第17話 食卓
「さあ、すっかり遅くなっちゃったけど夕ご飯にしましょう」母さんが言った。
食卓に四人が座る。芳乃は俺の隣に座った。
今日の夕食は有機生野菜のサラダと高山農場のベーコンと卵で作ったスパゲッティカルボナーラ。それとスープストックに刻んだニンジンとタマネギを入れたコンソメスープ。俺のパスタは特盛り三人前だ。
「いただきますっ!」春香がでかい声を出す。
芳乃は目をつむって手を合わせ何か口の中でつぶやくと目を開けて「いただきます」と言い、そのまま椅子を引いて立ち上がった。
「菜々実殿、春香、孝一郎、今日は私のためにいろいろと迷惑をかけてしまい、本当にすまなかった」そう言って芳乃は頭を下げた。「しかもこのようなもてなしまでいただいて、本当に感謝している。ありがとう」
へえ。芳乃ってちょっと偉そうな自称神様かと思ったら意外ときちんとしてるんだな。
「よ、芳乃ちゃん、座って」母さんが言った。「今日はわたしが半分無理を言って来てもらったようなものだし、わたしも久しぶりに芳乃ちゃんに会えてすごく嬉しいのよ」
「春香だって姫ちゃんと仲良くなれて嬉しいよ! うちには変態兄貴しかいないから本当のお姉ちゃんができたみたいで幸せだよ!」
「おい、いいかげん変態呼ばわりはやめてくれ。風呂場の件は悪かったよ。さあ、冷めないうちに食べようぜ」
「うん! 食べよう食べよう!」春香がパスタを口に運ぶ。「うん、美味しいよ、お兄ちゃん! 合格合格」
「なんで俺がおまえに合格判定をもらわなきゃならないんだ」
「姫ちゃんも食べてみて、カルボナーラ。口に合うかな?」
芳乃はパスタを小さく一巻き分フォークに巻いて口に運んだ。目をつむってゆっくりと咀嚼している。そしてコクリ、と飲み込むと……動きが止まった。右手にフォークを持ったまま、だんだん表情が険しくなってきた。眉を寄せ、口を引き結び、目をぎゅっと閉じている。
「ん? どうした?」
心なしか、唇が小さく震えているようにも見える。まさか卵アレルギー? いや、牛肉以外なら大丈夫だと言ってたよな。てことは……ひょっとしてまずいのか。食べたこと無いって言ってたからな、カルボナーラ。自称神様だもんな。日本の神様は食べないだろうからな、パスタとか。
「芳乃。あの、ごめん、口に合わなかったか。無理して食べるな。いま何か別なものを作るからとりあえずサラダでも……」
すると芳乃はふるふると首を横に振った。
「……いや、でも」
「大丈夫だ。何も問題は無い」
芳乃はそう言うと、またパスタを一巻き巻いて口に入れた。そしてまた黙って下を向いてしまった。
「芳乃ちゃん、無理しなくていいのよ」心配そうに母さんが言う。
「そうだよ、芳乃。おまえは俺たちに気を使って無理して食べているのかもしれないけど、そんな気遣いは無用だぜ。まずいとか食べられないとか、ちゃんと言ってくれよ。まあ食べたことが無いものを無理矢理出した俺が悪かったんだ。いますぐ何か作るからちょっと待っててくれ」
俺が椅子を引いて立ち上がると芳乃が俺のスウェットの袖をつかみ、俺の顔を見てこう言った。
「違うのだ。孝一郎」
「いや、違わないだろ。無理すんなよ」
俺はちょっとだけイラついていた。無理して食べてくれても嬉しくはない。まずいならまずいと言ってくれたほうがいい。
「そうだよ姫ちゃん。無理しなくていいよ。お兄ちゃんのカルボナーラなんて全然大したことないんだから」
春香よ。さっきは合格だといって喜んで食べてなかったか?
「いや、そうではない。このカルボ……ナーラというスパゲッティは、……ゆ……」
「ゆ?」「ゆ?」俺と春香がハモった。
「ゆ……夢のように……美味しい」
「え?」「え?」
「わ、わたしは生まれてからこれまで、こんなに美味しいものを食べた覚えが無い。あまりにも美味しくて、胸が……いっぱいになってしまったのだ」
芳乃は俺の袖をつかんだまま、また目をぎゅっとつむって下を向いた。その目から、涙がぽろぽろとこぼれた。俺は、力が抜けてそのまま椅子に座り込んだ。
俺たちは食事を再開した。
どうやら芳乃は本当にはじめて食べるカルボナーラの味に感激したらしかった。芳乃もだいぶ気持ちが落ち着いた様子だが、その食べ方は非常に少量をゆっくり噛んで食べるので、とてもペースが遅い。こんなところも何気にお姫様っぽい、と思えるのは気のせいだろうか。俺も芳乃にペースを合わせてゆっくり食事をしながら、今日起こった出来事を母さんと春香に話した。
「へえー、オオカミ!?」春香が話しに食いついた。「本当にオオカミなの?」
「そうだ」芳乃が短く答える。
「すごーい!あたしも会ってみたいなあ、オオカミさん」
「おい春香。あれは『オオカミさん』なんていう可愛らしいもんじゃなかったぞ。おまえなんか一口で噛み殺されるぞ」
「それはお兄ちゃんが反友好的だからじゃない? あたしなら友達になれると思うな。だって姫ちゃんとはお友達みたいなものなんでしょ?」
春香が話を向けると芳乃が答えた。
「いや友達、という関係ではないと思うが、少なくとも私に危害は加えない」
「ほおら、だったらあたしともお友達になれるよ」
「なれねーよ」俺は春香に向かって言った。だが、こいつならひょっとして本当にオオカミと仲良くなっちまうかもな。
俺は芳乃に聞きたいことがたくさんあった。しかし今日はあまりにもいろんなことが起きすぎて、まだ頭の中が整理できない。
「なあ芳乃」
「なんだ」
「芳乃があの山小屋で小学校三年のときから一人暮らしをしているってのは本当なのか?」
「本当だ」
「でもいったいどうして?」
芳乃は食事の手を止めて答える。
「小学校三年のときに母親が亡くなったからだ。父親は私が物心付いたときからいない」
「それは聞いたよ。そういうことじゃなくて、なんていうか、小学生の女の子が山の中で一人暮らしなんて、日本の社会の中であり得ないっていうか、普通じゃないような気がするんだけど」
「普通はどうなのだ?」
「そうだな……。両親がいなかったら普通は親族の家に引き取られるとか、親族がいなければそれなりの施設に入るとか、じゃないかな。……あ、ごめん。別に施設に入れ、って言ってるわけじゃないんだよ?」
「そういった意味でなら、わたしは親族と一緒に暮らしている」
「え?」
「吉鷹村の人間は、みな親族と同じだ。初代松虫姫様がこの土地に下られてから千数百年、時代によっては住む場所が変わったりしたこともあったが、わたしたちは共に助け合い、共に暮らしてきたのだ。実際に村の中の人間同士は血族としてのつながりも深いし、村の全てが親族であり家族なのだ」
「うーん、それと日本の法律は別だと思うんだけど……。そうそう、その松虫姫なんだけどさ……」
「孝一郎」
「うん?」
「……」
芳乃は下を向いて黙ってしまった。よく見るとまた少し唇が震えているようだ。
「あ、ご、ごめん。松虫姫の話は聞かないほうがよかったのかな?」
「……いや、ちがう」
「じゃ、じゃあ何?」
「もう……おなかがいっぱいで、どうしてもこれ以上食べられないのだ。せっかく作ってもらったのに申し訳ない」
「な、なんだ、そんなことか」またガックリと力が抜けた。「気にしないで、残していいよ」
芳乃の皿にはまだ半分ほどパスタが残っていた。特に大盛りにしたわけではないんだけど。スープとサラダはほとんど食べたみたいだけど、小食なんだな。
「いや、それでは孝一郎にも、この食材を作った人にも申し訳が無い。これは明日の朝いただくから、なんとか保存しておいてくれないか」
「ラップして冷蔵庫に入れておけば食べられなくもないだろうけど、温め直したパスタは美味しくないと思うよ? もったいなくて心苦しいなら俺が食べるよ。それ、もらっていいか?」
「わ、わたしの食べかけだが……」
「うん? 俺は全然気にしないよ。自分のぶんは三人前作ったんだけど、かなり腹が減ってたからまだ足りないくらいなんだ」
「そ、そうか……。それなら、お願いする」
芳乃はパスタの皿を俺によこすと、そのまま真っ赤になって、また下を向いてしまった。なんだろう? そんなに食べ残したことが恥ずかしいのか? よくわからないやつだな。
「お兄ちゃんはバカだね」春香が言った。
「なんだよ? 別に無理矢理奪い取ったわけじゃねえぞ。いらないって言うから貰っただけじゃねえか」
「孝一郎はバカねえ」母さんも言った。
「ぐ……」なんだよそれ。わけがわかんねえ。松虫姫の話は……まあ、また今度でいいか。
芳乃には他にも聞きたいことが山ほどあるんだが、いっぺんにいろいろ聞いても困るだろうしな。俺は芳乃からもらったパスタの残りを三口ほどで平らげた。