ家の娘の所為。正体を知られたら救命ボートに乗せて貰えない、或いは乗客から私刑に遭う恐れがあると告げられぞっとした。
「何で……そんなこと知ってるの? パンフレットには書いてなかったわ」
「この船を作ったのはあの男です。エルガーは貴女には危害を加えない。いざという時のため……伝えられておりました」
「……それって、あの人はこうなることを知っていたのよね? トリヴィア、貴女も」
「時間なら幾らでもございます。全てをお話し致しますよアルチナ様」
絨毯の下。床の戸を外した下に、分厚い金属の扉。重々しいそれをトリヴィアは軽々と持ち上げて……姿を現わす鉄梯子。降りた部屋がそのまま救護艇になっていた。非常時のシェルターも兼ねているのだろう。二人で使うには十分すぎる空間と物資が詰められている。
「海洋騎士は船を爆発させると言ったけど、多分そんなつもりは毛頭ないわ。貴女が私を此処に連れて来たのは、銃撃戦から逃れるため? それか見せたくないのよね? ……姉様が、命を落とすところを」
何でも話すと言った口で、トリヴィアは今度は無言。私の指摘が正解だから。
「姉様はどうしてそんな危険な旅に来たの? あの男との婚約も違う意図があるんでしょう?」
「何事も、変革には贄が必要です。墓守犬という犬が。動物人権法を作るためにルジェロが。無音の魔女という英雄誕生のために私が。アルチナ・エッセの未来のために、アルミダ・エッセは犬となる覚悟を決められたのです」
兄弟団での強権により、エッセ家は団内外から強い恨みを買っている。父はエッセ家に向けられた恨みを、姉様に背負わせ始末をしたかったのだという彼女の言葉に凍り付く。
「付け入られる隙を排除し、新興勢力と渡り合うため。婚約者を死なせたというレッテルをオロンドに貼り、その上でアルチナ様を嫁がせるおつもりだったのでしょう。彼自身も、まだ幼いアルチナ様ならばいいように操れると乗り気でした」
「はぁ!? 誰があんな男と! 冗談じゃないわ!!」
「アルミダ様もそう仰って、一計を講じました。それが彼ら〝犬騎士と無音の魔女”の因縁……彼らをエステ号に招いたのはアルミダ様です」
知らぬ所で動いていた私の縁談に身震いするも、薄暗い救命艇内ではトリヴィアの表情も窺い知れない。照明も使用できるのだが、もしもの時のために電力を残す必要があった。私はあと何時間、この暗闇に閉じ込められていれば良いのだろう。
(姉様はずっと……こんな世界を生きていたのかしら)
私ばかりが幸せで、姉様はいつも辛いことばかり。それは姉様が私を守ってくれていたから。私は最後の最後まで、姉様のお荷物なのだろうか? 悔しくて涙が流れた。
「……泣かないで下さい、アルチナ様」
「トリヴィア……? 貴女……」
暗闇で、頬へと触れた温かな手。暗闇に赤く光る目が一つ。彼女はその目に獣を宿していた。
第九の歓喜の歌の……日本語訳って良いよね。
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%93%E5%96%9C%E3%81%AE%E6%AD%8C )
歴史萌えと犬萌えと中世萌えと騎士道文学萌えを詰め込んだのが犬騎士になります。
犬→可愛い
騎士→格好いい
犬×騎士=最高!! 以上です。
続編の構想だと他の動物騎士も出したい。ペット界永遠の議題、犬VS猫戦争の内乱編とか。その時私は鳥を推し高みの見物をしながら書きます。その前にラストスパートですよ。行き詰まっていたので賞にぶち込んで尻を馬のように叩かれながら頑張ろうと思います。




