第34話 野に咲く花
「こ、孝一郎。……おまえは、バ、バカなのか?」
「へ? 何言ってるんだ。本当に似合ってるぞ」
昼食を済ませた俺たちは、芳乃の制服を購入するために学校指定の洋品店に来ている。いま目の前には試着室から出てきた芳乃が、真っ赤な顔で立っていた。
「こ、こんな短いスカートで外を歩けるわけがないだろう。おまえはわたしが世間知らずだと思って恥をかかせようとしているのか!」
「いや……それって学校指定の制服だし、それを穿かせたのは春香だよな? そのスカートの長さに俺の意思は介在してないだろ。それにおまえが騒ぐほどそのスカートは短くないと思うが」
既製品の中では一番小さいサイズを試着したが、それでもブレザーの袖はかなり余ってるし裾も長い。スカートの丈だって学校の女子生徒たちより長いと思う。
「そうだよ姫ちゃん、そんなに短くないよ。ここらへんの高校生だったら、もっと短くてもいいくらいだと思うな」
「し、しかし春香。こ……こんな長さでは階段を上るときに下からパ……パンツが見えてしまうではないか」
「うーん、それくらいの長さだと意外と見えないもんだよ? でもそんなにイヤならもうちょっと長くしてみる?」
春香は芳乃といっしょに再び試着室に消えた。てゆうか長くできるんだ、スカートって。
結局芳乃の制服はイージーオーダーでサイズを詰めてもらい、明日もう一度受け取りに来ることになった。
昨夜は「学校に着ていく制服が無い」と心配していた芳乃だが、そもそも順聖堂学園は制服を着なければならないという決まりは無い。校則の服装の欄には「清潔であること」「良識的であること」「他人に不快感を与えないこと」という三点しか書かれていない。いちおう他校の制服はダメなど、明文化されていないルールはあるが、私服での通学はまったく問題ない。
ただ学校指定の制服はけっこう生徒に評判がよく、例によって学生ポイントで安く購入できるので、指定の制服で通学する生徒が一番多い。そういった事情を説明しつつ、芳乃と話をして、結局一着は制服を持っておくのがいいだろう、ということになり、母さんのクルマで洋品店まで乗せてきてもらった。
その母さんは急な呼び出しがあって会社へ向かったので帰りのクルマが無い。
「えーっと、大沢町方面のバスは……。うわ、あと40分来ないな」
洋品店を出た俺たちは近くのバス停で時刻表を見ていた。下総市は大きな病院や有名な学校ができて、ここ数年急速に発展しているが、やはり基本的には千葉の田舎だ。電車もバスも本数が少ない。市民が無料で利用できるコミュニティバスもあるが、ここから大沢町へ直接行く路線が無い。
「どうする? ゲーセンでも入って時間つぶすか?」
と俺がたずねると芳乃が言った。
「そんなふうに無駄に時間とお金を使うことはない。ここから家まで歩いたらどれくらいだ?」
「たぶん一時間弱くらいじゃないかな」と俺が答える。
「それならのんびり歩いて帰ろうではないか」
「そうだね。散歩がてら景色でも見ながら歩こうよ」
芳乃の提案に春香も合意して俺たちは歩いて家まで帰ることにした。
「もう桜も終わりだね」
田んぼの水路の脇に立ち並ぶ桜の木を見ながら春香が言った。
新学期が始まったときに満開だった桜の花は、金曜日の大嵐でほとんど散り落ちて、かわりに鮮やかな緑の葉が芽を出し始めている。どこかでへたくそなウグイスの鳴き声がする。ウグイスは春先に山から平地に下りて来るが、はじめのころは鳴き方がヘタだ。だんだん練習をして、「ホーホケキョ」と、うまく鳴けるようになる。
水路の土手にはツクシがたくさん顔を出し、その周りにはところどころ紫色の小さな花の群生が見られる。
「今年はゆっくりお花見ができなかったね」と春香が言う。
「そうだな。先週はまだちょっと花見には早かったし、今週末は金曜の嵐で残ってた桜も散ったみたいだしな」
俺たちはぽかぽかと暖かい春の日差しの中、水路の土手をゆっくりと歩いていた。芳乃は学校で使う文具などが入った紙袋を抱えて後ろからついてくる。荷物を持ってやる、と言ったら「自分で持つ」というので持たせているが、小さな芳乃が持つと、普通の紙袋が大荷物のように見える。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「ツクシを摘んで帰ろうか?」
「やだよ。ツクシってハカマ取ったり、アク抜いたり、けっこう手間がかかるんだぜ? そのわりに大して美味いわけでもないし。母さんは酒のつまみに喜ぶけどな」
「ぶー! お兄ちゃんのケチ」
「そんなに言うなら自分でやれよ、ツクシの下ごしらえ」
「それならいいよ。あー、ここすごいね、紫の花! こんないっぱい」
……マイペースなやつ。
「このちっちゃい紫の花、なんていうんだろうね? いまくらいの季節になるとあちこちにいっぱい咲いてるけど、きれいだよね」
春香がそう言うと、後ろを歩いていた芳乃が答えた。
「それはオオイヌノフグリだ」
「オオイヌノ……?」俺は聞き返した。
「オオイヌノフグリ、だ」
「ふーん、そんな名前なんだ。芳乃、詳しいんだな。小さいし、どこにでも咲いてるから気にしてなかったけど、たしかにこうして見ると綺麗なもんだ。まわりに咲いているタンポポの黄色とのコントラストもいいね。やっぱり日本古来の野草は可憐な感じがするよな」
「孝一郎、オオイヌノフグリは明治時代に外国から入ってきた帰化植物だ。ちなみにそのまわりのタンポポもぜんぶ西洋タンポポだ」
「あ……そうなんだ。でも明治時代からあるなら日本の花みてえなもんじゃねえか」
「まあそうだな」芳乃は立ち止まり、水路の土手に目を向けて言った。「外来種は繁殖力が強いものが多いから、日本古来の野草の住処を奪ってしまうという問題もあるのだが、草花に罪はないだろうからな。花屋の花は美しいが、わたしはどちらかといえば、こうして道端にたくましく咲く野の花のほうが好きなのだよ。……ん? 何をしている、孝一郎」
「四葉のクローバーを探してるんだ」
「幸せを呼ぶ四葉のクローバーか。そんなに簡単には見つからないだろう?」
「あったぞ、ほら。これ、けっこう大きくて形もいいだろ。はいどうぞ、お姫様」
俺は大きな四葉のクローバーを摘んで芳乃に差し出した。
「おまえが見つけたのか……」
芳乃はちょっと驚いた顔をしてクローバーを受け取り、しげしげと見ている。
「お兄ちゃん、どういうわけか四葉のクローバー探しだけは得意なのよね」
だけ、って何だよ、だけって。
「ほら、春香、おまえにもやるぞ」
俺はもうひとつ四葉のクローバーを摘んで春香に渡した。
「ほう、意外な特技があるのだな」
芳乃が感心している。
「特技ってほどじゃねえよ。注意して探せばけっこうあるもんだ。芳乃、これも帰化植物か?」
「まあそうだな。日本でクローバーと言えばたいていシロツメクサだが、これも明治時代くらいから日本に広まったらしい。もともとは牧草として輸入されたものだよ」
「じゃあこの景色はほとんど帰化植物だらけ、ってことか」
俺はちょっと残念な気持ちで景色を見た。
「そういうことになるかな。しかしそんなに悲嘆することではない。どんな植物も動物も遠い昔どこからかやってきたのだ。鳥は世界中の空を渡り、魚は世界の海を回遊する。動植物も進化し、移動し、ときには絶滅もする。いろいろな生態系が変化していくのは当然のことだ」
ふうん。さすがに歴史のある家柄のお姫様は考え方が雄大だな。
「人間もそうだ」芳乃は言葉を続けた。「日本人は純血単一民族と言うが、その先祖は遠い昔にどこかの大陸から渡ってきた冒険者だろう。日本列島で日本人という固有種が発生したわけではないのだ。人種の違いでいがみあったり戦争をしたりするのは本当におろかで悲しいことだ」
「なるほどな」俺は感心して答えた。「植物も動物も、世界中みな兄弟、ってわけか」
「それでも昔ながらの草花なんかが見られなくなると、やっぱりちょっと寂しいよね」
と、クローバーを見つめながら春香が言った。
「そうかもしれない」芳乃が答える。「だが、例えば在来種のイヌノフグリや日本タンポポは、まだ吉鷹村にはたくさん咲いているぞ」
「へえ、そうなんだ」
「イヌノフグリ、って在来種があるんだな」
俺はオオイヌノフグリがひときわ群生している土手にしゃがみこんで、ひとつかみほどの花束を根から抜いて立ち上がった。少しくらい抜いてもかまわないよな? 雑草だし。外来種だし。乾かないように根元をティッシュでくるむ。食卓のミニプランターに植えたらなかなか綺麗かもしれない。
「でもイヌノフグリって、ちょっと雅な響きがあるよな。どういう意味だろうな」と、俺は芳乃に聞いた。
「犬の睾丸袋という意味だ」
「ふうん、犬のコウ…………え? いまなんて?」
「犬の睾丸袋、という意味だ」
再び芳乃が真顔で答えた。
「あ、そうなんだ……」
俺は手元の花束を、ちょっと複雑な気持ちでじっと見つめた。
「もともと日本種のイヌノフグリは、その実の形状が犬の陰嚢、つまり睾丸袋に似ていることから――」
「あ、うん、よくわかったよ芳乃。えーと、帰ろうか? やっぱりその荷物持ってやるよ。そろそろ手が疲れただろ?」
「そ……そうか。ありがとう。それでは頼む」
そう言って今度は素直に荷物を差し出す。
芳乃と春香は手をつないで歩き始めた。
俺は何やら楽しそうに話をしながら歩く芳乃と春香の後姿を見ながら、もうすっかり花も終わってしまった桜の木が立ち並ぶ水路の土手を歩いて行く。前方に水路を跨ぎ超える農道の橋がある。その橋はクルマ一台がやっと通れるくらいの一方通行の小さな橋だが、その橋の手前で黒塗りの外国車が車体を半分水路の土手に乗り上げるようにして停車していた。このあたりではほとんど見かけないような高級車だ。
俺は何かいやな予感がして前を歩く春香と芳乃に声をかけた。
「春香! 芳乃! ちょっと止まれ」
俺は春香たち二人を追い越し、そのクルマの数メートル手前まで近づくと、はたして俺たちを待っていたかのようにクルマの後部座席のドアが開いた。
そしてそのドアから降りてきたのは……一人の少女だった。
つばの広い白い帽子。裾の長い白いワンピース。白の肩掛けポーチ。白いサンダル。全身真っ白なその少女は満面の笑みで俺に声をかけてきた。
「せーんぱいっ!」
俺はそのその少女の顔を見て驚愕した。
この前と違って、今日は髪をほどき眼鏡もかけていない。あの時の地味で真面目な印象は無く、清楚なお嬢様、といった感じだが、この顔と声は……間違いない。
「おまえは…………司馬ゆか!」
そこには一昨日、大沢中学の後輩と名乗り、俺に盗聴器の仕込まれたペンダントを渡した少女が立っていた。