第16話 素顔
俺はキッチンに戻り、もう一度夕飯をどうするか考えた。
野菜のストッカーにレタス、トマト、キュウリ、スプラウトなんかは入っていたのでとりあえず生野菜のサラダはできそうだ。しかし冷蔵庫のほうは、こんなときに限ってろくな食材が入っていない。
そこへスウェットを着た春香がリビングのドアから顔を出した。
「お兄ちゃん、姫ちゃんの髪の毛ブローしてくるからもうちょっと待っててね」
どうやら脱衣所の件は気にしていないらしい。春香のさっぱりした性格は、こういうとき助かる。
「ああ、ところで今日買い物が出来なくてたいしたおかずが無いんだけど、サラダとパスタとかでもいいか?」
「うん。いいよー」
「芳乃は何かアレルギーとか苦手な食べ物とかあるか?」
春香の後ろから芳乃がわずかに顔を出した。濡れた髪にタオルを巻き、春香に借りたブルーのスウェットを着ているがどうやら革バンドは巻いていないようだ。
「わたしは……牛肉以外なら何でも食べられる」
「へえ、牛肉ダメなのか。豚は大丈夫か? ベーコンとか」
「ああ、大丈夫だ」
「じゃあ卵もあるからカルボナーラにするか」
「あ、いいね! カルボナーラ」春香が言う。「でも生クリーム入れないで。卵だけのやつがいい。姫ちゃんはカルボナーラでいい?」
「……わたしはカルボナーラ、というものを食べたことが無い。でもそれでいい」
「へえ、そうなんだー。でもお兄ちゃんのカルボナーラは美味しいよ! 卵もベーコンも高山農場の特A品だしね。じゃあお兄ちゃん特製カルボナーラよろしく!」
そういうと二人は二階へ上がっていった。
入れ替わりに部屋着に着替えた母さんが二階の部屋から降りてくる。
「なんか騒がしくなかった?」
俺は脱衣所の騒ぎを説明した。
「そう。そういえばあの黒いバンドは……」と、母さんがつぶやいた。
「ん? 母さん何か知ってるのか?」
「え? うん、ちょっとね。あ、わたしも先にシャワーだけ浴びてくるね」
「どうぞごゆっくり」
母さんは芳乃のことを知っていたみたいだけど、どういうことなんだろう。まあ、あとでゆっくり聞いてみよう。
俺は調理にとりかかる。壁の時計を見るともう夜の10時近い。そういえばめちゃくちゃ腹が減った。俺はストッカーから乾燥パスタのボックスを出していつもより多めに計って取り出した。
サラダ用の野菜を洗って水切りし、大き目の鍋でパスタのお湯を沸かしていたら母さんがリビングに戻ってきた。この人、いちおう女なのにいつも風呂が早い。髪の毛もたいてい濡れたままだ。そして冷蔵庫を開けてビールを探している。その時、階段のほうからドタドタと音がして春香が下りてきた。
「たいへんたいへん変態お兄ちゃん、たいへんだよっ!」
「おい、いま『たいへん』以外の単語が混じってなかったか?」
「いやー、お兄ちゃん、そんなことより大事件だよ! スクープだよ! 明日のトップ記事だよ!」
「なんだよ騒がしいな。夕飯ならあと15分待て」
俺は沸騰したお湯にパスタを投入してキッチンタイマーをセットした。
「あれ? 生パスタじゃないの?」
「そんなもん作ってる時間ねえだろ。我慢しろ」
ちなみに俺はモチモチした生パスタより、アルデンテに茹でた乾燥パスタが好きだ。
「あー、そうじゃなくて! ……ほら、姫ちゃん、入って!」
「ん? 芳乃がどうかしたのか? それよりサラダ手伝ってくれよ」
「姫ちゃん! ほーーーらーーー! はーやーくーーーう」
春香が芳乃の手首をつかんで無理矢理部屋の中へ引きずり込む。俺は対面キッチンのカウンターから顔を上げた。
「さっきからいったい何を――」
そこまで言って言葉を失った。
「お兄ちゃん、どう?」
「……どう、って……おまえ……この子は?」
「何言ってんのお兄ちゃん、姫ちゃんだよ。千堂芳乃ちゃんだよ」
「芳乃……か」
「そうだよ。姫ちゃんだよ」
ボサボサであちこち飛び跳ねていた髪は右肩のところで綺麗にまとめられて胸の前に下ろされていた。きちんとブローされた髪は春香よりも髪色が明るく、柔らかそうなウェーブを描いてとても綺麗だ。目の上に覆いかぶさっていた前髪もヘアピンで留められ、隠されていた素顔が見える。
切れ長で涼しげな目は恥ずかしそうに床を見つめている。いかにもきめの細かそうな絹色の肌は、風呂上りだからか、恥ずかしいからか、わずかに上気して、頬やうなじが桜色に染まっている。小さく形のよい唇は、春香がリップクリームを塗ったのだろうか、つややかに光っていた。まるで日本人形とフランス人形の良いところを足して二で割ったような美少女だった。
「あらあ、芳乃ちゃん? すごくかわいいじゃない!」
冷蔵庫からビールを発見した母さんも驚いたようにそう言った。
「姫ちゃんの髪ね、ごわごわのくせっ毛に見えたんだけど、いままで一度もリンスもコンディショナーも使ったことが無かったんだって。それにブローのしかたも全然知らないって言うし。それにこの綺麗な肌と綺麗な顔立ち。なんで髪の毛で隠してたんだか! どうよ? お兄ちゃん! 姫ちゃんこそ完全無欠の美少女じゃない? この美しさはタダモノじゃあないよね。やっぱり姫ちゃん、本物のお姫様だよ!」
「あ、ああ……そうだな」
正直俺は驚いてしまって、口を開けて芳乃を見ていた。
これを完全無欠の美少女と言うかどうかはわからない。容姿が可愛い、というだけなら兄の俺が言うのもなんだが、妹の春香も相当可愛いほうだと思う。春香はくりっとした大きな目や、いかにも健康的な肌色や、いつも明るく大きく口を開けて笑っているような快活な印象のある美少女だと思う。
だが芳乃は春香とはまったくタイプが違っていて、静かで落ち着いていて、どこかクールな印象を受ける。しかし春香が言うように、普通の中学生や高校生の少女が持っていないような、何か独特な、そう、言ってみれば高貴な血の美しさを持っているように感じてしまう。芳乃は本当に……本当に本物のお姫様なのだろうか。
「ふっふっふっ。どう? お兄ちゃん。姫ちゃんのあまりの美しさ、可愛らしさに声も出ないって感じだね。でもダメだよ。あたしが最初に唾つけたんだからねっ」
「なんでおまえが唾つけてんだよっ!」
と思わず突っ込んだところでキッチンタイマーがピピピピっと鳴った。