第89話 あの日に戻って
俺たちはのんびり歩いて学外区を抜け、県道を西に向かう。クルマの通行は少なく、景色はだんだん田んぼや畑ばかりになってきた。行く先には新緑の石室山が見えてくる。
「お兄ちゃん」
春香が俺に声をかけた。
「なんだ? 春香」
「いっぱい咲いてるね、オオイヌノフグリ」
「ああ、そうだな」
見ると日当たりのよい田んぼの畦道や、畑の農道の脇など、あちらこちらに小さな紫の花の群生が見える。
先週の金曜日に石室山に向かったときは雲行きが悪くて走っていたし、景色なんか見ていなかったけど、この花はこのあたりではどこにでも生えている珍しくもない雑草だ。
「あたし、調べてみたんだ」
「なにを?」
「オオイヌノフグリの花言葉はね、忠実、信頼、清らか、なんだってさ」
「……そうか」
いったい春香は何が言いたいんだ?
「だからこの花を異性に渡すと『わたしは清らかで忠実な愛を誓います』っていう意味になるんだよ」
「……それは俺が優花にオオイヌノフグリを渡した時のことを言ってるのか? 俺はあのとき花言葉なんて知らなかったし、それに――」
「あとね。オオイヌノフグリの別名は『星の瞳』っていうんだって。たしかに優花ちゃんって、瞳の中に星がキラキラしてそうな美少女だもんねえ」
春香は薄笑いしながらからかうような口調でそう言った。芳乃は無表情だがどことなく不機嫌そうにも見える。なんだこれ? もしかして俺は責められてるのか?
「だから俺は花言葉も別名も知らないし、あのときは皮肉のつもりでくれてやっただけだ。なんにも他意は無え」
「お兄ちゃんに他意は無くても、優花ちゃんはどう受け取ってるのかな? たとえば……このお店知ってる?」
春香はそう言うと、自分のSPDでジュエリーショップらしきホームページを開いて俺に見せた。
三咲ジュエリー。
名前だけなら知っている。「ティファニーかミサキか」と言われるくらい、若い女性に人気のジュエリーブランドだ。
「三咲ジュエリーってね、北総シシバグループが筆頭株主なんだって。つまり子会社みたいなものらしいよ。それでね。この会社のオンラインショップのページを見ると……」
春香はSPDを操作して別のページを表示した。
俺はSPDを借りてページを見る。
「オオイヌノフグリ特集コーナー? なんだこれ……。ブローチ、指輪、ペンダントヘッド、イヤリング…………」
大きな写真で特集ページのトップを飾り「1番人気!」と書かれたブローチは、神々廻優花が身に着けていたものとよく似たデザインだ。そしてけっこういい値段だが「SOLD OUT」となっていた。よく見ると他の商品もすべて「SOLD OUT」だ。
「ね? 優花ちゃんの影響で、いまやオオイヌノフグリは流行の最先端なんだよ?」
「そんなバカな…………だって、オオイヌノフグリ……だぞ?」
「これだけじゃないよ」
春香はさらにオンラインショップページにあるリンク先を開く。有名なSNSサイトだ。
そのページには俺も見た覚えのある、美しい外国の女優の写真が掲載されていた。
「有名なハリウッド女優さんが昨日アップした記事だよ。ほら、胸にオオイヌノフグリのブローチが付いてるでしょ」
「…………ほんとだ」
たしかにその女優のドレスの胸には、優花のものと同じような紫の花のブローチが飾られ、英語の記事にはわざわざ和名の「OHINUNOFUGURI」という文字が書かれていた。
「すごいねー、お兄ちゃん。世界に流行を発信しちゃったね」
口では「すごいね」などと言っているが、その口調は明らかに俺を小バカにしたものだった。
「俺は関係ねえだろ。ジュエリーだって有名になった優花の人気に乗っかってるだけだ」
「でも三咲ジュエリーだよ? シシバグループだよ? これ優花ちゃんの公式グッズみたいなものじゃない? 優花ちゃんには特別な思い入れがあるんじゃないのかなー、誰かさんにもらったオオイヌノフグリに」
「俺の知ったこっちゃねえ」
くそ。なにを考えてるんだあいつは。なにもわざわざそこらじゅうにある雑草をブローチにしたり、ジュエリー商品にしたりしなくてもいいだろうに。おかげでとんだとばっちりだ。次に会ったら文句を言ってやる。
そんな俺にとっては面白くもない話を聞きながら歩いていると、道の向こうにバス停の小さな木造屋根が見えてきた。
石室山東バス停丁字路。
先週の金曜日。まさにここで神々廻優花から盗聴器の仕込まれたペンダントを渡されたことが、すべての事件の始まりだったんだよな。俺がそんなことを考えながら、バス停の前の丁字路を左の石室山方面へ曲がろうとした時だった。
バス停の小屋の陰から、一人の少女が駆け寄ってきた。
「せーんぱいっ!」
春香と同じ大沢中学の制服。長い黒髪をツインテールにまとめ、赤いフチの眼鏡をかけた地味で真面目な雰囲気のその少女は…………。
「な…………なにやってんだ? おまえ」
神々廻優花だった。
さっきまでオンライン会議に参加していたはずなのに、先週と同じ場所に先回りして待ち伏せをしていやがった。しかもわざわざ先週と同じ変装をして。いや、ひとつだけ違うのは、制服の胸にオオイヌノフグリのブローチを付けていることか。
「あ、あの、突然すみません。あの、わたし、し…しば…ゆう…かといいます。お、大沢中学の……二年です」
「…………いや、知ってるし。てか、なんでわざわざ先週と同じ場所でおんなじ芝居をしてるんだ?」
「芝居じゃありませんっ!」
優花は強い口調で叫ぶが……。いや、芝居だろう、どう見ても。
「わたし、実は『能力』があるんです」
「能力?」
「ええ。実はわたし『タイムリープ』できるんです。わたしは……一週間前のわたしに戻りました。なので孝一郎さんの呼び方も『先輩』に戻りました」
「いや、呼び方がどうとか、説明してる時点でおかしいだろ? それにタイムリープしたなら、おまえは一週間前に戻ってなくちゃダメだよな。なんでここにいるんだ? 姿かたちだけ戻ってどうするよ」
「…………。そんな細かいことはどうだっていんです」
こいつ開き直りやがった。
「どうでもよくはないだろ? おまえ天才少女じゃなかったのか?」
「先輩っ! 先輩は五月の総理大臣杯、出場されるんですよね?」
うわ、強引に芝居の続きを始めやがった。
「俺は総理大臣杯には出ない……あ、いや、出ることになったんだっけ」
「え? 出るんですか? …………それじゃシナリオと違うわ」
優花はあからさまに困った顔をして考え込んだ。
「おまえいま『シナリオ』って言ったよな? ぜんぜんタイムリープなんかじゃ――」
「まあいいわ。こうなったら途中のシナリオは全部とばしましょう。わたし、昨日芳乃さんに言われて気づいたんです」
「気づいたって……何にだ?」
「自分の本当の気持ちにです。一週間前。わたしはたしかにアプローチを間違えていました。ですからわたしは、あの日に戻ってやり直しをします」
「何をやり直すって?」
言っていることがわからない。
優花は一度すうっと深呼吸すると、俺の目を見て言った。
「先輩。好きです。わたしとお付き合いしてください」
「……………………。冗談だろ?」
「冗談なんかじゃありません! わたし、真剣です!」
優花が真顔で詰め寄ってきた。
俺は気迫に押されて後ずさる。
「そ、そうか。それはなんというか……あ、ありがとう」
「え? それじゃあわたしとお付き合いを――」
「いや、だが、それは断る」
「えーーーっ!? なんでよ!!!」
「なんで……って言われても、俺にはおまえと付き合う理由がない」
「愛に理由は必要ないわ」
「いや……申し訳ないが、愛も無いと思うんだが」
「うぐっ……。大丈夫よ。とりあえずわたしとお付き合いすれば、すぐにわたしのことが好きになるわ。わたし美少女だし、お金持ちだし、天才だし」
「いちいち間違ってはいないと思うが自分で言うな。価値が下がるぞ」
「でも孝一郎さん――」
「あのお…………」
そこへ口を挟んできたのは、いままで静観していた春香だった。
「なんか絶賛公開告白中に申し訳ないんですけど……。優花ちゃん、なんであたしたちのことを、まるでここにいないかのように無視するの?」
「あら? 春香ちゃん、芳乃さん、ごめんなさい」優花はわざとらしく、いま気づいたようなふりをして驚いてみせた。「ぜんぜん気が付かなかったわ。シナリオに無かったから」
「シナリオって…………。さっきまでオンライン会議に出てて、わたしたちが三人で石室山へ向かったことは知ってるでしょ? だからここで待ち伏せてたんだよね?」
「ごめんなさい。わたし、好きな人が目の前にいると、他のものがなんにも見えなくなっちゃうの」
「…………。ふうん、そうなんだ。それなら眼科に行ったほうがいいかもね。じゃあまわりが見えない人は放っておいて先に行こ、姫ちゃん」
春香はゴマゾウムシを見るような目で俺を見ると、そのまま足早に歩きだした。
芳乃もまるで道端のゴミクズでも見るような目で俺を見ると、春香と一緒にすたすたと歩きだした。
いったい俺が何をしたっていうんだよ。
「あっ、待って! 春香ちゃん、芳乃さん、わたしも行きます。さ、孝一郎さんも早く!」
そう言うと優花は強引に俺の右腕に手を回してしがみついてきた。
「うわ、バカ! そんなにくっ付くんじゃねえ! 離れろ!」
「いいじゃないですか。わたしたちこれからお付き合いするんですし」
「付き合うなんて言ってねえだろ! いいから離れろ!」
なんかさっきから柔らかいものが俺の腕に…………。
「あ、わたしのいいところ、もうひとつ思い出しました」
「え?」
「わたし芳乃さんより胸大きいですよ。もちろん春香ちゃんよりも。中2でD寄りのCカップですから、成長余地も考慮すれば将来かなり期待していただいていいと思います。うふふ」
こいつ、確信犯じゃねえか。
そのとき俺は見た。
前を行く芳乃と春香の背中から、禍々しくも殺気立った生体エネルギーのドス黒いオーラが立ち昇るのを。
なんでこんなときに限って…………、見えなくてもいいものが見えるのだろうか。




