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11:無敵の女王

 クレールもロランも必死に助けてくれている。私は何も出来ずに狼狽えて、安全な場所から彼らの背中に祈りを捧げるだけ。


「クレール、AA弾が尽きた!」


 泳ぐ音に釣られてやって来る鮫。最初は一匹だったのに……彼らはどんどん増えて来て、ロランの弾が足りなくなった。動きが異様に遅いため、逃げることは難しくない。しかし数が多い。避けて陸地に上がるのは骨が折れる。


「D弾を使え! 僕が行く! お前は陸から援護を!」

「わかった!」


 オリヴィエは姉様を連れ、陸へと必死に泳いでいる。落ちた場所に戻るのが一番良いが、落下地点のすぐ傍に彼らは隠れていた。水温は十度以下。早く引き上げなければ、最悪命に関わる。クレールもそう判断。船着き場からエレキ付きの手漕ぎ舟を借り、姉様達へと近付いた。上に引き上げようとするけど、水を吸ったドレスの女……彼一人では引き上げられない。


「トリヴィアさん! 手を貸して下さい!」


 クレールが叫ぶも返事はない。私は後ろを振り返る。


「ルビー!?」


 私が手を離した所為で、姉様が危ない目に遭った。泣いた私を慰めてくれる……侍女の声は何処にもない。いつでも私の味方である、彼女が傍から消えていた。そうだ、先程。祈る私に優しい声は掛からなかった。彼女に限ってそんなはずはないのに!


「アルチナ、手を貸してくれ! 一度舟を其方に戻すからこっちに! アルミダさんを引き上げる! いや……駄目だ。大人を呼んで来て! 力の強そうな人を……アルチナ?」


 クレールの声がぼんやりと、私の中をすり抜ける。聞こえていても反応できない。私は彼女の姿を求め、それ以外何も出来ない人形のよう。震える手でコールを鳴らし続けている。彼女はまだ電話に出ない。


「クレール!」


 私の目の端で、舟にロランが飛び降りた……その刹那! 電話の音を遮るよう、港で銃声が響く。音の方向、見えた漆黒! ……彼女は其方に駆けていく。


(船でも何かあったの? でも、どうして勝手に……どうして私を置いて行くの?)


 不安に駆られ、私の脚が動き出す。助けてくれる彼らを、大事な姉を見捨てても、彼女を追いかけてしまった。


「行かないで、行かないでよトリヴィア!」


 私の声も届かないのか、彼女が見ている、追いかけているものは何? それはいつだって、私であったはずなのに。答えがあると思った。私が知らない、彼女の本当が。


                   *


「……冗談だろ」


 感じた全ての衝撃を、言葉にすればこんなに短い。僕は小さくなった少女の背中と、消えては現れる大きな背びれに顔を引きつらせる。海面に浮かぶ背びれ。魚影は二メートル強。グリーンランドシャークより小型だが、舟の周りを旋回する。青鮫(ブルーシャーク)がここに出るって? そんな馬鹿な。彼らの生息域はノルウェー・イギリス近海までだろう? ここまで生息圏を広げたなんて初耳だ。


「撃つなロラン。まだ……まだだ」


 こいつは気性が荒い。タイミングを誤れば危険が増す。


「僕が下から押し上げるから、引き上げてくれ」


 僕らの制服は、ベルトがライフジャケットだ。上着を脱いでナイフとロープを掴み、返事を待たずに海中へ。その時にはもう……アルミダさんは気を失っていた。水を吸い重くなったドレスを切って、ロープを彼女とオリヴィエに巻き付ける。それから船尾のエレキモーターを踏み台に、オリヴィエを上へと登らせた。


「援護はもう良い。ロープを引いてくれ!」


 船首へ向かうオリヴィエと入れ替わり、船尾へ向かったロランがロープを引いた。オリヴィエのハーネスにロープを繋ぐ。やっとのことでアルミダさんの体が持ち上がった。僕も下から押し上げ、彼女をボートの上へと送り出す! ようやく彼女を救出できたが、小型のボートは定員だった。二人乗りの舟……積載量は百四十キログラム。細身でも超大型犬のオリヴィエは七十、ロランとアルミダさんを足して七十は越えるだろう。


「僕が気を引く。一度岸に行ってくれ」

「駄目だ! 早くクレールも!」

「僕がリーダーだ! 早く行け!」


 リーダーは唯威張り散らすだけではない。群れを守るため、戦う役目がリーダーだ。


「クレールは言った。……一人で戦うなって! お前がリーダーなら、俺はここから離れない!」


 またお前は僕の命令を聞かない。いつものように、いつもと違う表情で……僕の手を掴む。舟はグラグラ揺れて、鮫に一撃食らえばお終いだ。


「馬鹿だな」


 ロランを見上げ……僕が何かを言う前に、僕らは誰かに笑われた。


「騎士が守る動物は、パートナー以外の動物だ。非常時には、犬を見捨てて生き延びろ。英雄が死しても折れなかった剣のように」


 彼は船から泳いできたのか? 鮫の向こう……海面から顔を出す。


「……ラダ、さん」


 彼の周囲は水が赤い……怪我をしているのか? 違う、わざとだ。僕らを助けるため、彼は血で誘っているのだ! ラダの目論見通り、鮫は標的を彼へと移す。


「危ない!」


 僕らは銃で援護を試みようとしたが、ラダは必要ないと手を上げる。彼の体は浮き上がり、下から白黒の生き物が顔を出す。その大きさは四メートル弱。ラダが背鰭から手を離すと、パートナーは水中へと沈み、彼の周囲の赤は増す。食事が始まったのだ。


「し、シャチ……?」

「昔世話になった子が近くにいたんだ。助かったよスィアチ」


 ラダに名前を呼ばれると、再びその子は海面から顔を出し……嬉しげにキュイィと鳴いた。ラダは縁のあるシャチに、超音波で連絡を取ったのだとか。唖然としている僕に、【海洋騎士団】が開発したツールだと彼が答える。


「……ありがとうございました」

「間に合って良かった。……その格好で船には戻れないな。騎士団の世話になろう」


 海の王者の救援で、僕らは岸まで辿り着く。陸へ上がるとすぐに、アルミダさんは医者の元へと運ばれた。僕らもラダに案内され海洋騎士団へ。その道すがら……ラダに問い詰められた。


「クレール、一つ聞きたい。私が来なければ、君はどうするつもりだった? いやそもそも……何故そんな状況に自分を追い込んだんだ? 何故オリヴィエを舟に乗せた? 君ならその子より軽い。三人なら逃げられた。その子は愛玩動物じゃない、救助犬だ」


 質問は想定内。しかし答えは出て来ない。オリヴィエを囮にすれば、犠牲にすれば……彼の言葉は正論。使役動物の中で、唯一の例外。救助動物は愛玩動物ではなく、動物人権を得ることが出来ない。救助の場において、最も優先順位が低い命。


「リーダーとして君は間違った判断を下した。救助相手とパートナー、どちらも危機に陥った時、君は救助相手を優先できるのか? 唯可愛がりたいのなら……君は騎士を辞め、その子は引退させろ」

(僕は、オリヴィエを守ると……)


 彼を救った時からそう決めた。騎士になると決めた時、手放すことも考えたが、彼は僕から離れようとしなかった。僕らの事情を、過去をラダは知らない。動物騎士が私情を優先し、要救助者を危険に晒した。彼の目にはそう映って当然だ。


「クレール、君は優秀だ。だから全てを助けられると考える。だが現場はそうじゃない。一つ間違えれば全員の命を危険に晒す。よく考えてこれからの任務に当たって欲しい」


                   *


『嫌ねぇ、また最近狼が増えているらしいわ』

『それは余所の話だろう? 首都の方までは来ないさ。そうだ、夏の旅行のことなんだが……』

『あそこの予約が取れたの? 凄いじゃない貴方!』

『あんな事の後だ……ダイアナを励ましてやりたいしな。ロジェスも久々に会いたいだろ? あの子達とはお前も遊んで貰っていたしな』


 2110年7月某日、水曜日――……ベルリン近郊、ブランデンブルク州キャンプ場。その日は夏なのに肌寒かった。そんな記憶が残っている。


『大丈夫よロジェス。朝になれば……助けが来るわ』


 何かあっても助けるわ。僕を抱えた母が微笑む。ガソリンは尽きた。携帯端末の電池も同様に。残された希望は、太陽光の充電器。助けを呼ぶのはこの森に、日が差し込んでから。或いは……奴らが消えるまで。母が冷えていく温度と、次第に解らなくなる血の臭い。

 自給自足の生活と、自然への感謝。猟区を伴うハンターに人気のキャンプ場が、一夜にして血の海へと変わる。夏場の利用客は家族連れも多く、犠牲者には幼い子供達もいた。獲物を求め、森へと流れ着いたパック。猟区の獲物は日中に、客が殆ど狩り尽くし……翌日また、獲物が搬入される。猟区とは名ばかりの、遊び場だ。縄張り争いで都市へ都市へと追いやられた、哀れな家族(パック)。匂いばかりが漂って、肝心の獲物がいない。彼らが人を襲ったのは、度重なる偶然の惨劇。解っていても思うのだ。銃を握った時の高揚感。あの日の自分にこの力があれば……全て撃ち殺せたのにと。

 テントから、車の中まで逃げ込んだ。殿となった、父の悲鳴が聞こえていた。母も扉を閉める前、奴らの攻撃を受けた。窓の外には爛々と、黄金に光る無数の目。開けて、入れてと泣き叫ぶ……他の家族の声もした。逃げる際に、鍵を落として来たのだろう。車まで辿り着き、命を落とした人もいた。


『母……さん』


 やがて……話しかけても声が返らないようになった。眠ってしまった? 傷が酷くて気絶している? 窓の外、狼の姿は見えない。外は少し明るくなって、木々から離れれば朝日が見えるかもしれない。母が死んだと認めたくなくて、僕は車の外へ出た。森の外へ急げ、今助けを呼べばあの人は助かる。縋るよう端末を握り締め走り出す。僕がそうして僅か三秒後。森に響いた銃声に、僕は立ち止まる。まだ生存者がいるのか?撃ったなら狼もいるのか? 恐る恐る振り返る。僕の後ろには、二つの黄金が輝いていた。付いて来ている。どうして走ったりしたのか。興奮している。今にも飛びかかって来そう。僕は回り込むよう、反対ドアから車へ戻りもう片方の扉を開ける。狼が近いドアから車内に侵入! 僕は車を飛び降り扉を閉める。奴が母を狙っている内にもう反対も。やった、やってしまった。僕は正しい事をした。生き延びるために、弱った者を餌にした。きっと母はもう助からなかった。もう死んでいたと思うんだ。そう思い込もうと背を向けた、車から上がった悲鳴。あれは現実か、僕の後悔が奏でる幻か。分からずとも、僕は彼女の断末魔を生涯忘れられない。僕は人殺しなんだ。それならこれは報いなんだ。茂みから現れたもう一匹の狼……それが僕へ躙り寄るのも。

 殺すか殺されるか。生きることは罪深い。それでも生きている以上、戦わずにはいられない。僕は獲物になるものか。僕は狩人だ! 石を拾って身構える。殺されてもただでは死なない。お前を道連れにしてやる! 投げた石が運良く当たった。奴は一度キャンと鳴く。だけど、それだけだ。僕への敵意を剥き出しに、此方に飛びかかる!


                   *


『あの子を失ってから。いやその前から……君のことは、弟のように思っていた』

『そうですか。火曜日までの僕なら……貴女と同じ気持ちでしたよ、姉さん』


 【赤い水曜日(Roter Mittwoch)】の狼達……師団では【水狼(Mitt-Wolf)】と名付け、その残党狩りに力を入れた。猟騎師団長ドン・ド・マイヤーは言う。水狼を仕留める腕があるなら、年齢問わずに師団は受け入れると。僕の腕を認めたドンは師団員ダイアナの下でなら、狼狩りに参加を認める特例処置を出す。そう、表向きは。二人で水狼への復讐を……そんな話だった。


『姉さん、貴女に【墓守犬(チャーチグリム )】になって頂きたい』


 師にも渡さない。狼を、水狼をぶち殺すのはこの僕だ。あの男は僕の狂気を買って、僕を試した。壊れてしまい善悪の判断も付かないが、狼という餌を与え続ける限り忠実な狂犬。僕に首輪を付けることは出来るかと。僕の冷酷な視線に、あの人は悲しみを浮かべていた。


『私を、恨んでいるのか……?』


 事件の前にも、同様の事件は起きていた。狼への復讐者が師団を目指した理由からも明らかだ。被害者の少なさ、不注意さ。すぐに犯人が見つかり処分されていたために、人々の関心が薄かっただけ。都合良く狼が見つかるだろうか? 適当に捕えた者をエスケープゴートにし、事態の収束を図っていたのではないのか? 人食い狼はそうやって、生き延び……各地を巡る。事が露見したのは、被害者の多さと首都近くでの出来事、この二点に尽きる。


『君に狩りを教えるのは、罪滅ぼしだと思っていた……まだ、教えていないことがある』

 黒髪の師に銃を向けると、彼女は震える唇で僕に語った。

『命乞いですか? 【無敵の女王(ヘカテー)】ともあろう方が』


 資格保持者が猟師、師団所属が猟騎師。キャンプに同行した彼女は、春先に師団入りしたプロだった。猟師免許を取得した誰もが師団の猟騎師にはなれない。キャンプ猟区へ遊びに来るアマチュアとは違い、仕事のために狩りをすることが許された存在。彼女の祝いの意味もあり、同郷の人間達が大勢集まった。親同士の仲も良く、伝手で僕らも人気の場所へ宿泊できた。


『貴女は恩人だ。しかし僕から家族を奪った相手。任務や復讐。該当する言葉はありますが、貴女に恨みはありません。ですが試したいのです』


 唯一のプロ猟師。酒で酔い潰れた彼女だけ、守衛小屋で寝過ごし無事だった。彼女の成功を祝い、酔わせた大人に責任がある。それでももしも……彼女が寝ずに仕事をしていれば、死なずに済んだ人がいる。狂わずに済んだ者がいる。


『元凶の貴女が消えたら、私は元に戻れるでしょうか? 感情のある、血の通った人間に。貴女を姉と慕い、その死を悲しめるでしょうか? 私はそれが知りたいのです』


 罪を洗い流すために罪を犯す。火曜日までの僕、まともな人間だった頃の僕。おかしくなった、自覚はあった。異常犯罪はまず動物虐待から始まると。狼への復讐心は当然あるが、猟兵になった一番の理由は動物を殺したかったから。あの日の森を抜けられずに、生と死の境を彷徨っている。そんな気持ちがなくならない。強き力、圧倒的な強者として、僕は狩る側にいたいのだ。殺したい。呼吸をするように、確認したい。僕は今生きているのか。命を奪うことでしか、呼吸が出来ない異常者だ。僕ほど銃を与えてはいけない人間はいないと思う。


『撃ち返しても構いませんよ。貴女は強い。最後まで抵抗するのが獣でしょう』

『私は、人間だよ……だから君を撃たない。それでも君が望むなら、この身を犬に落とそう。代わりにロジェス、聞いてくれ。最後の教えだ、師団を目指す君に。ロジェス、人に銃を向けるのはこれで終わりにするんだ。私で最後にしてくれ』


 彼女を撃って、僕は誓った。猟兵である僕が殺すのは、人間以外であることを。誓いは僕を人間に繋ぎ留めた。その一線を踏み越えれば、僕は本当に壊れてしまう。僕が人間であるための、最後の一線だった。

 あれから僕は猟兵となり沢山の狼を殺した。興奮するのはその時だけで、存外呆気ない。僕にとって彼らは強者でなくなっていた。弱い者を一方的に蹂躙する。そんな僕の働きを、師団は喜び評価する。そんなつまらない日常。いつしか僕は……狩られたくなっていたのだ。強い者と命を賭けて、あの日の恐怖を取り戻し……過去に打ち勝ちたかった。もしくは、そのまま過去に眠りたかった。そんな狂人の前に、騒がしい少女がやって来た。


『貴方に命を救われたんですロジェス様! お手伝いをさせて下さい!』


 助けた記憶なんか無い。少女は目を輝かせ、僕のようになりたいという。僕がヒーローだって? 君は馬鹿か? 頭の中がこんな風になったら人間としてお終いだ。幻滅させようと、少しずつ僕の異常な顔を見せてやる。少女の僕への扱いは次第にぞんざいになったが、僕への憧れは変わらない。つまらない日常の水面に、小石が一つ……投げられた。


『私にしか狩れないとは……ドン、黒妖犬(ブラックドック)でも出ましたか?』

『茶化すなロジェス。出たのは狼だ。水狼の子で構成されたパックが居る。始末して欲しい』


 夫である水狼を亡くした雌狼。彼らが番になったのは、事件から数年後。リーダーだった夫は既に始末されている。人食いの血を引く危険因子は排除すべきと師団は判断。見守るべきと騎士団は言う。水狼の妻は……人の子を育てた。人に害為す存在ではないと彼らは言う。


『その少年は保護されたのでは?』

『親元から脱走し群れに戻った。人の世を知り狼に協力するなら、前代未聞の脅威となろう』

『また同様の事件が起こると?』

『次はベルリンを越える。水曜日などに収まらぬ。赤い一週間、一ヶ月などと笑えぬな。大量虐殺事件を未然に防ぐ。ヒーローらしい仕事じゃないか。スティラもまたお前に惚れ直すぞ』

『興味ありませんね。……で、出発はいつですか?』


 要は師団にとって邪魔だから、始末しろという話。その後僕がどうなるか、まだしばらくは安泰か。狼が居る限り彼らは僕が必要だ。始末される側になっても、それはそれで面白い。

 命令ならばと僕は任務を受け入れる。師団の指令で出会った狼少年は、都合の良い存在だった。人の形をした狼。復讐心を持っている。家族を僕に殺されて、僕を殺したいと願っている。彼は人ではないと師団は判断した。禁忌に触れて構わないと背中を押された。僕は試してみたくなった。その狼を殺した時、僕が何を思うのか。壊れるのか、壊れないのか知りたくなった。


『お前が狼になるのなら、僕がお前を撃つ』


 それでもあの日、再び僕は庇われた。こんなに壊れてしまった僕を、その人は人間だと言う。僕を好きでもない、いっそ嫌いであろう騎士が僕を守った。目の前の狼の味方になりたいのに、なれない自分に涙しながら。


(クレール……オート)


 母を彷彿させた君を見て、僕は人間になろうと思った。人間である僕は、もう二度と人間を殺さない。憎しみも狂気も狼だけにぶつけよう。君があの狼を人に出来たなら……僕は。


「先輩っ!」


 死地に身を置きながら、死を感じたのは三度だけ。一度目は彼女に救われた。二度目は彼に。三度目は……誰もいない。スティラでは間に合わない。覚悟を決めると、時間の流れがゆっくりと感じられた。或いはそれを恐怖と呼ぶのだろうか。長く忘れていた感情だ。


(こんな所で、死ぬのか)


 最期はきっと、狩りの最中で命を落とすと思っていた。それが人間相手に狩られるなんて情けない。簡単に殺せるのに、何故引き金を引けなかったのか。クレール……あの男の所為だ。


(この僕が、犬の死に怒るだなんて)


 誰か彼に良い名を付けてやると良い。彼の方が余程魔女だ。僕を呪って人間にした。師からの呪いを、彼が枷へと変えた。弱い人間になったから、こうして僕は死んでいく。スティラを殺したら、僕は悲しいだろうか? 何も感じないだろうか? この一年、何度も考えた。言葉では何を言っても、あの子は僕が死んだら悲しむのだろうなとは思った。だから殺せなかったのだ。面白い実験材料だったのに。

 聞こえる発砲音、懐かしい響きは風に乗り……僕の所へ辿り着く。


                   *


「海に落ちたんだって? それは大変だったな。風呂温めておいたから入りな! 着替えはこれを使ってくれ」


 街の様子から警戒していたが、エーギルの牙の人々は親切だった。海洋騎士団はうちとは違い、男が多い。彼らの優しさに触れ、風呂と食事で体は温まっても……心が冷えたまま。ラダの叱責が大分堪えている。


「おかわり!」

「ははは、美味いか坊主!」


 昼から羊肉を振る舞われ、ロランは上機嫌。まだまだ食べ足りない様子の彼に、僕の皿を隣へ流す。少しは遠慮をしろと睨んでも、ロランは何も分かっていない。


「もう行くのか? もう少しゆっくりしていったら良い。余所の騎士団の話も聞きたいしな」

「本当にお世話になりました。心より感謝いたします。ええ、私もそうしたいのですが、船に仕事を残していまして……またの機会にご一緒させて下さい」

「へっ、フラれちまったな! また近くに寄ったら遊びに来てくれよお嬢ちゃん」


 あ、またこのパターンか。苦笑いをし、礼もそこそこに僕らは船へと戻る。海洋騎士団本部を出る頃には、ラダの姿は見えなかった。預かりの仕事はどうなった? アルチナがラダを呼んだらしいが、彼女が代わりに見てくれている? それなら助かるが……資格がない彼女にペットシッターを任せるのは宜しくないだろう。そもそも……最後に見たアルチナは、様子がおかしかった。今の彼女には、まともに犬の世話が勤まるとは思えない。


「クレール、血の匂いがする。オリヴィエが言ってる。人と、犬の血。あっちから」


 ロランが指差す方向は……エステ号! 驚き船へと僕は走った。ロランもオリヴィエと共にすぐ後を付いてくる。荒い呼吸で乗車口まで戻ると、出港時間の遅れが表示されていた。


「何があったんですか?」

「知らないんですか? 近くで師団と騎士団がやり合ったんですよ」


 搭乗口の船員に訊ねると、彼は僕の服を睨みながら言う。身分証を見せ、事情を伝えてようやく船へと乗船できた。第七デッキのペットルームに戻ると……飛び出す影が抱き付いた。


「うわっ、……アルチナ!?」


 助けを呼んでくれたこと、礼を言う前に……彼女は大泣きし始める。既に引き取られたのか、室内にはアンジェリカ以外に犬の姿はない。


「落ち着いて、何があったんだ?」

「これこれクレール君、そう慌てるでないぞ」

「何故副隊長がここに!?」

「君らの仕事ぶりを、監視する仕事を任されてのぅ。ラダ君の要請で渋々ここに来たんじゃよ」


 犬以外が一人居た。この老い耄れ擬きめ、今まで何処に隠れていた!? 隊長からの命令だろうが、気分が良くない。秘密任務のマリアジさんが姿を現わす程の事態なのだろう。なるべく優しく……アルチナの背中を撫でた。犬達にそうするように。


「大丈夫だアルチナ。僕は君を責めたりしない。ロランもそうだ」

「クレール……」


 ロランはどうか知らないが、味方は多い方が良い。あいつも空気を読んで黙っていてくれる。ロランらしくはないが助かった。僕らを見上げ、アルチナは……深呼吸。その後船での出来事を語り出す。


「船が、騎士団に襲われたの。それで、戦った師団の犬が殺されて…………猟兵の人達も、危ないところで…………私……。ルビーが……人を、撃ったの」


                   *


 人が撃たれようとした。その瞬間、彼女は銃を撃ち落とす。もう片手の銃を構えたところ、そこも続けて弾き飛ばした。凄い腕。少しでもズレたら相手に大怪我させる、殺してしまうかもしれないのに。トリヴィアの作った隙で、船上は猟兵が有利な状況へ。間も無く片が付くだろう。ロジェスとスティラが破落戸を拘束し……全ては終わったかに思われた。


『……腕が、鈍ったな』

『ご存命でしたか【無敵の女王】……感謝します』


 船上からロジェスが頭を下げる。そこへ小犬を抱えたスティラが駆け寄った。彼女が抱いた犬を見つめ……ロジェスは瞳に微かな迷いを浮かばせる。狩人である彼らが知らないはずがない。それでも彼は……警察に襲撃犯を引き渡した後、スティラに従いその場を去った。


『ルビー……』


 呼んでも声が届かない。その後もトリヴィアを褒め称える人の壁。私は、私が知らない彼女を見ていた。雑踏に姿を隠そうと、隙を窺う彼女と目が合ったのは何分後?


『お嬢様!』


 周りには「当たったのは偶然だ」とか「人違いだ」と伝え、彼女が私の下へと戻る。私が彼女を見上げると、根負けした彼女が目を伏せる。認める仕草、私を騙していたこと。聞きたいこと、言いたいこと……疑念が別の言葉になって、醜い呪詛へと変わってしまう。


『凄いわね。なんでそんなに銃が上手いの? ……貴女、本当は何なの? どうしてうちに、エッセに来たの? 貴女もあいつみたいに、私を利用する気で近付いたの?』

『アルチナ、様。私は……』

『お前、エッセ家の娘か!?』

 後方から聞こえた憎悪の籠もった声。一人……身を潜めていた残党を、私の声が引き寄せた。

『お嬢様!』


 直後、響く銃声。私が振り向くより早く、彼女が相手を打ち抜いたのだ。トリヴィアは銃を捨て……私が何も見ないよう、聞こえないよう、私を強く抱き締める。


『アルチナ様……目を瞑っていて下さい。もう少しだけ……どうか』


 彼女が最後に残した言葉。いつも通りの優しい声。なのにあの時……トリヴィアは、震えていた。彼女の顔が見たかったけれど、私が彼女から引き剥がされた時……トリヴィアはもう落ち着いていた。自分の足でしっかり歩き、暴れもせず……彼女は取り調べのため、襲撃犯と共に現地の警察に連行された。私を守れたことを、誇るように堂々と。それでも残された私は……ショックを受けていた。私が彼女を犯罪者にしてしまったのだから。嗚呼、私の震えは止まらない。我が儘は幾らでもして来たけれども、一人で家を飛び出したことなど無かった。私の傍にはいつも、彼女が居てくれた。


「ルビーは、私のために……私のせいで、ルビーが」


 彼女の行動……私の名前、エッセの名。私は殺されるところだった。それほどまでに恨まれていたのだ。私が何もしていなくても、私を殺したい人がいる。そう思うと怖くて堪らない。エッセ家が稼いだお金。私が食べる物、身の回りの物。その対価を私は知らずにいた。こんなことになって、それが何だったか……私は知ってしまった。

 クレールはあまりの事の大きさに、言葉が見つからない様子。再び泣き出した私に、最初に声を掛けてくれたのはロランだった。


「アルチナは何が怖い? トリヴィアがいなくなること? 彼女が人を平気で撃てること? アルチナのためなら自分を省みないこと? 知らないことがあったこと?」

「え、えっと……」


 ロランが並べた不安の数々。それら全てが私の不安。私は犬ではないのに、彼に心を読まれたようで驚く。彼は全てを言い当てた。


「……犬を犠牲にしても仕事が上手く行けば、俺達は褒められる。アルチナは同じだ」


 トリヴィアは犬。エッセ家の、私の犬。アンジェリカも従えられなかった私が、唯一従えられた犬。彼女を犠牲に助かったなら喜べですって? 信じられない! 憤り、噛み付くよう彼を睨めば……ロランは満足そうに頷いた。


「でもそんなのリーダーじゃない。人間として上手くやったのに、アルチナが泣いているのは……アルチナは、あの人のリーダーだからだ。群れを守れなかったから、泣くんだろ?」


 ロランの言葉にクレールも、暫し目を伏せる。浮かんだ涙を隠すため。数秒掛けて彼は涙を呑み込んで、それから私の名を呼んだ。


「アルチナ……君の、所為じゃない。知らなかったことが罪であるはずがない。君は自分で歩ける人だ。知ろうとしなかったはずがない」


 それでも周りが頑なに情報を封じていたなら、他に何が出来たというのか。クレールが私を庇う。彼はすっかり私のリーダーでもあるみたい。私は彼らのこと、知らないことも多いのに……トリヴィアが傍に居る時のよう、気持ちが落ち着いていく。


「相手の怪我の程度にもよるが、その事情なら情状酌量の余地もあるじゃろう。自由刑か罰金刑か、師団と騎士団が揉めておるようじゃが」


 トリヴィアが撃ったのは現地の騎士団員。マリアジ副隊長は仲介に入ってくれるよう。


「……どのくらい、掛かりそうですか? 場合によっては、私と姉様は船を降りてここで……」


 姉様の名を口にすると、クレール達の顔色が曇る。私もすっかり忘れていたが、姉様も大変な状況にあった。


「ね、ねぇクレール、ロラン! 姉様は!? 姉様は大丈夫なのよね!?」

「勿論だアルチナちゃん。この男が俺に泣きついてね。知り合いの医者に診せて、今は元気だ。船が出る頃までにはここに戻る」

「お、オロンド……さん!?」


 ペットルームに新たな来客。勝ち誇った顔のオロンド。背後には、苦渋を浮かべたラダの顔。


「俺は知り合いが多くてね、今日中に彼女を解放することも不可能じゃない」

「……何が、目的なの?」

「アルチナちゃん、君は勘違いをしているよ。俺は本当にアルミダを愛しているんだ。……だから、君に俺達の結婚を祝福して貰いたいだけだよ。可愛い可愛い、妹にね」


                   *


 現地の師団(ノーアトゥーン)には感謝されたが、何も嬉しくなかった。目覚めない犬達を獣医に診せ……息を吹き返したのはたった一匹。エステ号に戻った先輩は……全ての感情を失ってしまったのか、無表情のまま……部屋に籠もってしまった。


「ロジェス先輩……」


 苦しそうに眠っている犬を、私はぎゅっと抱き締める。パック【スキュラ】は一頭を残し、皆殺されてしまった。隣で泣き出した私を、先輩は唯見つめている。


「スティラ君、これは私のミスです。彼らを甘く見ていました。騎士団は、甘い奴らの集まりだと……勝手に思っていたのです」


 騎士団は、その手で動物を傷付けない。しかし海洋騎士団(エーギルの牙)が守るのは鯨だけ。敵ならば……人も犬も、傷付けることを厭わない。


「先輩が悪いとか、そんなこと絶対ありません! 悪いのは騎士団の方です!」

「いいえ、私が悪いんです。獣は幾ら撃てても、人を撃てなかった……私が、あの人のように撃っていたなら」

「【無敵の女王】……あの人が、先輩を助けた人ですか?」


 問いに無音の魔女は無音を貫くが、沈黙が答えと私は受け取る。


「先輩の恩人なら、それなら私の恩人です。でも……あの人は、猟兵じゃない。実弾で人を撃ったら、私達は猟騎師じゃありません! 先輩は……正しいんです。先輩が、正しいんです!先輩は出来る範囲で、ちゃんと……助けてくれました」


 優先順位から言えば、先輩は正しい。私の判断が責められる方。気絶が目的の、致死にならない電圧でも、必ずしも安全とは言えないもの。ショック死された場合、私は責任を問われる。先輩は忠実な猟犬を犠牲にしても、人を殺さずに捕らえたのだ。道具に過ぎない猟犬を守るため人を殺してしまったら……私達は猟兵失格。そう、私達は正しい事をした。それなのに悲しいのは私が弱いから。私の心が、まだ立派な猟騎師に届かないから。


「先輩……馬鹿だって、言って下さい。私、思っちゃったんです。私がもっと稼いでいて、あの子達を人権持ちにしてあげられていたら……殺人事件になったのにって」


 猟犬は危険な仕事。保険を賭ける目的で人権法の庇護を得られる。しかし師団で彼らを人間にする、そんな酔狂者は殆どいない。狩りで失われた物は、狩りで補えば良い。それが師団の考え方。私達もそうだった。私はそれに納得していた。それなのに今は受け入れられずにいる。

 あの子達は道具。五匹の死は器物損害。別の生き物であっても命を守ろうとする人に、命が奪われたことが納得出来ない。鷲や隼は大事なパートナー……敬うために名前を付ける。けれどもあの子達は道具だから、情が移らないよう名前も付けなかった。あの子達はみんなでスキュラ。それが今更悲しいのだと私が泣くと、先輩は腕を伸ばして……犬と私を抱き寄せた。


「君は、馬鹿ではありませんよ。スティラ君」


 そんな自虐を語るのは愚かなことだけれどと、先輩が口元だけで小さく笑う。


「ノーア、君もそう思うだろ?」


 生き残った小さな犬に先輩が名前を送ると、ノーアはゆっくり目を開ける。そんな小さな奇跡を前に、やはりこの人は魔女なのだと……私は彼に見惚れてしまう。彼の瞳を見ていると、今の今まで抱えていた負の感情全て吸い取られていくようで。

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