第26話 北総犬養家の血族
芳乃はリビングのソファに腰かけている。そして、その足元には芳乃の体から取り外された革バンドが置かれていた。
昨日の夜、風呂の脱衣所で春香と芳乃に絡まったバンドを見たが、こうしてまとめられたものを見ると、思ったよりずっと長く、あちこちに分岐や、フックや、調整用と思われる金具などがあって、とても複雑な構造のように見えた。
「心配をさせてしまってすまない。言われたとおりバンドは外した」
芳乃はずいぶん顔色が良くなっているように見える。透き通った陶器のような白い肌にはほんのりと赤みが差していた。
「座ってくれ、孝一郎。おまえはこのバンドのことが知りたいのだったな?」
「あ、うん、そう……だけど」俺は城築先生の顔を見る。
この人に聞かせてもいい話なのだろうか。
そのとき城築先生が言った。
「芳乃さん、と呼ばせてもらってもいいかな?」
「もちろんかまわない。大きな病院で医師をしている城築先生、だったかな」芳乃は相変わらず尊大な口調で言った。
「芳乃、この人は総英会病院の理事で、世界的にも有名なお医者さんなんだぜ。いくらお姫様でもその言い方はちょっと失礼じゃないか?」
「あははは、いいんだよ、孝一郎くん。わたしはそんな偉い人間じゃない。ところで芳乃さん、わたしも一緒に話を聞かせてもらってもかまわないだろうか。無理にとは言わないが。さっきそのバンドは『命をつないでいる』と言っていたね? もしかしたら医者として何かの役に立てるかもしれない。もちろん聞いた話を勝手に口外したりはしないよ」
芳乃は城築先生の顔をじっと見つめてこう言った。
「あなたは孝一郎の友達なのだろう? それなら一緒に聞いてもらってかまわない」
「いや、ちょっと待て、芳乃」俺は驚いて言った。「友達って……。この人は有名な先生なんだぜ? 俺よりずっと年上だし。それに友達とかそんな理由でおまえのことをいろいろ話して大丈夫なのか?」
「ならば孝一郎に聞くが、おまえはこの人をどう思っているのだ? 信頼できる人間だと思うか?」
「俺は……、俺はこの人は信用していいと思う。しかし――」
「ならば何も問題は無い」
芳乃は俺の言葉を遮ってそう言うと話を続けた。
「城築先生。手当てをしてくれてありがとうございます。口の利き方はあらためるよう努力します。わたしは村では生神として崇められていました。そしていままでほとんど村から外に出たことが無いので人との接し方を知らないのです。申し訳ありません」
芳乃はゆっくり言葉を選ぶようにそう言うと頭を下げた。
「いやいや、そんなことは何も問題は無いよ。わたしも話を聞かせてもらっていいだろうか」
「もちろん、先生にもぜひ話を聞いてもらいたい。どうぞ座ってください」
城築先生は「ああ、ありがとう」と頷くと俺の隣のソファに腰を掛けた。
「さて、このバンドの話をする前に……」
芳乃は足元に置かれた革バンドの束を見下ろして言った。
「わたしの家のことを少し話そう。わたしの家は正式には北総犬養家という。千堂という苗字は先祖がこの土地に来てから名乗っている。当時、犬養家には敵対するものがいたから違う家名は都合が良かったからだ。日本の戸籍上では千堂だが、古くからのわたしたちの血族をあらわすときは『犬養家』と名乗ることがある。そして血族としての北総犬養家の初代は、いまからおよそ千三百年前、奈良の都からこの土地に下られた不破内親王に始まる。内親王は奈良時代の第四十五代天皇、聖武天皇の第三皇女で、わたしは七十七代目になる」
「ふうん。俺も松虫姫伝説はうろ憶えだけど、言われてみれば、初代松虫姫はその当時の天皇の娘なんだから、芳乃も天皇家の血族、ってことになるわけだよな?」と俺はたずねた。
「そうだな。まあ不破内親王の母、県犬養広刀自は聖武天皇の第二夫人で、松虫姫はその第二子だから、ずいぶん昔の傍流だがね。犬養家は古くは大和朝廷に仕えた犬養部という職業集団から続く家系で、さらに神話まで遡ると、祖先は天地開闢のとき、天之御中主神、高皇産霊神の次に高天原に降り立った神、神魂命であると言われている」
「すげえな、神話までさかのぼれる家系って。しかもほとんど日本最古じゃねえか」
「まあ神話が本当ならそういうことだが、犬養家に伝わる家伝によれば、日本の天皇家の最初の祖先が、日本のどこかにあった高天原に降り立ったときに、その守護役だったのが犬養家の祖先だったのだ。犬養というのは、犬を使って狩猟をしたり、天皇や天皇領を守ったり、ときには敵と戦ったりする役割を指している。ちなみに当時の犬は、現代のペット化が進んだ犬と違って、ずっと野生的でオオカミの血が濃かったのだ。おそらく純血のオオカミも使っていたかもしれない。今でも石室山を大神が守っているのはそういった歴史があるからだ」
うーん、なんとも壮大な話だな。日本の国が出来たときからの家系で、犬やオオカミを使って天皇家を守っていた、だなんて。
「芳乃さんは不破内親王から七十七代目と言ったね?」城築先生が聞いた。「千三百年で七十七代というのは、単純計算しても一世代およそ十七年だ。ずいぶん代が多いね」
「そうだ」芳乃は城築先生の顔を見た。「千堂家では千三百年前から今まで女しか生まれない。そしてほとんど例外なく……」
芳乃はそこで意を決したように俺たちの顔を見ると、こう言った。
「千堂家に生まれたものは二十歳くらいまでしか生きられない」
一瞬、部屋の空気が凍りついたように感じた。
なんだって……? 二十歳までしか生きられない。そう言ったのか?
「芳乃、それはいったいどういう意味だ?」俺は思わずソファを立って言った。
「そのままの意味だよ、孝一郎。千堂家の女は、わずかな例外を除いて代々十五歳から二十歳くらいで亡くなっている。そのため千堂家の女は、子供を産める体になれば、できるだけ早く子供を作る。だから代替わりが早いのだよ」
「十五から二十歳……」
いったい芳乃は何を言っているんだ? 早ければ十五で死ぬ。そう言っているのか? 芳乃は今……十五歳じゃないか。
春香を見ると、青い顔で目を見開き、自分の口を押えて固まっている。
母さんは目を閉じて、じっと話を聞いている。たぶんこのことは知っていたのだろう。
唖然とするしかない俺と春香の横で城築先生が口を開いた。
「千何百年も女性しか生まれないとか、ほとんどが二十歳までしか生きられないというのは、医学的にはちょっと信じがたいことだね。まあ、それが真実かどうかは置いておいたとしても、もし芳乃さんの家系が代々短命だということなら、たとえば遺伝的な病気か何かがあるということだろうか?」
「それはわからない。わたしも毎年精密検査を受けているが、子供のころに体にはまったく異常が無いのだ。千堂家の人間は大人になると、ほぼ例外無く、あるとき急に体が衰弱しだして多臓器不全で死ぬ」
「多臓器不全……って、いったい……」
俺の質問に城築先生が答える。
「多臓器不全というのは、体内の複数の臓器が同時に機能障害を起こすことだね。多臓器不全自体が一つの病気を指すのではなくて、一般的には何らかの原因で死に至る過程で起きる症状のことだよ」
「そうだ。千堂家の場合、特に何かの病気になるわけではなく、ある時期を境にだんだん体が弱っていく。簡単に言えば、急に老衰が進行して死ぬようなものだ」
「急速に老化が進む病気は早老症といって、プロジェリア症候群などいくつかあるが、その場合、普通は子供のころから外見的にも老化が進行するから、そういった病気とは違うようだね」
そう言って城築先生は腕を組んだ。
俺はあらためて芳乃の顔を見る。確かに芳乃の外見はとても老化が進んでいるようには見えない。先ほどまでは顔色が悪かったが、バンドを外した今は透明感ある白い肌にわずかに赤みが差して、若々しく、これ以上ないくらいに健康的に見える。
「俺には……、俺には信じられない。急に老衰して死ぬだなんて。芳乃の体はなんともないじゃないか。こんなに若いし、健康的だし、二十歳までに死ぬなんて、そんなこと、俺は絶対に信じない!」
俺は拳を握り締めていた。
「まあ落ち着け、孝一郎。わたしは遠からず死ぬ。これは千堂家に生まれた者の運命であって逃れようはない。伝承によれば、これは初代松虫姫と印旛沼の龍神とのあいだで交わされた契約なのだ」
「龍神との……契約?」
「そうだ。初代松虫姫、不破内親王は、この土地に来たとき重い病気を患っていた。その治癒を祈るために印旛沼のほとりの薬師堂にこもっていたところ、沼から龍神があらわれ、病気を治してやることはできるが、その代償として、おまえとおまえの子孫の寿命を差し出さなければならない。そして子々孫々、おまえの家には女だけが生まれ、龍の卵を守らなければならない、と言ったという」
「ずいぶん無茶な契約じゃねえか。自分だけならともかく、子孫の寿命までよこせなんて、そりゃ龍神じゃなくて悪魔じゃねえのか? それに俺だったら、子孫を犠牲にしてまで病気を治してもらおうとは思わないな」
俺が憤慨して言うと、芳乃はふうっと息を吐いて答えた。
「まあ伝承だからな。わたしも本当に龍神とそんな契約があったとは信じてはいない。ただ、もしそういったような何かがあたっとして、初代松虫姫には何を犠牲にしてでも病気を治して生きなければならない理由があったのだよ」
「生きなければならない理由?」
「そうだ。民間伝承では松虫姫は病気を治すためにこの地に来たことになっているが、実際にはそれだけではない。松虫姫ははじめから龍の卵を守る、という使命を帯びてこの地につかわされたのだ。そしてその使命は、自分の命と子孫の命をあわせたものより重いものだったのだ」
俺は思わず立ち上がり、大きな声を張り上げた。
「また龍の卵かよ! 何がそんなに大事だっていうんだ。人の命より重いものなんかあってたまるか!」