第22話 とりとん
「雷ちゃんと山ちゃんを家で飼いたい」と、恐ろしいことを言う春香に母さんは、「あの子たちは山を守る神様だから勝手に連れて帰れないでしょ」と、微妙にファンタジーな説得をしてクルマを出した。
「雷ちゃんと山ちゃん可愛いじゃない。もー! お兄ちゃんの嘘つき。あの子たちのどこが『熊みたいな大きさで凶暴』なの?」
「いや、昨日のやつらは絶対さっきの犬じゃねえよ。本当に熊みたいな……」
「熊ってナニ熊? マレーグマ? アナグマ? アライグマ? 幻覚でも見たんじゃないの?」
「ぜってえ見間違いじゃねえって! なあ? 芳乃、なんとか言ってやってくれよ」
「孝一郎」芳乃が静かに言った。「人は恐怖心に負けると相手が異常に大きく見えたりすることがある。しかし決して恥じることはない。本来人間とは弱いものだ」
芳乃に助けを求めた俺が間違っていた。
「何言ってるんだ芳乃! あんな犬があれだけ家をめちゃくちゃに壊せるわけないだろう? それに……」
「お腹がすいたわね」運転しながら母さんが言った。「お昼過ぎちゃったからどこかで食べていこうか?」
「あ!あたし『とりとん』がいい!」春香が言った。
この車内に俺の味方は一人もいなかった。なんだか寂しい。頬杖をついてクルマの助手席から外を見る。だんだん石室山が遠ざかっていった。
昼食時のとりとんは満席だった。
テーブルが5卓にカウンター4席の小さな店は、最近ネットやクチコミで人気になり、土日にはけっこう遠くからもお客さんが来るらしい。ランチはどんぶり系のメニューだけだが、有機無農薬の飼料で健康に育てた豚や鶏を使っているので、大手の牛丼チェーンに比べたら値段は倍以上する。それでも繁盛しているのはそれだけここの素材と料理が美味しいからだ。値段からすれば中高生では気軽に食べられない高級店だが、下総市の学生ポイントを使えば安い牛丼と同じくらいの値段で食べられる。
「朝子さんに聞いたらもう少し待てば席が空くって」母さんが店から出てきて言った。
俺たちは店の外で席が空くのを待つことにした。すると店の看板を見上げていた芳乃が言った。
「わたしは牛丼は食べられない」
とりとんの看板にはどんぶりの絵が大きく描かれている。ぱっと見には牛丼屋のように見えるが看板の左端にはマンガちっくなニワトリの顔、右端には豚の顔が描いてある。
「ここの肉は高山農場の豚と鶏だけだよ」と俺は答えた。「完全無農薬飼育ですごくうまいんだ。豚と鶏なら大丈夫だよな?」
「ああ、それなら大丈夫だ」芳乃が答える。
続けて母さんが言った。
「無農薬飼育って言っても、吉鷹村ならあたりまえだから芳乃ちゃんにとっては普通の食材だけどね。もともとあたりまえだった食べ物を高いお金を出さないと食べられないっていうのは悲しいことよね」
母さんは有機野菜や健康的に育てた安全な食肉なんかが少しでも多く、安く流通するような社会にするための仕事をしている。だから家で食べるものも外食も、基本的には「健康的で安全な食材」を選んでいる。下総市では安全な食品の生産や流通が、実験プロジェクトとして国のバックアップを受けているし、北総エナジーを筆頭とする地元の企業がスポンサードしているため、下総市民、特に学生は非常に安価に安全な食材を入手できる。それでも一般家庭の家族が毎日の食事を100%安全な食材でまかなうには、生産や流通にまだまだ根本的な改革が必要なのだそうだ。
「おまたせー! 席空いたよ、どうぞー!」
店から出てきてそう言ったのはエプロンをかけた春香だった。姿が見えないと思ったら配膳や片づけを手伝っていたらしい。
「ごめんねー、待たせちゃって。最近土日のお昼は忙しくてねー」厨房から朝子さんが顔を出して言った。「でも今日はまだ少ないほうかな。一回転して落ち着いたし、ゆっくり食べていってね。春香ちゃんもう大丈夫だよ。助かっちゃった、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして。おなか空いたね。姫ちゃん、何にする?」春香は卓上のメニューを広げた。「あたし鶏つくね丼にしようかな」
「わたしには……これは高級すぎて、とても贅沢のように思える」芳乃はしばらくメニューを見て言った。
「値段のこと?」春香が答える。「学生は値段の横に書いてあるポイントで支払えるから大丈夫だよ。現金に換算したって牛丼のチェーン店より安いよ。姫ちゃん、まだ1ポイントも使ってないでしょう? なんでも食べ放題だよ。……あ、そういえばSPD持ってないか」
SPD、Students Personal Device というのは、市内の学生に配布される携帯端末で、スクール端末と呼ばれることもある。いわゆるスマートフォンだ。この端末には、ポイント認証機能が内蔵されていて、毎月一定額のポイントがチャージされ、市内の認定店で現金の代わりに使用できる。順聖堂学園の生徒が学区内で使用する場合は特に割引率が大きく、通常価格ではかなり高額なお店での食事も、学生なら学食代わりに利用できる。
「端末はこんど持ってきてくれればいいよー」注文を取りに来た朝子さんが言った。
「俺は豚しょうが焼き丼、ごはん特盛り」
めちゃくちゃ腹が減った。特盛りでも足りないかもしれない。でも野菜食べ放題だしな。大丈夫だろう。
「じゃあ、あたしは豚ロースソテー丼。芳乃ちゃん、決まった?」母さんが芳乃のほうを見て言った。
「では、わたしも春香と同じものにしてくれ。ただ……ご飯は少なめでお願いしたい」
「はーい、ご飯少なめ、っと」朝子さんが注文を書きながら言った。「あら? この子はじめてかしら? すごい美人さんだねー。春香ちゃんのお友達? もう少し小さい? 従妹とか?」
朝子さんがそう言うと、芳乃は下を向いて真っ赤になった。あいかわらず人見知りなんだな。
「この子はねえ、芳乃ちゃんって言うんだよ。吉鷹村のお姫様なんだって。あたしは姫ちゃん、って呼んでるの」と春香が答えた。
「俺の同級生なんだけど、昨日の嵐で家が壊れちゃって、うちに泊まってもらってるんだ」と、俺は説明の難しい部分は飛ばして補足した。
「えー! そうだったんだ。小さいから春香ちゃんのお友達かと思っちゃった。ごめんね。あたし朝子、よろしくね」
「……よ……よろしく」芳乃が小さな声で答えた。
「いまはウチが農場広げちゃって家も少し離れちゃったけど、昔はお隣でね。あたしたちと孝ちゃん、春香ちゃんは幼馴染みたいなもんなんだ。兄貴たちはどっちかっていうと菜々実さんの子分みたいな感じだったけどね」
「コホン」母さんがわざとらしい咳をする。「あーちゃん、人をガキ大将みたいに言わないでちょうだい」
「あははは。じゃ、すぐ作るから。ちょっと待っててね。あ、野菜好きなだけ食べてね」
「いただきまーす!」
春香は野菜を山盛りにして持ってきた。とりとんの野菜はほとんど高山農場の自家栽培だ。野菜農家ではないが店で出す野菜はほとんど農場内の畑やハウスで作っているらしい。肉はもちろん最高に美味いが、野菜も本当に美味しい。今日は大きめに切られたトマトやキュウリがゴロゴロとボウルに盛られている。他にはキャベツや茄子の浅漬けなんかもある。サラダバーとかいうしゃれたものではなくて、正に「新鮮野菜の食べ放題」だ。
芳乃も小さな器にほんの少しの野菜をとって戻ってきた。
「野菜嫌いなのか?」
「そんなことはないが、あまり多いと食べきれない」
ふーん、やっぱり少食なんだな。芳乃は目を閉じて手を合わせると「いただきます」と言って野菜をちまちまとかじっている。
頼んだ料理はほとんど同時に運ばれてきた。やっぱりとりとんの肉は美味い。地元産の米も美味い。
「お兄ちゃんなんなの? そのマンガみたいなご飯? また特盛りなの?」
とりとんの特盛りはでかい丼にさらにご飯が山盛りになっている。並盛りの三倍はあるだろう。
「いくら学割ポイントで安く食べられるからって、残したりしたらダメだからね!」
「残すわけねえだろ! これでも足りないくらいだよ」
俺はどんぶりを持ち上げて肉と白飯をかきこんだ。いやマジうめえ。
向かい側の芳乃は左手にどんぶりを持ってやはり少しづつ口に運んでいる。そして咀嚼が妙に長いのでどんぶりの中身はいっこうに減らない。しかし小柄な芳乃が持つと普通のどんぶりも大きく見えるな。こうして見ると手も小さい。それに昼間こうして面と向かうとやっぱり綺麗な顔立ちだ。肌の色も透き通るように白い。
「お兄ちゃん?」春香が言った。「なんでそんなに姫ちゃんを見つめてるの? やっぱり変態なの? ロリコンなの? いくら可愛いからって、あんまりじろじろ見てあたしの姫ちゃんを汚さないでよね」
芳乃ははっとして顔を上げると赤くなって下を向いた。
「俺は変態でもロリコンでもねえ! だいたい芳乃は同い歳だ。それになんだよ、あたしの姫ちゃん、って」
「あたしの姫ちゃんはあたしの姫ちゃんよ。『あたしの親友の姫ちゃん』とか『あたしの家族同然の姫ちゃん』の略よ。それくらいわからないの? とにかくあんまり姫ちゃんを見ないでよね。今度見たらお金取るから。あっそうだお風呂場で撮影した姫ちゃんプライベート秘蔵動画を特別価格で売ってあげようか?」
「えっ? そんなのあるのか!?」俺は思わずガタンと椅子を倒して立ち上がった。芳乃は驚いたのか「けほけほ」と咽ている。
「あるわけないじゃん。お兄ちゃんのバカ! 変態! ロリコン! デバネズミ!」
「くっそーふざけやがって」秘蔵動画という単語に反応してしまうのは健全な男子高校生の悲しい性だ。俺は断じて変態ではない。「だいたいなんだよ、デバネズミって」
「デバネズミの正式名はハダカデバネズミよ。主にアフリカ中部の……」
「もういい、わかった……」
不毛な言い争いだ。俺は春香には勝てない。いま気づいた。いや嘘です、前から知ってた。
「うふふ。うちはお兄ちゃんと妹の仲が良くてほんとに良かったわ」
にこにこしながら母さんが言った。この人もちょっとおかしい。




