第53話 教室の風景
水曜日の1年1組は平和だった。
始業時間前。昨日、芳乃と友達になる宣言をした宮崎は、増尾と共に、芳乃が休んでいて授業を受けていない教科のポイントなどを教えていた。休み時間には芳乃のまわりに女子生徒たちの輪ができて、その中で芳乃は質問攻めになっていた。
「吉鷹村ってどんなところ?」とか「古い家系のお姫様なんですって?」とか「わあ、お人形さんみたい。その髪のウェーブは天然なの?」とか。中には小声で「富岡くんの家に下宿してるって本当? 危なくない?」とか言うやつも。……おい、聞こえてるぞ。
まあ何にしろ、芳乃はすっかりクラスの人気者だ。
あの人見知りのくせに態度だけデカいお姫様が、クラスになじめるか心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。
女子たちと共に俺の隣の席に移動してきた「自称親友」の柏木亮太は、一日中なんとか前の席の宮崎に話しかけようと必死だったが、ほとんどガン無視されていた。あいつが宮崎狙いだとは意外だった。まあたしかに美人だが、ああいう女王様タイプが好きってことはMなんだろうか? まあせいぜい頑張ってみることだな。
芳乃が下僕と言っていた牛太郎こと伊東優太郎も朝から普通に登校してきて、やっぱり授業中も休み時間も関係なく分厚い本を読んでいる。そんなに好きなのか? 時刻表。と思って通りがかりに近くで見たらどうやら時刻表ではないようだ。何だかびっしりと英単語のようなものが並んでいる。
「ん? それ、英語の辞書か何かか?」
牛太郎は答えない。相変わらず、ぼけーっとした顔で辞書を読んでいる。
「今日はやけに勉強熱心なんだな。でも英語辞書ならそんな重そうなものを持ってこなくたって、SPD ― Students Personal Device ― でもデスクパネルでも見られるぜ?」
SPD、学生専用携帯端末には、英語はもちろん、主要な外国語の辞書ならオンラインですぐに参照できる。机に取り付けられているタッチパネルでも同様だ。だから学生は、わざわざ重たい教科書も辞書も持ち歩かない。
「おーい! 牛太郎! 聞いてるかー? んん?」
牛太郎が熱心に読んでいる辞書を覗き込むと、知らない単語ばかりだ。というかどうやら英語ではないようだ。
「どうした? 孝一郎」
休み時間が終わるころ、柏木亮太が教室に戻ってきた。
亮太は昨日と同じく俺と牛太郎の間の席に座っている。
「なあ亮太。牛太郎が読んでる辞書って何語だ? 英語じゃねえよな?」
俺は亮太に聞いてみた。こいつはこう見えていわゆる帰国子女ってやつだ。英語はペラペラだ、たぶん。聞いたこと無いけど。
亮太は身を乗り出して牛太郎の持つ辞書を覗き込んだ。
「んーっと、ああ、これはフランス語だな。俺はほとんど話せないけど、単語だけならいくつかわかるよ。ジュテーム、マドモアゼール、メルシーボクー」
「フランス語?」
「うん」
「なあ、牛太郎、なんでフランス語なんか勉強してるんだ?」
俺は牛太郎に問いかける。
「…………」
反応は無い。予想どおりだが聞くだけ無駄だろう。
まあ牛太郎が何を勉強しようが本人の勝手だ。俺が気にすることはねえか。それにしてもフランス語か。こいつはただのデカブツじゃあないんだな。まあ考えてみりゃあ、仮にも全国トップクラスの人気難関校に入学したんだからまるっきりのバカってわけじゃあないはずだ。
それにしてもここは不思議な学校だ。卒業生には日本初の女性総理大臣がいて、ノーベル賞受賞チームの科学者やノーベル賞候補の城築先生がいる。世界的な大企業、北総エナジーの創設者で現会長の神々廻英人もこの学校の卒業生だ。政財界や学者には他にも大勢の卒業生がいるし、建築家、芸術家、音楽家、作家、スポーツ選手から芸能人まで、この学校出身の著名人、成功者はとても多い。
しかし、いわゆる「偏差値の高い高校」というわけではない。
母さんが入学したころは、市内の高校は順聖堂学園しかなく、周辺の公立高校のほうが偏差値が高かったので、中学で成績のいい生徒は市外の公立高校、普通以下の生徒は順聖堂学園、という感じだったらしい。しかし江戸時代から続く伝統や、自由な校風にあこがれて、わざわざ市外、県外から来る優秀な生徒も少なくはなかった、と聞いている。
今でも偏差値はそれほど高くなく、入試の点数だけ良ければ入れる、ということでもない。それは見方を変えれば、誰にでも入学できる可能性がある、ということでもある。そのため有名校になった今では全国から入学志願者が殺到し、入試の倍率だけで言えば、2位以下を大きく引き離してダントツの日本一だ。だから超難関であることは間違いない。
まあそんな超難関高校に俺が合格できたのも不思議だが、伊東みたいに会話すらろくに成立しない人間がいることも不思議だ。そういえば芳乃は入試を受けていないと言っていたが、もしかしたら伊東も特別推薦枠か何かだろうか。推薦だとしてもそれなりの学力は必要だろうが、しかしさすがにそれもなさそうに思えるな……。
俺は教室を見渡してみる。今日も出席しているのは二十数人といったところだ。
俺の前には芳乃。芳乃の右隣には宮崎六実。その前には増尾みどり。俺の右隣は亮太。その右隣には牛太郎。教室の廊下側後方にはちょっとチャラい系の男子グループ。その前方にはなんだかケバい女子二人。うち一人は今どきかなり時代錯誤的なガングロメイクだ。さらに教室廊下側前方には先週まで亮太がターゲットにしていた四、五人のいつもにぎやかな仲良し女子グループ。教室中央前方は真面目系男子グループ。窓側前方にも真面目系女子グループ。教室の真ん中には、やや孤立した感じだが背の高いモデルのような美人系の女子一名と、なんとなくアニオタっぽい男子が二名いる。といった配置だ。
教室での座席は決まっていないが、先週からだいたいいつもこんな感じで落ちついている。こうしてあらためて見ても、少なくともこのクラスの生徒が各界の著名人を多く排出する超人気難関高校の狭き門を潜り抜けてきたエリート達にはどうしても見えない。人のことは言えないが、客観的に見てクラスの顔ぶれだけで判断したら、偏差値的にはせいぜい中の下、といったところだ。
芳乃がやたらと小さい、とか、牛太郎がやたらとデカい、とかいう身体的特徴から来る違和感は仕方がないにしても、あのガングロはどうなんだろう? どう見てもあれがいいとは思えないが、本人は本当に気に入ってるのか? てゆうか、さすがにあのメイクは許されるのか? 確かに生徒手帳には「身だしなみは清潔であること」とか「他人に不快感を与えない服装であること」くらいしか書かれてないけどな。
なんか……嘘なんじゃねえか?この学校が超難関エリート校だなんて。
「ふう」
俺は窓の外に向けてため息をついた。前の席では芳乃が宮崎、増尾と一緒に先週の授業の説明を受けている。さすがはクラスのリーダー宮崎。面倒見がいい。
芳乃はその後もごく普通に授業を受けていた。 こうしていると金曜の夜から昨日にかけて次々とおこった非日常的な事件が嘘のようだ。
「芳乃、俺は学食へ昼飯食いに行くけど、おまえはどうする?」
昼休み。立ち上がった俺は芳乃に声をかけた。芳乃は隣の席の宮崎を見る。
「わたしとみどりちゃんはお弁当だから。行ってきなよ、芳乃ちゃん」
宮崎六実は芳乃にそう言って、タッチパネルを畳んだ。芳乃とはもうかなり親しくなっている様子だ。
「うむ。では食事に行こうか、孝一郎」
芳乃が立ち上がる。
「牛太郎、おまえはどうする? 昼飯、一緒に行くか?」
俺は牛太郎にも声をかけてみた。見るとやっぱりフランス語の辞書を読んでいる。
「…………」
牛太郎は無言のままこちらを見ると、ふるふると、ゆっくり首を横に振った。
「行かないのか? 芳乃に遠慮してるのか?」
牛太郎はふたたびふるふると、ゆっくり首を横に振り、机の横にかけられていた年季の入ったリュックから大きな風呂敷包みと、これもまた年季の入ったステンレスの水筒を取り出した。牛太郎が風呂敷を解くと、中身は大きな握り飯が二つだった。
「ああ、今日は弁当か」
あいかわらず滅多に口を開かないやつだが、それなりに牛太郎とのコミュニケーションの取りかたがわかってきたような気がする。
「じゃあ行くか、芳乃」
俺が芳乃と教室を出ようとしたそのとき。
「ちょーーーっと待ったーーーあ!」
後ろから大声で呼び止められた。柏木亮太だ。
「なんだよ? デカい声で」
「なんだよ? ……じゃねえよ! どうして千堂さんや牛太郎には声をかけて、親友の俺を昼飯に誘わないんだよ!」
「ああ? おまえはいつも弁当じゃなかったか?」
俺はかまわず芳乃と教室を出た。亮太は後ろから付いてくる。
「だからちょっと待てってば! いままで弁当だったのは長瀬さんが弁当組だったからだよ。教室で弁当食べてれば『あら? 一人でお弁当? 良かったらわたしたちと一緒にどう?』とか誘ってくれるんじゃねえかと思ったんだよ。接点を作りたかったんだよ」
長瀬さん? たしか教室の前のほうにいる女子グループの一人だったか。それにしても浅はかな考えだな。
「それで接点はできたのか?」
「できてりゃ席も移動してないし、弁当もやめないよ」
そりゃそうだろうな。
「ようするにフラれたのか?」
「そーじゃねえよ! こないだ昼休みに女子グループの会話が耳に入ってさ。驚いたことに長瀬さんには中学時代から付き合ってる彼氏がいるって言うんだぜ!? あんまりだろ? あんなかわいい顔して……ひどい話じゃねえか! 裏切りだよ!」
「いや……誰も裏切ってはいねえだろ」
「そりゃ孝一郎はいいよな。家でも学校でも千堂さんとイチャラブで! 壁ドンで! 顎クイで!」
「だからイチャラブも壁ドンもしてねえって」
てか顎クイ、って何だ?
そのとき隣を歩く芳乃が俺を見上げて言った。
「孝一郎、わたしはあいかわらずこの男の言っていることがよくわからないのだが」
「大丈夫だ、芳乃。俺にもわからないから。亮太の言うことは基本スルーでいいよ」
「わかった」
芳乃は真顔でうなずいた。
「いや、ちょっと待って! スルーってなんだよ? 冷てえじゃないか! 親友だろ?」
結局亮太はギャーギャー騒ぎながら学食まで付いてきた。