9:二匹
私は馬鹿だ。ロランに端末をどうして返さなかったのか。騎士団の情報を引き出したくて、ロランが忘れているのを良いことに、彼の好意に甘えまくった。図書室にいた私はクレールの端末から爆音の通知を受け飛び上がる。緊急通信は承認解除がなくとも受信でき、私は電話に出た。ロランに連絡をしたいが、これが彼の通信機。彼とは連絡が付かない。聞いたラダの番号に私の端末から連絡するが繋がらない。気付いていないのか。焦る私からオリヴィエが端末を奪い……顔を近づけロックを外す。パートナーの端末を、パートナーの犬が解除できるなんて。彼らは二人で一人、緊急時にはプライバシーもない関係。それが今はとても助かった。私はロランの端末で、ラダへと電話をかけ直す。私が受けたとき同様、大きな音が鳴ったのだろう。彼はすぐに応答してくれた。
医務室で彼を待つ間、私はずっと不安でいっぱいだった。オリヴィエはもっと脅えていて、クレールの手を舐め続けている。特別室での賭けに挑んだクレールは、重傷だった。最下層から彼を救ってくれたのは、非常階段を駆け上ったという青年。彼らに礼を言う前に、私はクレールに怒鳴り泣きついていた。
「クレールの馬鹿! なんでそんな無茶したの!?」
彼はトリヴィアが貸した服のまま、戦いに挑んだ。素性を隠すためもプライドをへし折ったのだ。彼は、エッセ家の使用人として舞台に立った。彼の活躍により、私の貯金残高は目標の金額を越えている。彼のお陰。計画のための犠牲……他人を利用すること。私は想定していた。彼がここまで親身になって仕えてくれると思わなかったが、私は喜ぶべきなのだ。本当なら、私は……。
「クレールっ!」
ラダより先に飛び込んで来たのはロランとローランド。仕事が終わり部屋に戻って……彼の不在を知り、船内を探し続けていたのだろう。焦ったロランは汗だくで、顔は青ざめていた。最下層から運ばれて、やっと彼の匂いを辿ることが出来たのだ。
「……今すぐ離れろ」
「ロラン? その人が助けてくれたのよ!?」
ロランが警戒している。彼が睨み付けるのは、クレールをここまで運んだ人だ。
「【無音の魔女】っ……お前がやった! そうなんだろ!?」
「こんな所でまた君に、会えるとは思いませんでした。今はロラン君と言うのですか? やはり彼は私を騙していたんですね。ふふふ、そうでしょうとも。君が彼を手放すとは思えない。……お前は、狼だから。お前達は獲物を逃がしたりしない」
「違う、俺は……そんなこと。それはお前ら、猟兵だ! いつまでもしつこく追ってて来て、パックを根絶やしにするまで満足出来ない殺戮者だ!」
どうやら二人は顔見知り。おまけに訳ありの様子。青年がロジェスと呼ばれたことを受け、ブレーメンで以前も会った人だと気付く。クレールもロジェスという人を、酷く嫌っている風だった。彼とは何かがあったのだろう。
「地下に狼飼いがいましてね。その馬鹿は大勝ちした彼を恨み、嗾けた。私はその狼を仕留めたに過ぎませんよ。如何に天才クレールでも、犬ではない狼を従えられなかったようですね。怪我で保護したはぐれ狼と言ったところでしょうか? 付与した匂いで標的を襲わせるという簡単な訓練を受けていたようですが、止め方まで躾けられている風には見えませんでしたよ」
飼い主であっても一度嗾けたなら止められない猛獣。クレールでも止めることは不可能だったと彼は言う。言い切るロジェスにロランは激昂。パートナーへの侮辱を怒り狂った。
「違う。クレールなら出来る! 時間は掛かるかも知れないけど、クレールなら絶対出来る!」
「では時間が足りなかったのでしょう。狼は仕留めましたが、彼も巻き添えとなりました。その点はお詫びします。もしもの時は、きちんと師団がお支払いしますよ。彼への賠償金をね」
興奮したロランは呼吸も荒く、歯を剥き出しにし、ロジェスに噛み付かんばかりの殺意を向ける。彼を制止する、私の声は届かなかった。
「やめろロラン!」
医務室に響いたラダの声。弾かれるようロランはびくっと震え、悲しげな顔になる。ラダの言葉がクレールに似ていたから。クレールが起きたと思って彼の顔を見て……声が聞こえた方は別だと気付いて失望したのだ。
「残念ですね、今君を仕留めたかったのに。また日を改めましょう」
ロジェスは不穏な言葉を残し、部屋を出て行く。仕留めたかったのは此方も同じと、ロランは怒りに囚われたまま。
「アルチナ……この、血の匂いは!? あの子は無事なの!?」
ラダから随分遅れてやって来る姉様。その姿に私は再び泣き崩れた。嬉し涙ではない。目的を果たしたのに、私の胸は押し潰されたように痛いのだ。
「ごめんなさい、クレールっ……ごめんなさい、姉様……」
私に泣きつかれた姉様は、狼狽えながらも抱き締めてくれる。私が危ない賭け事をしていたこと、クレールが巻き込まれたことを知ると、姉様の腕も震え出した。
「……医者の話だと応急手当も適切だった。命に別状はない。大丈夫だ。疲れただろう? さ、部屋に戻るんだ。ここには私が残ろう」
「起きるまでいる。いたいの」
「俺もいる」
「他の患者の迷惑になる。起きたらすぐに連絡するから」
「俺はクレールの……」
「彼のためを思うなら。それなら尚更安静にしてやってくれ」
動物差別はしたくないが、怪我人の傍に何匹も犬を置いては良くないとラダは言い、私達を追い出した。今日はもうパーティなんて行く気もしない。別々の部屋に帰るのは寂しくて、私はロラン達の部屋に居座る。ルームサービスを取ってロランに食べさせ、犬達の世話をした。クレールが起きた時、オリヴィエがボロボロだったら何やっていたのだと怒られる。彼が安心するようクレールの制服を見付けてきて、オリヴィエの寝床に敷いてやった。
アンジェリカは姉様と一緒に、オロンドと話に行った。私のしたことを姉様は怒ったけれど、泣きながらありがとうとも口にした。クレールが起きたらすぐに教えて欲しいとも。
「……食べないの? 美味しいけど」
「咽を通らないわよ。私の所為であんなことになって」
ロランはシビアだ。あんな風に怒ったのに、普通に食事を平らげている。トリヴィアが教えたマナーはもはや影も形もない。
「クレールが選んだんだ。アンジェリカのため。クレールは気付いていたから」
ブレーメンで、アンジェリカの心を読んだロラン。彼はあの時既に、私のもう一つの計画を知っていた。どうしようもなくなった時……私はオロンドをアンジェリカに襲わせるつもりでいた。躾を手放して凶暴な犬に育てる。私以外には凶暴な犬となるように。人を傷付けることを躊躇わないように。問題は、私にも手が付けられない子に育ってしまったこと。
犬は殺意の動機を持たない。あったとしても話せない。動物裁判は、弁護士の腕が……財力の差が物を言う。オロンドと法廷で戦えば、アンジェリカの命はなかった。だけど、私の手は汚れない。クレールは……アンジェリカを殺人犯にしたくなくて、私の無茶を引き受けた。私は彼の正義を利用したのだ。
「クレールは犬も守るけど、人だって見捨てない。そういう奴なんだ」
*
近くでよく観察すると、それは犬ではなかった。頭と体の一部が吹き飛んでいて、もはや犬には見えないから……ではなく。牙の形、それからあの男の行動から見てこれは間違いなく狼。
「……不思議」
ロジェス先輩が撃った弾は二発。二発とも狼に命中している。
(先輩なら、一発で仕留められる)
過剰評価ではない。あの人はやってのける腕がある。これまで何匹だって同じように始末して来た。それなのに何故二発も撃ったのか?
(先輩が無音をやめるのは、狼を仕留める時)
空気銃で鹿を仕留める腕があっても、もっと小型の狼が相手なのに空気銃を使わない。狼は、静音のメリットを捨てても確実に仕留める必要がある相手。それだけ危険な相手だと、あの人は知っているのだ。先輩のライフルはセミオート。その都度引き金を引く。ならば誤射ではない。一発で仕留め損ねたのではなく“狼が二匹”と勘違いした。しかし先輩が撃ったのは、少女と狼。だからあんなにも焦り、自ら手当てし彼女を背負って非常階段を上っていったのだ。
狼が撃たれた箇所は心臓と頭部。先にどちらを貫いた? 心臓から? それとも頭で止められなくて二発目を? あの魔女がミスをした。無音の魔女は人間だった……そういうことも万に一つはあるだろう。
「野生動物は飼い慣らせるものじゃない。あの子はこいつに噛まれた。だが……撃たれた後、……動いたんですよ」
近くで見ていたという乗客が、私に情報提供をする。彼の名はオロンド・エルガー。兄弟団に組する大企業の若社長。ガスマスクにゴーグル……それから抗菌スーツを着用し、狼の亡骸を早く片付けて欲しいと私に求める。
「猟兵さん、こんな不気味な物さっさと海に捨てて下さいよ」
「駄目ですよ。生態系に影響するかも知れませんし、何処に流れ着くかも解りません。飼い主に事情を聞いて、その国の法律で適切に処分すべきです。まぁ……何処かで早めに焼却出来たら良いんですけど」
私はこれを狼と決めつけているが、ウルフドッグの可能性も残されている。飼い主から詳しい事情を聞く前に、勝手に処分は出来ない。その後も……寄港先に持ち込み供養するのも難しい。船を拾って送り届けて貰う必要がある。
(この人の言葉を仮に信じるならば……二発目を、狼が庇ったことになる)
倒れた際の偶然か。それでもあの子が本当に、犬を従えられたなら……闘技場で見せた力が真実ならば、“狼”さえも? 狼は犬と違うから従えるまでに時間が掛かった。噛み付かれる寸前に、彼女が狼を従えたなら。少女を傷付けた凶器は一度狼の体を貫いた弾で、彼女に当たったかも怪しい。彼女に付着したのは倒れかかった狼の血液で、転倒時に頭を撃ったとか、被弾したと思い込んでの気絶。仮に被弾したとしても、怪我はそう深くない。それなのに何故、先輩はあんなに動揺したのか。怪我の具合を見れば、撃った本人が一番よく解るはずなのに。
「それなら丁度いい。まだ新鮮だろう? 処分してくれそうな奴が居る。連絡しよう。おい、俺だ。すぐに来てくれ」
エルガー氏の言葉に私は面食らう。狼を食べる? 肉食獣でも乗船させているの? 船内の設備にサーカスもあっただろうか?
「いえ、この子が人権持ちの可能性もありますし、現場を保存しないと」
「飼い主にも心当たりがある。なぁお嬢さん、あんたが撃つのは獣だろ。人間の縄張り争いに首を突っ込むことはねぇ」
これ以上知ろうとすれば命に関わると脅されている。小娘だと舐められている。これが先輩だったらもっと上手くやれるのに。そう思うとなんだか悔しい。
「エルガー様に任せておけば、船の衛生問題は心配ありませんよスティラさん。この船は全ての家族との旅を約束していますから。何も乗船するのが犬だけとは限りません。犬向けの設備が整っているのは確かですがね」
オーナーの含みある説明からは詳細を見通せない。兄弟団の暗黒面が、エステ号に絡んでいるのは容易に知れたが。
「それは構いませんが、歯を頂けますか? 話は其方がまとめる形で構いません。師団に提出する書類をまとめるために必要なんですよ」
「先輩!」
応援に来てくれた? 先輩は話の途中で亡骸の解体を始めている。
「おい、何勝手な真似を」
「エルガー様、お待ちください! あの方は……」
自由すぎる魔女を相手にエルガー社長は文句を言おうとしたが、オーナーに耳打ちをされて押し留まった。師団の寵児が相手では分が悪いと判断したか。先輩は手袋越しに歯を数本削り取るとにこりと微笑んだ。
「歯さえあれば、これが犬か狼かを調べてくれる同僚がいますから。どの程度狼の血が混ざると、こんな凶暴になるのか興味深いですよね」
「ふん……まぁ、その位ならいいか。オーナー、いいな?」
ロジェス先輩はどういうつもりなのだろう。DNAを調べるにしても、その辺の肉片とか血液でも構わないのに。第0デッキに戻った彼は、普段通りの魔女だった。むしろ機嫌が良いくらい。あんなに取り乱していたのが嘘のよう。
「先輩、あの子大丈夫だったんですか?」
「駄目で僕がこんなに浮かれていたら、いよいよ怪しまれますね。そんな訳で命に別状はありませんよ。後遺症もないでしょう。さぁスティラ君! これから忙しくなりますよ!」
「ええー! バカンス避暑しながら大金稼げる暇な大仕事って言ったじゃないですか嘘吐き!」
「嘘ではありませんよ。恐らくこの船ではもう何もありません。忙しくなるのは上陸後ですね。明日にはフェロー諸島ですよスティラ君」
不思議なもので、彼がいつも通りになってしまうと、私もいつも通り。彼のペースに乗せられている。数時間前の手の震え、恐怖も忘れさせる強烈な人。この人の強さは何処にある? 私はそれを知りたい。そしていつか……。
*
「クレール!」
翌朝、ラダから彼が目覚めたと連絡を受け、私達は先を急いだ。ロランは足が速い。エレベーターの私より、階段を駆け下りた彼の方が早いのだからよっぽどだ。そんなに彼に会いたかったのか。私は通路で彼の帽子を拾った。落とし物に気付かぬ程急いでいたのだろう。
「ロラン、な、なんだ。おい、やめろ!」
今のロランは人の形をした犬だ。耳も尻尾もないのに、彼の喜びようが伝わって来る。起き上がった彼の周りを走り回って、飛びかかり飛びついて離れてじゃれついて。怪我の様子を確かめるよう鼻を動かし、彼の手を舐める。犬だと思えば可愛いものだが、彼の外見は普通に男の子だからどうしたものか。
「……見てるこっちが恥ずかしいわ」
私は思わず視線を外す。外したところで、傍で笑っているラダの姿が目に入る。
「ラダの嘘吐き。クレール全然元気じゃない」
「嘘なんか言ってないさ。だから言っただろう、命に別状はないって。怪我自体は大したことは無い。問題は噛まれた際の毒の方だ。一体君は何と戦ったんだ? 大型の毒蛇か? そんなものまでペットとして持ち込まれているなら問題だな」
「雑菌による感染症ではなくて毒ですか?」
噛まれた当の本人が、驚いた顔をしている。構って貰えなくなったロランが、そんな彼の背に飛びかかって行く。クレールが振り向き睨むと遠くで素知らぬ顔。達磨さんが転んだ(1, 2, 3, stella)じゃないんだから。それを何度も繰り返されながらの会話……クレールは結構我慢強い。
ローランドは彼の腕に収まっていて、オリヴィエはクレールの傍で眠っている。他の犬達を見習って、ロランも素直に遊んでと言えば良いのに、妙なプライドがあるようだ。
「……アルチナ。この船の裏側について、君は何かを知らないか?」
「姉様には聞かないの? 多分姉様の方が詳しいわ」
ラダからの問いかけに、私は質問で答える。
「あれから避けられていてね。連絡が付かないんだ」
「ルビーに調べさせれば、何か出てくるとは思うわ。あ……」
暇をやったのは一日。連絡をすればトリヴィアはすぐに駆けつけるだろう。しかし……呼ばずにも傍に現れ続けた人が、呼ばないと戻って来ない。そんな事実に驚いた。クレールの件で失念していたが、十分おかしい。今朝起きればすぐにでも彼女が戻って来ていると思ったのに。
(連絡……付くのかしら)
彼女に連絡するのが怖い。ずっと傍に居たのに、私には知らないことが多すぎた。
この船のこと……トリヴィアに調べさせるのが能力的には一番良い。しかし私は彼女の別の顔を知らない。どうして私の傍に居たのか、それが解るまでこれまでのように信頼出来ない。
(確かに暇は与えたけれど……私が困っている時に、泣いている時に、何もしてくれないなんて今まで無かった)
非番であっても何処からか私を見ていて、何かがあれば助けてくれた。ストーカー気質を疑うよりも、嬉しかったのを覚えている。彼女へのコールを躊躇う内に、彼らの会話は他へ移る。
「僕は……あれは狼だと思いました。牙に細工が……?」
「どうだろうな。だが何故君は狼だと言い切れる?」
「僕には、従えられなかったから……だからあれは、狼です」
「狼か。他にもいるかも知れないぞ。昨晩、寂しげな遠吠えが聞こえて来てな。番で飼われているのなら、まだ他に……」
「それロランよ。寝言だかなんだか知らないけど、昨日うるさかったわ」
意を決しトリヴィアへメールを送り、私も会話へと戻る。
「馬鹿ロラン! こんな所で遠吠えなんかして……!」
「あいつには会ったよ。俺が追い払った」
心配するクレールに、ロランは強く言い切った。少し自信が顔に表れている。きっと褒めて欲しいんだ。クレールは戸惑っている。
「……知って、いたのか?」
「クレールも香水とかすれば良いのに。付けるならバニラのが良いな」
犬は嗅覚に優れているから香水が嫌い。それでも例外的な匂いはあって、その中の一つがバニラの香り。ココナッツの香りも好むと聞いたことがある。
「お前の好みは聞いていない。……あの男に会うと、そんなに臭うか?」
嫌そうな顔でクレールは、自分の腕に鼻を近づける。私には解らないけれども、ロランの嗅覚は私達より優れているようだ。
「あんなに血の匂いがする人間、他に知らない。クレールからそんな臭いがすればすぐ解る」
ブレーメンでの接触も、ロランは知っていた。ロランがクレールとの同室を嫌がっていたのはそういうこと? 嫌な匂いがするから離れるって……あまり犬らしくないわね。自分の匂いで塗り替えそうな物なのに。
「追い払ったと言うとロラン……、お前も第0デッキに?」
「クレールは、あの……ロジェスって猟兵に会ったこと、ロランに言いたくなかったのよね?だと思って私も言わなかったけど、この病室で鉢合わせちゃったの」
「猟兵の彼の手当が適確だった。思うところはあるだろうが、今回は彼に感謝しよう」
私とラダの言葉に、クレールは左手の包帯をじっと見つめる。その視界にさっとロランが入り込み、彼の手へと手を置いた。ワンと小さな掛け声で。
「……良くやった。だけど一人で戦うな」
「クレールには言われたくない」
やっとクレールに褒められてロランは嬉しそう。端から見ても解るのに、皮肉が溢れてしまうのは可愛らしい。
「失礼しますアルチナ様、間も無くトースハウンに寄港するということですが」
「……そう」
ノックの後、医務室にトリヴィアが顔を出す。ベルゲンへの寄港時は、私はぐっすり眠っていたが、今回はどうするかという話だろう。本来この旅は避暑を兼ねた観光。ずっと船に籠もりきりというのは勿体ない。金を稼ぐという目的だけなら既に果たした。
「ルビー、姉様は何と仰ってるの? アンジェは置いて行かなきゃ駄目よね?」
鳥の楽園とも呼ばれるフェロー諸島。原則的に今回のツアーでは、生態系の保護を理由に動物は持ち込めない。予防接種を受け、マイクロチップ装着している者ならば可能だけれども、事前の申請が必要。そもそもアンジェリカは正式な盲導犬ではない。置いて行くのが無難。こうして離している内も、クレールとロランの端末にはペットルーム利用依頼が舞い込んで来る。
「何よロラン」
「アンジェリカは人間って言わないんだ?」
ロランの言うよう人権持ちならごねれば通る。パスポートを持った人間様なのに、どうしていけないの? そう駄々をこねれば動物人権加盟国なら世界の何処でも入国可能。
「……貴方達と会う前なら言ったと思うわ」
アンジェリカを自力で躾られなかった私では、彼女を逃がしてしまった時……きっとその責任が取れない。その先で問題を起こして罰せられるのもアンジェリカ。彼女を人と呼ぶならば、リードを離した責任を彼女に押しつけることになる。どんなに私が悪くても。彼らがあの子に、人への信頼を思い出させてくれた。あの子が私を信じてくれた。私が投げだそうとした、犬との絆……守ってくれたのは犬騎士二人。もう裏切ってはいけないと……そう思ったのだ。
「人と同じ権利があっても、あの子はやっぱり犬なのよ。私が守ってあげなくちゃいけなかった。だから、あの子のこと……よろしくね。姉様から預かって来るわ」
私はアンジェリカを人殺しの道具にしようとしていた。大好きな姉様を取り戻すために。背を向けた私をラダが呼び止める。
「それなら皆で第七デッキへ戻ろう。そうだな……クレール、動けるか?」
ラダはクレールに肩を貸そうとしたが、身長差があり過ぎる。背負われるのも抱きかかえられるのも嫌だと彼は、自力で歩き出した。毒の方も平気な風。エレベーターに乗り、戻って来た第七デッキ。ペットルームの前には沢山の依頼人。これでは彼らは寄港地に降りることは無理か。数日の付き合いなのに、彼らを置いて行くことが寂しく思える。
「姉様!」
「良かったわ、クレール君もすっかり元気そう。連絡してって言ったのにもう! アルチナ、昨晩は心配したのよ?」
「私だって心配したわよ。電話したのに姉様に連絡付かなかったし……大丈夫? あの男とか変な乗客に絡まれたりしていない?」
行列の中に、アンジェリカと姉様がいた。姉様は島へ降りるつもりなのだろうか? アンジェリカが離れれば、オロンドが近寄って来る。
「クレールもロランもここは初めてだろう? 一度見ていた方が良い。留守番は私がしよう」
「留守の間船で事故があったらどうするんですか? 貴方はパートナーを連れているようには見えませんが」
「そこは君たちのパートナーどちらかに助けて貰う。いいかいオリヴィエ、ローランド?」
ラダが犬達に命じると、二匹は彼に従い傍へと向かう。彼らの様子にクレールは驚いていた。
「ラダさん、貴方も犬騎士なんですか?」
「彼は二種免許のある隊長候補の騎士様よ。派遣先で組まされたパートナーともすぐに打ち解け仕事をされているの。私も以前、ラダ様の力をお借りしました」
話を誤魔化そうとするラダの代わりに、姉様がクレールに彼の素性を教える。
「アルミダ……それはもう良いだろう。さて……上陸許可は申請したが、一頭分しか許可が取れなかった。どちらを連れていく?」
「オリヴィエ」
「オリヴィエが良いと思う」
面白いことに、クレールのみならずロランまでが即答をした。どうしてと私が尋ねると……彼らはさも当然と語り出す。
「船に動物は置いて行く。それなら船外での救助があるとするなら相手は人だ。ローランドは、溺れた人を自分だけで助けるには向かない小ささだ」
目的が違うとクレールは言う。水難救助犬として優秀な大型犬ニューファンドランド。その犬種を小型化されたのがローランド。
「戦いは、一人でやるものじゃない。群れでやるんだ」
ロランが胸を張って言う。いずれローランドはリトルニューファンドランド隊を率いるリーダーとなるのだと。小さな泳ぎ上手達が、協力して救助を行う。人が入り込めない瓦礫の隙間もスイスイと。物資を届ける他に、彼らに取り付けたカメラで現場を知ることも出来る。そんな話に納得はしたが、腑に落ちない。普段あんなにベッタリしている癖に。
「ローランドは貴方のパートナーなんでしょ? 辛くないの?」
「ローランドが俺のボスだから」
「何それ」
「リーダーは気を張る仕事だから疲れるんだ。ストレスが溜まらないよう、たまに休ませる必要がある。クレールがローランドの役目を肩代わりしているのもそういう理由だろうな」
自分より下の存在が必要で、自分より上の存在に救われることもある。なんだか不思議。ラダの言葉に、私は考え込んでしまう。
(よく分からないけど、ロランはローランドを休ませたいのね)
結論付けてようやく納得。慣れない船旅に、ローランドの小さな体には負荷がかかっている。彼らはこれでも犬騎士。犬の心身の健康状態を見抜く目を持っていた。
「アイスランドの時は、当初の予定通りローランドに任せる。雪崩救助犬からレスキューをしっかり学ばせたい。ロラン、それでいいか?」
「クレールが決めたならそれでいいよ」
さらっと吐き出されたロランの返答に私の胸が熱くなる。私よりロランは年上なのに、我が子の成長を喜ぶ親のような心境だ。クレールも彼の言葉に驚いて、相槌打つ様子がぎこちない。自然と彼をリーダーと認めた態度に、ちょっと感動してしまう。ああ、あのロランがと。
「クレール、照れてる?」
「まだ風邪気味なだけです」
顔が赤いとからかうと、敬語口調に戻された。どうやら拗ねている様子。私が軽い口調で謝る間、視線を感じて振り返る。私を見ていたのはトリヴィアだ。私が誰かと仲良くすると良くあること、いつも通り。いつも通り? 違う。怒りや嫉妬ではない……これは、悲しみ?
ロランに投げかけた言葉が、どうしてだろう。私の中で甦る。「辛くないの?」と――……




