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松虫姫物語  作者: 中沢七百
第1章 嵐の石室山と首輪の少女
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第8話 大神 ― オオカミ ―

「オオカミ? …………オオカミって、あの……オオカミか?」


「オオカミはオオカミだ」

「そんなバカな。ニホンオオカミってのはとっくに絶滅してるはずじゃないか。それに本物を見たことはないがオオカミがあんなにデカいはずがないだろう」


「孝一郎の言うオオカミがどのオオカミか知らないが、いま外にいるのはまぎれもなくオオカミだよ。昔からこの山を守っている。日本各地の山間部には犬神信仰(いぬがみしんこう)というものがあるが、犬神とは(おおかみ)、もしくは狼の血を濃く引く野犬のことだ。大いなる神と書いて大神(オオカミ)であり、その山で最も権力のある犬神のことを人々は畏敬の念を込めて大神(オオカミ)と呼んだのだ」


「じゃ、じゃあ、外にいるあの獣は、この石室山の神様なのか?」

「正しくは神そのものではないが、昔からこの山とこの山の神々を守っているのだ」

「じゃあ、神の使い……ってこと?」

「まあそんなものだ」


 とてもじゃないがにわかには信じ難い話だ。結界だとか、神の使いのオオカミだとか、ファンタジーすぎて思考が付いていかない。

 仮にあの獣が本物のオオカミとかクマみたいな動物だったとしても、いくら石室山周辺が特区として保護されているとは言え、あれだけの大きさの野生動物が生活して繁殖(はんしょく)できるとは思えない。


「……オオカミだとか、神の使いだとか、そんな話、信じられるわけがない」

「おまえが何を信じようが信じまいが勝手だ、孝一郎。しかし、おまえが自分の目で見ているものは見ているとおりに存在する。あれは幻覚ではないぞ」


 芳乃は正面の祭壇に向かって正座し、静かに目を閉じている。

 俺は、扉の格子窓に近づくと、格子の隙間からそっと外の様子をうかがった。


「あれ? いなくなったかな?」

 俺がさらに格子窓の隙間に顔を近づけて目をこらしたその瞬間。視界の外から大きな口をあけた獣がうなり声を上げて、格子窓をめがけて飛びかかってきた。

 ドンッと大きな音を立てて扉が揺れる。


「うわっ!」

 俺は驚いて飛び下がり、再び板の間に尻餅をついた。


「少しおとなしくしていろ。むやみに刺激してはいけない」

 目を閉じたまま芳乃は言った。こんな状況だというのに、なんだかやけに落ち着いている。


「おとなしくしろって言ったって、このまま何もしないでじっとしてたって状況は良くならねえんじゃねえか?」

「普段なら日暮れの時刻に村の当番が見回りに来る。大神(おおかみ)を見つけて状況を理解したら何とかしてくれるはずだ。大神はよほどのことが無ければ吉鷹村の人間を襲ったりはしないからな」


 俺はスク-ル端末の時計を見る。日暮れまであと30分ってところか。

「じゃあともかくあと30分はじっとしてろ、ってことか」

「うむ。しかしあまりに天候が悪い場合などは見回りに来れないこともある」

「ええっ!? あまりに天候が悪い場合……って、どう考えても今の天候はこれ以上無いってくらいに悪いんじゃあねえのか?」

「そうだな。これくらい急激に雨が降ると村を流れる川や田んぼが増水して溢れてしまうかもしれない。そうなるとここまで来ることはできないな」

「できないな……って、もし誰も助けに来てくれなかったら俺たちはどうなるんだ?」

「もし結界を破られたら終わりだろう」

「終わり、って何だよ。何か打つ手はないのか」

「何もない。そのときは運を天に任せることだ」


「なに言ってるんだ!」俺は傍らに転がっていた木刀を拾い上げると立ち上がった。「俺は運も天も神様も信じねえぞ!」

「だから落ち着けと言っているだろう。ヘタに刺激しなければ大丈夫だ。向こうもそうそう簡単には結界を破ることはできない」


 部屋の中はますます暗くなってきた。風の音はいまだに強く、木々を揺らしてうなりを上げている。雷は遠ざかったようだが、まだ時折窓の外をストロボのような光が照らしている。


「なんだよ結界って。……でも、もしその結果とやらが効いているんなら、もっとたくさん結界を張ったらどうなんだ?」

「結界は何度も張れば強力になるというものではないのだ。いまこの部屋のこの状況では、先ほどの結界が限界だ」

「それでこの結界はどれくらい持つんだよ」

「どうかな。1時間しか持たないかもしれないし、朝まで持つかもしれない」

「どうかな……って、やけに落ち着いてるけど、あいつが結界を破って入ってきたらただじゃ済まないんじゃねえか? なんかすげえ殺気だし、ヘタしたら噛み殺されるぜ」

「何を言っているのだ、孝一郎。『ヘタをしたら』ではない、確実に噛み殺されるだろう」


「それじゃあなおさら落ち着いてる場合じゃねえじゃねえか」

 俺は社の扉をにらみ、声に力をこめる。

「なんとかここから安全に逃げ出す方法を考えないと。芳乃だってこのまま噛み殺されるのは嫌だろう? いざとなったらオオカミだろうがなんだろうが戦ってやるが、それだって怪我をしないで逃げられる保障は――」


「おまえは何か思い違いをしていないか?」

「え?」


 芳乃は薄く目を開けると、落ち着いた表情のまま言った。

「噛み殺されるのはおまえだけだよ。孝一郎」


「…………。そりゃあさっき言っていた『オオカミは村人を襲わない』ってのが根拠か? それはそうなのかもしれないけど、やつは異常に興奮して殺気立ってるぜ。あの様子じゃ、いくら村人でも……」

「そもそも大神(オオカミ)が殺気立っているのは、わたしを守るためだよ。わたしが見知らぬよそ者に閉じ込められたと思っているのだ」


「……なんだって? しかし芳乃はオオカミはこの山と神々を守っている、って言ってなかったか?」

「ああ、言った」

「それじゃあ……」


 芳乃は静かに顔を上げた。

「わたしが生神(いきがみ)なのだ。わたしは代々この山を守護する下総犬養家(しもうさいぬかいけ)第七十七代当主千堂芳乃(せんどうよしの)。当家の始祖は不破内親王(ふわないしんのう)松虫姫(まつむしひめ)。わたしも村人からは松虫姫、と呼ばれている」


 大神の次は生神だって……?

 いったいこの少女は何を言っているんだ。この子が神様? 常識で考えてそんなわけはない。それじゃあただの危ない女の子か? 電波少女なのか? ……いやそうは見えない。それに建物の外にいるあの獣は何だ。もう思考が追いつかない。


「松虫姫って…………あの『松虫姫伝説』の松虫姫?」

「そうだ」


 松虫姫伝説はこの地方に伝わる話で、地元の人間ならたいてい知っている。

 奈良時代の、えーっと、ナントカ天皇のお姫様が不治の病を患い、薬師如来(やくしにょらい)に願掛けをするために下総の国の印旛沼のそばの村まで来て、それで…………まあなんかいろいろあって、病気が治って都へ帰ってめでたしめでたし、みたいな話だ。


「松虫姫って、たしか奈良の都のお姫様で、何かの病気を治すためにこのあたりまで来たっていう、あの……松虫姫?」

「そうだ」

「でも松虫姫って、すごく昔の人だよな? それに病気が完治して都に帰ったんじゃなかったっけ?」

「そのとおりだ。しかしそれは初代松虫姫のすべてを伝えてはいない。初代松虫姫はこの地で一人の娘を産んだ。わたしは初代から数えて七十七代目の子孫にあたる」


 伝説が史実と違うってのはよくあることだ。生神様なんて言うからちょっと驚いたけど、要するに昔の貴族の末裔(まつえい)で、今でも地元の人たちから(うやま)われてる、ってことか。


「えと……いろいろ興味深い話なんだけど、芳乃がこの村のお姫様で、あの犬……じゃなくてオオカミがきみを守っているんだとしたら、芳乃の命令でおとなしくさせるとか家に帰すとかできないのか?」

「先ほどからずっと説得を試みている。しかしいまの山王丸(さんのうまる)にはわたしの意志は届かないようだ」


「え? さっきからって…………」

 ずっと目を閉じて座ってただけだよな? っていうか名前があるんだ。あのオオカミくん。


「意思が通じる状況でなければ、直接声をかけても同じことだよ。まあしかし試しにやってみるか」

 ……うん。意思より言葉のほうが通じるように思うな、俺は。


 芳乃はゆっくり立ち上がると扉の前に歩み寄り、静かに息を吸った。

「山王丸よ。ここにいるものは少々粗忽(そこつ)で考えが足りないが敵ではない。わたしは無事だし今のところ何もされてはいない。どうか怒りを静めてくれないか」

 いや、なんかいろいろツッコミどころがあるような気がするんだけど……まあいいか。


 芳乃は扉に手をかけるとゆっくりと外に開く。すると山王丸は俺のときと同じように大きな唸り声をあげ、牙をむいて芳乃をめがけて飛びかかってきた。


 バタン。

 芳乃は表情を変えずに扉を閉める。

 ドスン。

 扉に山王丸がぶつかる音がした。


「…………。まだ結界の力は弱まっていないようだ」と芳乃がつぶやいた。

「…………。説得は失敗?」

「どうやら怒り狂っていてわたしのことを認識しているかどうかも怪しいようだな。これではどうしようもない」

「えええっ?! どうしようもない……って、芳乃の飼い犬みたいなもんじゃないのかよ」


「山王丸は飼い犬でも下僕(しもべ)でもない。わたしよりも長く生きているし、自分の意思でこの山と生神を守っているのだ。あんな状態でもわたしに危害を加えることは無いとは思うが、ああなるとわたしの言うことなどは聞かないだろう」


「うへえ…………万事窮(ばんじきゅう)す、ってわけか」

「うむ。まさしく万事窮す、だな」


「芳乃。おまえそんな落ち着いてる場合じゃねだろ。オオカミくんがあの様子じゃあ、おまえだって危ないんじゃ…………?」

 芳乃の表情は相変わらずよくわからない。しかしよく見ると芳乃の小さな肩は震えていた。


「芳乃…………。な、なあに、大丈夫だ、俺は剣の腕には自信がある。木刀一本あれば、なんとしてもおまえの身は守ってやるから安心しろ」


 うわ、なんか俺、ちょっとカッコイイこと言っちゃたな。

 でも本当はあのデカい獣を相手に木刀一本で戦うなんて、自信のかけらも無い。いまはこうやって芳乃を、というより自分を励ますだけで精一杯だ。


 俺がそう言い終わると、芳乃はわずかに顔を上げ、何か言おうとしたのか口を開きかけた……。そのとき、ミシミシッと上のほうから何かの音がした。


「…………?」

「まずいな……上には結界の効果が無い」

「……上には……って?」


 メキメキという破壊音と共に社の建物が揺れる。

 続けてドンッ!ドンッ!と何かが屋根にぶつかる音がする。

 バキバキという大きな音と共に天井の一部に穴が開き、木材の破片や埃が大量に降ってきた。


「うわっ!」土煙のような埃で一瞬視界がさえぎられる。

 埃がおさまって上を見ると、山王丸が天井の穴に顔を突っ込んでもがいていた。…………意外におバカか?こいつ。


「芳乃! 今がチャンスだ!」

「…………!?」

「この先をちょっと上ったところに社務所みたいな丸太作りの建物があるだろう? あそこならここより丈夫そうだし、もしかしたら誰か人がいるかもしれない」

「いや……あそこは……」

「時間が無い! 行こうっ!」


 山王丸はまだうなり声をあげながらもがいている。どうやら顔が挟まって抜けなくなったらしい。行くなら今しかない。

 俺は木刀を拾い上げると腰のベルトに差し、芳乃の手を(つか)んで正面の扉から外へ飛び出した。


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