第92話 帰国
「なあ、なあ、なあ、孝一郎、優花ちゃんがイギリスへ帰っちゃうって本当なのか?」
月曜日。俺と芳乃が登校して教室に入ると、挨拶もそこそこに亮太がやかましく話しかけてきた。
てゆーか亮太、神々廻優花CEOをいつのまにか「優花ちゃん」とか呼んでるんだな。まあいいけど。
「優花が? …………いや、そんな話は聞いてねえぞ」
俺と芳乃、春香、優花、牛太郎は一昨日吉鷹村で花見をしたばかりだ。まあ花見のことを話せば、また亮太は「裏切者」だの「親友条約は解消だ」だの騒ぎ始めるだろうから言うつもりはないが。それにしても、あの日優花とも仕事のことやプライベートなことや、ずいぶんいろいろ話をしたが、イギリスへ帰るなんて一言も言っていなかった。
「だって今朝のワイドショーで、どっかの新聞社がスクープしたって言ってたんだよ。その記事、ネットでも見られるぜ、ほら」
そう言うと亮太は自分のSPDを俺に手渡した。
「日刊トーキョーウェブ? これって有名なゴシップ新聞のウェブサイトじゃねえか」
俺はうろんな目で亮太を見た。
「そうかもしんないけど、書いてある内容はホントっぽいぜ。しかもイギリス帰国は今日の昼11時くらいの飛行機だっていうじゃねえか。どうしようかな俺、優花ちゃんがいない日本なんて、いる意味が無いしな。俺も一緒にイギリスに行っちゃおうかな」
いや、亮太。おまえが付いて行っても優花には何のメリットも無いし、そもそも相手にされないと思うが。
それにしても本当なのか? 優花がテレビで北総エナジーCEO就任発表をしてから十日も経っていない。しかもこれから立ち上げる石室山の社団法人の理事には優花も入っている。いくらなんでも何の相談も無しにイギリスに帰るわけがない。
俺は自分のSPDで優花と同じクラスにいる妹の春香にショートメッセージを送ってみた。いまならまだ中学校も朝のホームルーム前のはずだ。
『優花は登校してきているか?』
返事はすぐに来た。
『来てないよ。今日はお休みみたい。てゆーか、なんだかイギリスに帰っちゃうっていう噂が流れてる』
『そうかわかったサンキュー』
「で? どうするんだよ、孝一郎」
と亮太が言った。
「どうするって、なにをだ?」
「空港へ見送りに行かなくていいのか、ってことだよ。優花ちゃんとも仲いいんだろ?」
「行かねえよ。なんで俺が……。だいたいイギリスに帰国とかあり得ねえ。あいつにはまだこっちに山ほど仕事があるんだからな」
「じゃあ、あり得ねえかどうか電話して確認してみろよ。知ってるんだろ? コール番号」
亮太が俺をけしかけるようにそう言った。
俺は時計を見た。ホームルームの時間までまだ十分ちょっとある。
「そうか。そんなに言うなら電話してやるよ」
まあ俺も気になるっちゃあ気になるし。しょうがねえか。
SPDでコールすると、意外なことにすぐに優花が出た。
「あら、孝一郎さんから直接お電話をもらえるなんて嬉しいわ。今日は学校じゃないのかしら?」
「いや、学校からだよ。だから手短にしたいんだが、おまえがイギリスに帰国するって噂になっているんだ。それは本当なのか?」
「…………」二、三秒の沈黙の後、優花が答える。「へえ、それで心配になって電話をくださったのね? うふふ……もし本当だとしたら?」
「だとしたら……って、おまえにはまだまだこれから、こっちでやらなきゃならない仕事が残っているじゃないか。それに石室山だって――」
SPDに向かって話をする俺の声を、優花がさえぎった。
「あ、ごめんなさい。搭乗手続きの順番だわ。11時すぎの飛行機だからあんまり時間がないの。また連絡するわね」
優花はそう言って電話を切った。
まじかよ…………。
本当にイギリスに帰っちまうのか? …………神々廻優花。
「だいたい話は聞こえてたぜ」亮太が言う。「で、どうするんだ? 見送りは」
「行くわけないだろ。もし行くとしても、いまから11時の飛行機なんて間に合わねえし」
「えーっ!? わからねえじゃん。まだ2時間ちょっとあるぜ? 調べてみろよ」
「だから行かねえって言ってるだろ。そんなに言うなら亮太が勝手に調べりゃいいじゃねえか」
「おーし、わかった」
亮太はSPDで乗り換え案内のサイトにアクセスし、成田空港までの到着時間を検索したようだ。
「いまから出て、もし学校からタクシーかなんかで30分で最寄りの下総駅に着いたとしても、えーっと、一番早い電車が9時57分成田行き。成田で乗り換えて成田空港駅到着が……10時44分だってさ。うーん、たしかに11時発の飛行機の見送りは間に合わねえかもな」
「納得したか? 亮太。ほら、さっさと席に着けよ……」
やっとこのわけのわからない騒ぎが収まったかと思ったが、ここで口を挟んだのは意外な人物だった。
「優太郎。成田空港に最短で行く方法を教えろ」
芳乃だ。
しかもあろうことか質問した相手は牛太郎だった。こいつがそんな質問に答えられるわけがない。しかし、芳乃の言葉を聞くと、それまでなにやら難しそうな本を夢中で読んでいた牛太郎が、突如がばっと顔を上げ、まったく抑揚の無い、機械のような声で喋りだした。
「成田からイギリス、ニューブリティッシュエアライン11時06分成田発ヒースロー空港直行便。
出発、第1ターミナル、最寄り、成田空港駅。
最速、京成成田スカイアクセス。
印旛ニュータウン駅、10時00分発、特急成田空港行き、乗り換えなし、成田空港駅、10時24分着。
ニューブリティッシュエアライン出発20分前搭乗締め切り、10時46分まで。
学園前バス、9時27発印旛ニュータウン駅行き、遅延なし所要32分、間に合わない。
学園前からタクシー」
うわ、なんだこいつ、普段は「ぶはー」とか「ぶもー」とかしか言わねえくせに、急にべらべら喋り出しやがった。めっちゃ棒読みだけど。なにかが乗り移ったのか? それともどっかにスイッチでもあるのか?
もちろん俺以外のクラスメイトも唖然としている。
しかし……いまひとつ何を言っているのかわからないな。
すると牛太郎の話を聞きながらメモをとっていた芳乃が言った。
「優太郎はこう言っている。
11時すぎのイギリス行きの飛行機なら、おそらくニューブリティッシュエアライン11時06分成田発ヒースロー空港直行便。この便の出発は第1ターミナルで最寄りは成田空港駅。JR成田線より早いのは京成成田スカイアクセス。印旛ニュータウン駅から10時00分発の特急成田空港行きに乗れば乗り換えなしで成田空港駅に10時24分着。ニューブリティッシュエアラインは出発の20分前で搭乗締め切りだから10時45分くらいまでに搭乗口に着ければ会える可能性がある。学園前からのバスは9時27発印旛ニュータウン駅行きだが、遅延なしでも32分かかるからぎりぎり間に合わない。学園前からタクシーが拾えれば10時の電車にじゅうぶん間に合う」
「…………それ、本当なのか?」
俺が牛太郎の顔を見ながらたずねた。
牛太郎はぼーっとした表情に戻り何も答えない。
すると芳乃が答えた。
「優太郎の言っていることは本当だ。優太郎は時刻表だろうが何だろうが、文字から記憶した情報は決して忘れない。それも一字一句正確にだ。情報の組み換え計算も早い。大量の情報を考慮するから、電車やバスの乗り継ぎルートも専用アプリより的確だ。まあ、必要最小限のことしか言わないから、理解するには少々コツがいるがね」
「まじでか…………」
俺は驚きのあまり絶句してしまった。しかし……。
「いやそれが本当だとしても、駅に着くのが搭乗締め切りの20分前じゃ、どうやったって見送りに間に合うわけがねえ。優花だってもっと余裕をもって早めに飛行機に乗るに決まってるだろ」
「なに言ってるの!」急に立ち上がって大きな声を出したのは前の席の宮崎六実だ。「そんなの、行ってみなきゃわかんないじゃない!」
うわ、めんどくせえ。なんでこいつが話に入ってくるんだよ。
「そんなことわかりきってるよ。無理なもんは無理だ!」
すると宮崎は目を細めて「ふっ」と笑うと、俺の肩にそっと右手を置いてこう言った。
「富岡くん。男にはね、無理だとわかっていてもやらなくちゃいけないことがあるのよ」
なんだその安っぽい青春ドラマは。
「そんなものは無えよ! だいたい俺は最初っから見送りなんか行かねえって言ってるじゃねえか。おまえら、もう席に着け。ホームルームの時間だぞ」
すると教室前方入り口から……パチ、パチ、パチパチ、と拍手の音が聞こえてきた。
「ううっ……ぐすっ……いい話だわ………ぐすっ」
「ミソちゃん先生!」
見るとそこにはレースのハンカチを手に、ぐすぐすと泣いているミソちゃん先生の姿があった。
なんか前にもあったな、こういう光景。デジャブか?
「みんな聞いて!」ミソちゃん先生が、パンパンと手を叩いて生徒の視線を集めた。「今日のホームルームは自習にします。富岡くんは貴重品だけ持って正門前に来るように!」