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#1 始まり

 夢を見ていたと断定しても割り切れない部分はたくさんあるし、夢を見ていなかった、というにはとても嫌な話だ。とりあえず、遠い記憶の中にある断片をいくつか拾いながら話してみようと思う。


 あれは蒸し暑くなってきた初夏の頃、六月だ。ジメッとした梅雨の匂いと紫陽花の濡れた露の匂いを楽しむ、なんて呑気な言葉遊びなんてできないような話でもあるかな。

 私の専門学校が休みの土日に小旅行に行くこととなった。その次の月曜日には私の誕生日があり、「じゃあこの土日の機会に旅行に行ってしまおう」という同級生の友人の軽い判断によって決行されたものだった。

 宿は一級河川近くの、家から車で二時間ほどの宿で、はっきり言うとボロい。直前になっての予約だったので良い宿もあまり取れなかったそうだ。外見より内容の質が良ければいいでしょう、という友人の押しに押されて不機嫌ながらも泊まった。泊まってしまった。

 田舎の、田園風景に囲まれた景色は全く新鮮味が無く、その中の山にある木造の宿なんて、自分の実家とそう変わらないじゃないか。という田舎生まれ田舎育ちの私は考えてしまう。

 こんな最悪のスタートから始まった誕生日小旅行だったが、この先にもっと最悪なことが起こるなんて私は運が無いと思う。


 宿の中はまるでホラーゲームにでも出てくるような完璧なお化け屋敷だった。もう帰りたいと思いながら女将さんの後ろに続く。女将さんさえも卒寿近くのお婆ちゃんで、年輪のように深く刻まれた皺が一層肌を暗くさせ、恐怖を感じる。腰の九十度近く曲がった歩き方は右に左によろめいて危なっかしい。

「さあ、ここのお部屋ですよ」

 きつい訛りの入っていそうな女将さんはきわめて標準語に聞こえるよう努力したのだろう、どっちつかずの変なイントネーションになっている。どうやら私達を都会の人間だと思っているらしい。友人と顔を見合わせてクスリと笑った。まあ、面白いし何も言わないでおこうと目配せして部屋に腰を下ろす。

「ここらは河童って妖怪さ出るんすよ」

 菓子と部屋の鍵を机に置きながら女将さんは、変わらず変な標準語で言う。幽霊じゃないんだ、という失礼な言葉は飲み込んでてきとうな相槌を打つ。

「じゃあ見かけるかもしれませんね」

 友人のヒカリは冗談めかしてそう言った。彼女は誰にでも愛想が良く、好奇心が強い。この女将さんに対してもそうだった。

 女将さんはヒカリの言葉に何も応えず、会釈だけをして部屋を出ていった。ヒカリとは対照的に愛想が悪く、どこかミステリアスなお婆さんだった。どこか絵本で出てくる魔女を連想させる。

「いやー、疲れた! めーちゃんが全部私に運転任せるからさあ」

 女将さんが出ていくなり、ヒカリは私への文句をたらたらとぶつけてくる。右腕が焼ける、運転に集中して音楽が聞けないとか、そういう小さなこと。そうはいってもまだ免許持ってないし、という言い訳は宿に入る前もした気がする。私達はこんな会話を三回くらいしたのではないか。

「……というかヒカリ、私のあだ名、前と変わってない?」

「うん、めーりんはもう飽きた」

 この会話も何回目だっけ。彼女はあだ名を会うたびに変えてくる。特に意味はないんだろうが、天真爛漫が服を着て歩いているようなヒカリにとってはとても重要なことらしい。あだ名が友情を決めるとかなんとか……とりあえず面倒くさい。名前関連の話では、私の名前がメイだからって「私はサツキに改名する」と言い出したりもあった。

 まだ文句を垂れるヒカリを無視して部屋を見回す。一人分には少し広く、二人分には少し狭いような部屋だった。でも机を退かせば二人分の布団は敷けるスペースもあり、許せる程度だろう。部屋で一番大きな窓からは川と緑が見える。外を見る限り人工物は見当たらない。

 薄汚れた畳、机の上は菓子とお茶セット。落ち着くといえば落ち着くけれど、毎日ここに居たいとは思わない。そんな感じ。

「私ちょっとだけ寝るね」

 ヒカリは座布団を枕代わりにして寝転ぶ。彼女の長い生まれつきの茶髪はいつの間にかゆるく一つに結ばれていた。首には玉のような汗が出ている。確かに、この部屋は暑い。季節のせいもあるだろうが窓を開けても自然が多すぎて風が通らない。彼女が二時間の運転で疲れているのは知っているので、気を使って私は外を散策することにした。

 部屋の、やけに重い戸を開けて廊下に出る。そこはひんやりとしているが、梅雨だからか湿気の多い嫌な空気が身体にまとわりつく。天井には蜘蛛の巣があり、ちょっと気分が落ちた。ぎし、と鳴るこの床は夜歩いたらもっと怖いのだろう。ましてや廊下の窓は小さく、照明も豆電球の心細い光しか無いので夜出歩くのはやめようと思った。

 ぎしぎし、ぎしぎし。世の中にこれより怖い音なんてあるのだろうか。


 宿の玄関の戸を開けて外の空気を吸う。自然が多いだけあって気持ちのいい空気だった。吸って、吐いて。

ーーパシャリ。水が足元にかかるのを感じる。

「ひゃ」

「あっ、ごめんなさい」

 女将さんが水撒きをしていた。たしかに外は暑いけれど、この湿気が多い空気に水を撒くのはどうなんだろうか。地面が蒸されているような。大丈夫ですよ、と愛想笑いをして女将さんを見ると彼女の顔は真っ青で血の気がない。息が荒く、皺だらけの顔はもっと深く刻まれていく。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「えっ、ちょっと……女将さん?」

 女将さんは突然何回も謝りだす。彼女は水が入っていた桶を蹴ってしまい、水が溢れた。それを見て女将さんは狂ったように宿の中に駆けていった。

 突然の気味の悪い行動に肌が粟立つのを感じる。桶を端に片付けてあげて、私は逃げ出すように宿から離れた。もう帰りたい、という欲求が余計に増してくる。

 ヒカリに報告するべきだろうか。でもこれくらいのことで帰りたいと思うのは私の心が狭いのか? 悩ましく思いつつ私は辺りを散策することにする。


 宿の裏の庭には多くの紫陽花が咲いていた。その分、剪定や手入れは長年されていないように見える。紫陽花は全部、水彩画で見るような淡く優しい水色だった。しかし冒頭でも書いたとおり、梅雨の匂いと紫陽花の濡れた露の匂いを楽しむ、なんて事はできない話になってきてしまった。暑さからによる汗か、女将さんの行動による冷や汗か、私の背中をなぞるように落ちる。

 引きつって強張った表情筋は、紫陽花を愛でてみても緩まない。もう気にしないことにしよう。大丈夫、大丈夫、と自己暗示をかけた。多分、私の気にしすぎだろう。

 庭の奥に行くと、大きい一級河川から枝分かれした小さな川が流れている。部屋から見えた川と同じだろう。とても浅く、透明度が高い。子供達が平和にここで遊んでいる風景が目に浮かぶ。

「お姉ちゃん投げるの下手ー!」


ーー目に浮かぶ、というか、実際に見えた。

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