第59話 気の力
「すごいね姫ちゃん。いったい何がどうなったの?」
息を飲んで見ていた春香がたずねる。
「孝一郎の持つ気の流れを、一時的にわたしの体に取り込んだのだ。気の流れを自分で制御できないものは、大抵いまのように体が動かせなくなる。これはそれほど難しいことではない」
「へえー、すごいんだね気功術って。指一本でお兄ちゃんが動けなくなるなんて。それじゃあ前にテレビで見たことがあるんだけど、体に触らないで、気合だけで相手を倒したりできるの?」
「そういったことは、わたしには出来ないな」
芳乃はゆっくりとソファに戻って腰かけた。
「テレビで見たという気功術が本物かどうかはわたしにはわからない。ただ超能力者と呼ばれる人間が、触らずに物を動かしたり、スプーンを曲げたりするのは外気の力と同じ理屈なのではないかと思う。家伝によれば太古より天皇家に敵対してきた種族の中には、気の力の扱いに長じ、気の力だけで物体を自在に操る術を使うものも存在するという。しかし、少なくともわたしが理解し習得している『気の力』は、相手に触れずに物理的な干渉を加えられるようなものではない」
物理的に干渉できないって? 俺は芳乃に質問する。
「それなら俺が動けなくなったのはどうしてなんだ?」
「気というのは、言い換えると自然の生体エネルギーなのだ。人間でも、他の動物でも、植物でも、生き物は体の中に生体エネルギーを循環させている。極論すれば『生きている』とは、体の中をエネルギーがめぐっている状態だ。気功術は修練を積むことで、この循環するエネルギーを外に出したり、逆に外から取り込んだりすることができるようになる」
生体エネルギー。今朝、オオカミのことを質問した時にも聞いた言葉だ。
芳乃はこちらを見て人差し指を俺に向けた。
「先ほどわたしは孝一郎の額に指を当てて、孝一郎の気の一部を自分の中に流し込んだ。一時的にエネルギー量が減っても、すぐに動けなくなったりするわけではないが、ある種の緊張状態のもとで、初めて『生体エネルギーが足りない』という経験をした人間は、体がどう対応していいかわからずに動けなくなってしまう。そのため孝一郎は一時的に体の自由が奪われたのだ」
「でも、ほんとうに指一本で相手の動きを止められるなら、どんな格闘技でも喧嘩でも無敵なんじゃないか?」
「そんなにうまくいく話ではない。さっきは孝一郎が椅子に座った状態で、お互いがわたしの指先に神経を集中していた。孝一郎は何かが起こるのではないかと身構えていて、意識はしていなくともある程度の緊張状態でエネルギー不足の状態になり、わたしの思惑通り動けなくなってしまった。これは一種の催眠術のようなものだよ。格闘技で真剣勝負の最中では、とてもそこまで自分の気の力と相手の精神状態をコントロールすることはできない」
「それなら剣道の試合でも役に立たないんじゃないのか?」
芳乃は顔を上げると冷ややかな目で俺を見た。これは……あれだな。
「孝一郎、おまえはバカなのか?」
……やっぱり。
「わたしは何も指先ひとつで相手を倒せと言っているわけではない。『気の力』は自分のために使うのだ」
「……自分のために?」
「やはりやってみせなければ理解できないか」
芳乃はふう、っと一つ息をついた。
そしてリビングソファの横に立ち、目を閉じて何度かゆっくりと呼吸をすると、胸の前で両腕を組み、右足を伸ばしたままゆっくりと真横に上げた。
「へえ、なかなか体が柔らかいんだな」
俺がそう言うと、横で見ていた春香が驚いた表情で口を開いた。
「お兄ちゃん…………違うよ」
「違うって……何がだ?」
春香は立ち上がって芳乃の正面に回り込む。
「体が柔らかいとか、そういうんじゃなくて、人間は……こんな姿勢で真っすぐ立てないはずだよ」
「こんな姿勢で?」
俺も立ち上がってもう一度芳乃を見る。言われてみればこれは相当不自然だ。芳乃は腕組みをして真っすぐ立っている。つまり完全に直立した姿勢のまま、右足だけを横方向に水平に上げているのだ。
「なるほど、普通だったら体を反対方向に傾けるとか、反対の手を伸ばすとか、左右のバランスを取らなかったら倒れるはずだよな」
「……そういうことだ、孝一郎」
芳乃はそう言うと静かに目を開けて……次の瞬間、さらに信じられない動きをした。
真横に上げた右足の方向にくるり、と側転して何事も無かったかのように同じ場所に両足で立った、ように見えた。
「姫ちゃん…………今のって………」
春香も目を見開いて芳乃を見ている。
単なる側転なら体操選手でなくてもできるだろう。しかし、いまの芳乃の動きは手を使わず、助走などの勢いもつけず、言うなれば無重力のように、ヘソのあたりを中心にふわりと一回転したように見えた。
「わたしは気合だけで相手を倒したり、指先一本で戦ったりすることはできない。しかし自分の中にある気の流れを制御し、気の力を最大限に利用することによって、自分の肉体を最大限に効率よく動かすことができる。また格闘においては、相手の気の力を少しでも律することができれば、自分の有利な状況を作り出すことも可能になる」
「さっき俺との試合で見せた動きも『気の力』を利用したということなのか?」
「そういうことだ。あらゆる生命体は生体エネルギーを持ち、特にエネルギー量の大きなものは自然界にエネルギーを放出したり、逆に自然界からエネルギーを取り込んだりしている。人間も外部から良質なエネルギーを取り込み、大自然とのエネルギー循環の輪に入ることができれば体を軽くすることができる」
「体が軽くなるって?」
「そうだ。これは比喩的な言い方ではなく、文字通り体の質量が軽くなるのだ。体が軽くなれば空中で回転することもできるし、竹刀の先をテコの支点にして孝一郎の頭上に飛び上がることもできるようになる」
「すげえ……。それは……俺にもできるようになるか?」
「もちろん、と言いたいところだが、あまり安請け合いはできないな。わたしは物心付いた時から犬養流の体術や気功術を教え込まれ、修養や鍛錬はほとんど生活の一部になっている。持って生まれた素養もあるかもしれないし、そんなに簡単なことではないと思う。しかし孝一郎は以前にも気の流れを自分の目で見ているし、素質はありそうだ。いずれにせよ気の力について学ぶことは、孝一郎の剣道にとっても、今後の人生にとっても、決して無駄にはならないはずだ」
「そうか。それなら頼む。俺に芳乃の気功術や体術を教えてくれ」
「だから最初から言っているだろう。稽古をつけてやる、と。明日から少しずつでも時間のある時に練習をするぞ」
「ああ、ありがとう。でも明日は……」
そのときダイニングテーブルに置いてあった俺のSPDのコールメロディーが鳴った。発信元は……城築先生だった。
城築先生からは学校や家で変わったことは無かったかどうかの確認と、預かっている「龍の卵のかけら」の分析は進んでいるが結果はまだ出ていないこと、明日は予定通り放課後学校へクルマで迎えに行くこと、などが伝えられた。
俺は電話を切ると、話の内容を芳乃と春香に伝えた。
「なあ芳乃」
「なんだ?」
「会談は明日だが大丈夫か?」
「そうだな。どれくらいの時間かもわからないから稽古は明後日からにしよう」
「……いや、そうじゃなくてさ。相手の出方がまったくわからないし、不安じゃないか、ってことだよ」
芳乃は横目で睨むように俺を見た。
「まだそんなことを言っているのか。なるようになるから大丈夫だ。孝一郎こそ、またやつの色香に鼻の下を伸ばして骨抜きにされないように気を付けることだな」
「うっ……。は、鼻の下を伸ばした覚えも骨抜きにされた覚えもねえ!」
くそっ。どうも神々廻優花の話になると分が悪い。
まあ芳乃が大丈夫だというなら心配はいらないだろうな、たぶん。