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12:魔女が生まれた日

グロ回注意

『良いのよ別に。どうせ見えないんだから』


 ボサボサの私の髪を、あの人が綺麗に整える。触れれば、髪が指に絡まることもない。


『必要だよ。君に見えなくても、人から君は見えるんだから』


 法律と現実は同じではない。盲導犬を連れていても、入店できない場所はある。個人経営の小さな店は仕方が無い。彼らにも生活がある。私の存在が迷惑となり、本来の客が遠のき潰れてしまったら申し訳ないもの。食べたい物があるなら……家に料理人を呼べば良い。


『アルミダ。そうやって君が出歩かなくなって、ルジェロは困っているんだ。散歩なら他の者が引き受けても良いけれど、彼は君と過ごす時間が大好きだったんだよ』


 あの人は心を病んだルジェロのために、私の家にやって来た。動物騎士は言葉の通じない彼らの代弁者。彼が何を悩んでいるのか、どうして急に弱ってしまったのかも言い当てた。


『君の部屋は広いけど、大型犬には狭い。運動不足によるストレスと、環境の変化による食欲の低下……一番の原因は、リーダーである君の在り方だ。彼はこれまで学んで来たことを、何一つ活かせない環境にある。彼の自信を奪っているんだ』


 仕事がないと元気がなくなるなんてあり得ない。私が否定をしても、あの人は認めない。


『彼らは本来、社会的な生き物だ。群れでの役割を誰もが持っている』

『外になんか出ても、辛いだけよ。私もこの子も……邪魔者扱い。ずっと家にいた方が幸せよ』

『あのねアルミダ。彼には仕事がある。君のペットじゃないんだ。閉じ込めて可愛がるのは、騎士の誇りを汚すことだよ』


 ボローニャ支部からやって来た新米騎士は、ルジェロのことを騎士と呼ぶ。彼も騎士団から派遣された犬。私がルジェロに盲導犬の仕事をさせないなら、他の人の所へ連れて行かれてしまう。彼との別れを私は拒み、彼をペットとして購入できないかと騎士団に持ち掛けた。騎士団は金に靡いた前例は作れないと断わり、この生意気な騎士を連れて来た。彼はルジェロに盲導犬として仕事をさせることで、私の傍に留まらせようと企んだ。


『貴方は彼が元気になればそれでいいのね。動物ばかり守って、人の気持ちなんか何も考えない。貴方は挫折したことがない、幸せな人だからそう思うのよ。人にばかり何かを強要して、我慢させてっ……! 一人で歩くことも出来ない人の気持ちが分からないんだわ!』

『……働く彼らが騎士。私は彼らを守る騎士。だから動物騎士って言うんだ』

『な、何を……』

『ルジェロと行けない場所があるなら、私が君の犬になる。それで何処でも行けるだろ?』


 優しい声……差し出された手の温かさ。私を厄介者だと思っていない。自身を動物の身に落として騎士になり、私を守ってくれると口にした。


『何処に行きたい? アルミダ。三人で一緒に出かけよう』


 あの人はルジェロの世話のため、いつも傍にいてくれた。私はどんどん彼に惹かれて行く。それが当たり前だったのに、目が見えないことを初めて辛いと思った。ルジェロが元気になる度に、彼との別れが近付くようで……あの人をどうしたら手に入れられるか考えた。


『良いのよ別に。どうせ見えないんだから』

『必要だよ。君に見えなくても、人から君は見えるんだから』


 出会った日と同じ言葉。私の誕生日に、あの人は私を街に連れ出した。ルジェロの入れない小さな店。店先にあの子を繋ぎ、彼はプレゼントを選んでくれる。


『アルミダは綺麗なんだから、これなんか似合うよ』


 安い贈り物。でも彼にとっては精一杯のエスコート。それが何より嬉しかった。


『こっちにとっておきの店があって……一回アルミダにも食べさせたかったんだ』

『ふふふ、それは楽しみだわ! ……きゃっ、どうしたの?』


 狭い路地……立ち止まった彼に、私はぶつかる。掴まれた手には汗。それに……これは何の匂いだろう? 訊ねても、彼は何も返さない。返せるはずがなかった。彼は店員に騎士団を呼ぶよう頼み、私の手を引き屋敷へ戻った。そこまで来てやっと彼が教えてくれた……ルジェロの死。店の外と中。助け声は届かなかった。薬物を使われたのか、駆けつけた私にも危険が及ぶと……彼が声を上げなかったのか。本当の所は分からない。あそこには夥しい血痕と、彼の首だけ落ちていたと……使用人達の噂話で私は知った。それから私は再び部屋に閉じこもる。謝罪に来た彼にも扉を開けずに出迎えた。


『アルミダ……私は、君に取り返しの付かないことを』


 あの人の悲痛な声。その顔も、分からない。


『……許して欲しかったら、傍に居て。ずっとあの子の代わりに。騎士なんか辞めて』

『犯人を捕まえて罰を受けさせるのが私が君に、彼に出来る償いだと……思っている』

『あの子は犬よ! 犯人が見つかっても、少しのお金が来るだけよ! そんなんで私にどうしろって言うの!? お金なんて……うちには幾らでもあるわ! そのお金で貴方がそいつらを殺してくれるとでも!?』


 扉の向こうが静かになる。何分もしてからそっと開けてみたけれど……彼はもういなかった。


『お嬢様、もう何日も食べていらっしゃらないでしょう? 少しは栄養を付けて下さい』


 私の扉が開くのを見た使用人が、彼の代わりに転がり込んだ。促されるまま食事の用意をされてしまって、確かに空腹ではあると……私はパンとスープを口へと運ぶ。


『……ありがとう。貴方が作ってくれたの?』

『お口に合いましたか?』

『ええ、とても美味しいわ』

『そいつは良かったな、呪われた魔女め! 教えてやる、お前が今喰ったのは……』


                   *


 第九デッキ……スイートルーム。師団から招いた医者も帰り、室内には静けさが戻る。オロンドが面会を許したのは、私が脅威でないと悟ったため。勝ち誇った奴の笑みを思い出し、腸が煮えくり返る。寝台で眠るアルミダ、昔より大人びた寝顔に疲労の影を色濃く宿す。化粧で隠されていた素顔は、私の知らない表情だった。離れた時間の内に、彼女は多くの困難と闘って来たのだろう。私がそうして来たように。

 近付いて見つめても、彼女の胸の内を知る術はない。弱く優しかった少女はいないのだ。今のアルミダ・エッセは賢く強かな女性。目的のためなら、全てを利用する女。旅の騎士が、鮫に襲われた盲目の女性を救助。漁船を襲った騎士を、猟兵が撃退。一つの島で同日に二つの事件。偶然とは言い難い。動物人権を作り、鯨の人権入りを許さない。鯨を売って富を得た……エッセ家。ノーアトゥーンから好かれる一方、エーギルの牙に憎まれる。そんなエッセの娘が、無策でこの地に降り立つわけがない。


「アルミダ……君が言った花言葉。あれは蕾か小輪の花に言うんだ。見えていないならその場で触って確かめるはず」


 渡した花は大輪で既に開いていた。人に聞いたや、香りで判断したと言うのは苦しい言い訳。


「君の本当の目的は何だ? ……見えているんだろう? 師団に近付いた理由は、それか? 誰が君に光を与えた?」


 狸寝入りをしていた彼女。誤魔化せないと開いた瞳は私の姿を認識し、涙を浮かべる。


「魔女アルチーナの姉妹……魔女モルガナは騎士リナルドに恋をする。だけど、その騎士は兄弟の名を騙り……恋人を取り返しに来た男装の女騎士ブ“ラダ ”マンテ」


 ラダ・ブランテ。私の偽名のモデルをアルミダは理解していた。


「馬鹿な女と思ったでしょう? 思い上がって、勘違いして。貴女だって困るから私を捨てて行った。そうよねルナ……“リナルナ”? そんな分かり易い偽名、本当に欺すつもりだったの? それとも恋人を取り返しに来てくれたのかしら? ずっと、……貴方の顔が見たかった。出会ったあの日に……事件のあの時に、貴方がどんな顔をしていたのか」


 私は今どんな表情をしている? 感情に流されるな。隊長として騎士としての務めを果たせ。


「アルミダ。君に何を言われようと私は君には下れない。部下も兄弟団には渡せない」

「それは彼らが普通ではないから? ……少し調べさせて貰ったわ。育ちが特殊なのはロラン君だけじゃない。彼のお父様は、随分と悪どいことをしていたようね」


 甘える演技は通じない。悟った彼女の声は急激に冷たくなった。


「君はそれを利用したんだろう? 服役中のオート博士の行方が知れない。君の目も博士の研究の産物か? 鯨と鮫の大量発生にも彼が関わっているのか?」

「服役中の仕事は刑務所が決める事。それがたまたま兄弟団のためになる活動だっただけ」

「私達は人間なんだ。動物のために人間を犠牲にすることがあってはならない」

「だから私は、名前通り魔女になったわ。私は私を犠牲にする」


 覚悟を決めてこの地を踏んだとアルミダは言う。自分一人で全てを終わらせると。しかしそれは誤りだ。私は彼女の肩を掴んで、真っ直ぐ彼女に訴える。


「アルチナの監視役から聞いた。アルミダ……君の父上は、彼女を大事にする気はない。本気で止めるつもりなら、敵地に向かう君に……会いに行くなど許されない」


 彼らの出発後ブレーメンで捕えた男、使用人ライカン。彼の素性を洗えば海洋騎士団との繋がりが見えた。隙を見て彼女を誘拐する計画が彼にはあり……エッセ家はわざとライカンを泳がせる。アルチナの傍には護衛トリヴィア・アンジェリカ。旅先ならばチャンスも生まれるだろう。娘の我が儘を許したイドラスは、アルチナを危険に晒したかったのだ。

 幼く可憐な娘、誘拐を企てた海洋騎士団を悪に仕立て上げる下準備。騎士団同士争わせようと、動物騎士団へも依頼。全貌が明らかになる内、新米騎士を送り込んだ痛手が響く。相手が海洋騎士団では分が悪い。あの子達ではアルチナ嬢を守り切れない。彼らは未熟で、極限状況下で動物より人を優先出来ない恐れがある。私はコペンハーゲン支部の協力を得て、偽の身分証を用意。彼らの旅に同行しフォローに努めた。


「君たちに何かがあれば、海洋騎士団を潰せる。台頭したオロンドも」


 オロンドを中心とした新興勢力と、イドラス・エッセ率いる既存勢力。兄弟団内部の権力争いに、二人の姉妹は巻き込まれた。オロンドはアルミダと式を挙げるまで油断は出来ないし、人質としてアルチナも手中に収めたい。健康なアルチナは保険として生かして残したい。対するイドラスは非情。娘二人に魔女の名を名付ける程の男。アルミダ同様、恐らく彼女も捨て駒。


「君は家の命令に従う条件として……、動物人権を作らせたのか?」


 アンジェリカが凶暴なのは……男除けのボディーガードとして育てられたから? オロンドの様子から推測するに、恐らく正しい。近付く男は問答無用で噛み付くように彼女は躾られた。この時代にあっても、名家の娘が跡継ぎを産まないことは非難される。アルミダの生は今もまだ、あの部屋の中に閉じ込められている。生きて居る限り……。


「あの子は私が死なせない。私が逃げればアルチナに全てが向かう。あの子は、自由に。私に出来なかったことを……して貰いたい。そういう、私のエゴよ」


 そうやってアルチナに何も話さないから、あの子も勘違いをしていた。全ての困難は金で解決出来ると……金さえ集めれば望まぬ結婚を破談に出来ると信じて。二人の自己完結には収まらず、姉妹の思い合う心が害となって他人へ及ぶ。クレールが、アンジェリカが、その他大勢の人々が。弱者装い他人を操り被害を広げる生き様は……悪しき魔女と変わらない。それでも、変わらない。出会った頃と同じ、殻に閉じ籠もった悲しい少女の姿が見えた。


「…………君が、檻の中に入っちゃ意味ないだろ。君は人間なんだから」


 堪らず彼女を抱き締める。動物を人に変えた魔女は、自らを動物に変えてしまった。


「……君と過ごした日々は、今でも大事な思い出だ」

「私を騎士団に攫ってもくれなかったのに、よく言うわ。貴方は高潔な騎士だから……魔女と自堕落に生きてはいけないのよ。……貴方の部下達だってアルチナが魔女になれば、あんな風に、接してくれない」


 私はあの子だけには、幸せになって欲しいの。呟かれた言葉に胸騒ぎがした。


                   *


 深夜十時を過ぎた頃、オロンドの言葉通り船は再び動き出した。窓から見える景色はまだ昼間。出港に数時間の遅れが生じたために、船は速度を上げている。落ち込むアルチナを気晴らしにと誘ったパーティ会場では、昼間の事件の噂が飛び交って彼女はすっかり塞ぎ込む。ルームサービスで食事を取らせた所、オロンドに連れられ戻ったトリヴィア。アルチナは子供のように彼女に泣き付き……そのまま眠ってしまった。事情を聞く限り、トリヴィアがアルチナに危害を加えるようには思えない。今は二人きりにさせてあげよう。


「とんだ船旅になったな」


 ペットルームに戻った僕の言葉に、ロランも軽く頷いた。


「日程は自由時間が減ったが、これからが本番だ。夜勤は僕がやる。ロランお前は先に休め」

「クレール君も病み上がりじゃろう。ここは今まで良い物を食っちゃ寝バカンスしていただけの儂に任せるべきでは?」

「そうですね、お願いします副隊長」


 確かにと頷きたくなる発言。これはマリアジさんなりの気遣いなのか。そう思えるようになったのも、僕が少しは成長できたからなのだろうか? 有り難く彼女に任せることにした。

 有事にはすぐ目覚められるよう端末を傍に置き、寝台に倒れ込む。ロランもすぐに寝るのかと思ったが、倒れた僕をじっと眺める視線を感じた。


「……何だ? お前も早く寝ろロラン。腹が減ったならお前もルームサービスを」

「クレールは、どうしてブレーメン支部に来たんだ? あそこで育った訳じゃないのに」


 ロランが僕に興味を持つのは珍しい。僕のことを知りたがるなんて。どういう心境の変化だとは思う。しかし僕が答える気になったように、ロランも変わっているのだろう。


「ベルリンから団長に飛ばされたんだ。あの人が言うには……僕にぴったりだって」


 童話の動物達が目指した場所。彼らはそこに辿り付けはしなかった。それでも……


「絶望的な状況でも夢を見て、行動できる者だけが幸せを掴める。僕の夢は実現可能で実現不可能。だからその名を忘れず目指せと……あの人は言っていた」

「キャロルは何考えてるんだろ。今ブレーメン支部、リナルナもマリアジもいないし。何を誘い出すつもりかクレール分かる?」


 団長の話題になると、ロランは妙なことを言う。彼の言葉を反芻し、僕は再び飛び起きる!


「リナルナさんに何かあったのか!?」


 端末を手に取り着信受信履歴を確認するが、支部や隊長からの連絡は無い。


「はい、クレール」


 鼻をかめとロランがティッシュの箱を投げて寄越した。一応受け取りはするが理解不能だ。


「匂い。変えてるけど、ラダってリナルナだよ」


 何でそんなことも分からないのと訝しがるロラン。あまりのことに驚きすぎて驚けない。僕は再びベッドに倒れ込むのが精一杯。鼻の利くロランが言うのだから真実だ。それならばあの駄目出しは、隊長からの言葉。彼女はマリアジさんのように、僕らの任務を監視していたのだ。


「僕はお前と違うんだ。そんなの……分からない」


 リナルナさんとラダ……二人の顔を思い浮かべ、隊長の変装遍歴を思い出す。運転手の変装は付け髭と胸部の誤魔化し程度と適当だったが騙された。対して今回は大がかり。身長も随分違って見えていた。髪型も顔つきも声も……彼を男と信じて疑わなかった。


(そういえば……隊長にはもっとよく、人を見ろと。興味を持てと言われたな)


 外見や、匂い以外に気付けるヒントがあったというのか? 思い返してみても分からない。僕はロランへの追求を諦め、元の話題へと戻す。


「あの人にはお前も会っているな……団長は切れ者だ。何を企んでいても不思議じゃない」


 キャロル団長は多くの事件を解決した偉大な人だ。でも猫だけは駄目だ。あの人はパートナー猫のシャーロッテを溺愛し過ぎ、猫絡みは兄弟団並みのポンコツとなり騎士達を困らせる。幸い今回は犬絡みの事件だから、おかしな判断を下すことはない。

 ブレーメンは狼がいない州の一つ。隊長副隊長が不在なら、師団はよからぬ事を考える。しかし彼方の第一人者、ロジェスまでもが此方へ来ている。そもそも今回の依頼はベルリン本部から。団長はロランという餌を用いて、ブレーメンからロジェスを遠ざけたとも解釈可能。

 師団は狼未生息州に狼を侵入させ、事件を起こすつもりだとして……それで世論を動かすつもりか? 団長はその企みを潰すため、他二州よりも遙かに小さなブレーメンを候補地に差し向けた。そのために作り出した、隙なのか?


「今の師団の名声は……英雄ロジェスの名で作られた名声だ。団長は、あいつの悪名を広げたいのかもしれない。そうなれば……国内での狼狩りへの意見も変化する」

「……じゃあ残念だけど、旅はお終いだ。俺達は目的地に辿り着けない」


 ロランの言葉を疑う前に、僕は端末の方位磁石機能を表示する。アイスランドはフェロー諸島から西北西。しかし針は西南西を指し示す。航路がおかしい。公海へ向かっているのか?


(領海内ではその国の法律。公海上で船内事件は旗国の国内法で裁かれる)


 船内で何かを企む者がいても船舶はデンマーク、ここもデンマークの領海ならば公海へ向かう意味は無い。いや、違う。端末に表示した船籍情報、エステ号は出発地こそデンマークだが、船のオーナーはエルガー社。船籍はイギリスだ。彼方は動物関連法令が他国と比較し多い事……それ以外に何がある? 今船を動かす者は、イギリスの法の下で何がやりたい?


「ロラン仕度をしろ。シージャックの恐れがある。万が一の場合は救助が必要だ」

「逆だクレール。今すぐ逃げるのはお前」


 確かに船内の安全、乗客を守るのはクルーの仕事。それでも逃げ遅れた者がいるなら、僕らの仕事の領分だ。真っ先に逃げることは出来ない。


「馬鹿言うな。お前一人が残るって? 僕はお前のパートナーだ!」

「違う、お前がここにいちゃいけないんだ。キャロルに聞いた。イギリスには狼が居ないんだ」


 確かにロランの言葉通り、法によって駆除されて……十六世紀にイギリスの狼は絶滅した。それ以降、イギリスでは現在でも狼の再導入は行われていない。それならジャックの犯人は、師団? ロジェスか? 狼を拒否する国の法を用いてロランを始末したいのか?


「ロラン落ち着け。お前が狙われているなら……僕がお前を」

「師団が、ロジェスが殺しに来るのは……俺じゃなくて、お前だよ」


 一瞬、彼の言葉が分からなかった。一呼吸置き、何故だと僕は問いかける。


「……クレールは、鳥の顔の見分けが付く? 俺は付かない。俺は鳥じゃないから」

「馬鹿なことを言うな。僕は、人の顔の見分けは付く!」


 言い返しながら鼓動がうるさい。不安が僕を追い立てる。


「クレールの目と鼻は人間だ。だから匂いは分からない。でも犬よりちゃんと色が見えるし、頭が良いから雰囲気で区別が付けられる。耳も良いから声で人を見分けてるんだ。だから、声を変えたリナルナが分からない」


 こいつに妙なことを言われた所為だ。思い出せないのは。リナルナさんの顔、マリアジさん……アルミダさんの顔……トリヴィア、アルチナ……母さんの顔。可愛い、綺麗、胡散臭い。印象は残っているが思い出せない。そんなはずある訳ないのに。母さんの顔が解らないなんて。


「お前は、僕が何か…………知って、いるのか?」

「クレールは狼だ。普通の狼じゃないけど」


 縋るような僕の視線に、ロランは言葉を振り絞る。寝ている僕に告げた時より辛そうに。母親を、撃ち殺された時と同じ顔で。


「狼なんだよ……クレールは」

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