第14話 富岡春香
「じゃあ芳乃ちゃんは貴重品と身の回りの当面必要なものだけまとめてね。部屋着とかはうちの娘のを貸すから持たなくても大丈夫よ」
母さんは散乱した家の中をテキパキと片付けながら芳乃にそう言った。
「僕はこのあと穴の開いた屋根をブルーシートか何かで塞いでおきますよ。応急措置ですけどね。修理はなるべく早く手配しておきます」
と圭吾さんは俺たちに言う。俺は自宅の住所と電話番号、自分の携帯番号をノートに書いて、それを破って圭吾さんに渡した。
「これ、連絡先です」
「ああ、ありがとう。芳乃様をよろしくお願いしますね。孝一郎くん」
「あの……今日はいろんなことが起きて、自分でもまだわけがわからなくて。えっと、圭吾さんにも聞きたいことがいっぱいあるんですけど……」
そのとき家の中から母さんが大声で言った。
「さあ、仕度ができたわよ。コウちゃん、荷物持って」
「……あ、うん、わかった」
俺は母さんに答えると、圭吾さんに向き直って言った。
「それじゃあ今日は時間も遅いので俺たちは行きますね。何かあればさっきの連絡先に電話してください」
「うん、そうさせてもらうね」
「また近いうちにお話する時間をとっていただけますか?」
「ああ、もちろん」
「ありがとうございます。それじゃ」
俺は軽く会釈すると家の中に入った。
芳乃の荷物はトートバッグほどの肩掛けの袋が一つだけだった。女の子が外泊する荷物にしてはずいぶん少ないような気がする。うちの妹なんか、一泊の旅行だって、何が入っているのか知らないけれど、持ちきれないほどの荷物をバカでかいボストンバッグ2つに詰め込んで、さらに肩掛けのバッグまで持って行く。
「これだけ? 貴重品とか、全部持ったのか?」
「ああ。貴重品と言っても自分の財布くらいだ。書類のたぐいや生活費は権太夫が管理しているからな。神剣も権太夫に預けたよ」
「そうなんだ。よし、じゃあ行こうか」
芳乃は圭吾さんと何か話をすると石室山を仰ぎ見て拍手を打ち、深々と頭を下げた。俺たちも圭吾さんに簡単に挨拶をして南の山門へ降りる。母さんの軽自動車は山門の前に停めてあった。芳乃を後部座席に乗せると、俺は助手席に座ってシートベルトを締めた。
「山を離れるのは久しぶりだ」と窓の外を見て芳乃は言った。
俺の住んでいる大沢町は、石室山神社の南門から見るとちょうど山を挟んで反対側なので、山を囲む県道をぐるっと迂回しなければならない。とは言っても信号も渋滞も無いから、クルマならのんびり走っても10分か15分くらいの距離だ。
母さんの運転でクルマが動き出すとすぐに、カーオーディオから電話の着信メロディが鳴った。母さんのスマートフォンがハンズフリーモードでつながっているらしい。
「もしもし? 春香?」母さんが電話に出て相手に呼びかける。
「お母さん? もー! この留守電メッセージ何? 意味わかんないんですけど」
電話の相手は妹の春香だ。
「あー、ごめんごめん、話中みたいだったからさ」
「『吉鷹村のお姫様のおうちが壊れちゃったから連れて帰る。お風呂沸かしといて』って何? どーゆーこと? お姫様ってだれ!?」
「あー、そのまんまよ。いま運転中だからさあ、詳しいことは帰ったら孝一郎に聞いて」
「お兄ちゃん一緒なの? ちょっと代わって!」
相変わらず騒がしいやつだな。僕はクルマのマイクに向かって話しかける。
「なんだ? 春香」
「もー! なんだじゃないわよ。夕飯係でしょ! お腹すいたんですけど!」
「……そんなに騒ぎ立てるなよ。姫の御前であるぞ」
俺はちょっとふざけて釘を刺してみる。
「お姫様、ほんとにいるの?」
「ああ、いるよ。木箱の中で鳴いてたから拾ってきた」
「ええっ!? 捨て猫なの? それとも捨て犬?」
「いや……どちらかというとオオカミの親分かな」
「……。もー、お兄ちゃんのバカ。トンチキ」
ブツッと音がして電話が切れた。からかわれてると思って怒ったらしい。てか、トンチキ、ってなんだ?
「いまのは孝一郎の妹殿か?」
「ああ、妹の春香だよ。騒がしいやつだろ?」
ところで俺は呼び捨てで妹は殿付け……ってどういうことだ?
「なんだか怒っているようだったが、やはり私が行くのは迷惑なのではないか?」
「いやいや、あれはただ腹が減ってるだけだ。春香は誰が来ようが迷惑がったりしないよ。あいつの特技は初対面の人間とでも、ほんのちょっとの時間で友達になっちまうことだ。ほとんど老若男女関係無しだぜ? 泣いてる赤ん坊だってあっという間に笑わせちまうし、獰猛な番犬だって尻尾振って擦り寄ってくるんだ。あのコミュ力はもうほとんど神業だよ」
「ほんとよねー」母さんが運転しながら口を挟む。「ぶっきらぼうで愛想の無いお兄ちゃんとは大違いだわー」
「余計なお世話だ」
どうも妹と比べられるのは分が悪い。
クルマは将官川の橋を渡って大沢町に入る。どちらかというと昔からこの村に住んでいる人の古い民家が多い静かな住宅街だ。俺の家は村の中央通りから少し奥に入った場所にある。もともとは亡くなった祖父母の家のあった場所だが、五年くらい前に古くなった家を建て替えたので、このあたりでは比較的新しい建物だ。
母さんは有機野菜や自然食品の流通の仕事をしている。詳しいことは知らないが、その方面ではトップクラスの会社らしい。自宅の裏には五十坪くらいの小さな畑があって、家で食べる野菜の一部は、そこで栽培したりしている。立派なガレージとかは無いけれど、家の敷地には乗用車なら四,五台は止められるスペースがあって、僕たちが乗る軽自動車はそこに停まった。
「あたしは荷物を倉庫に降ろしちゃうから先に家に入っててね」
そう言うと母さんは段ボール箱を抱えてプレハブ倉庫のほうに歩いていった。
「おかえりー!」クルマの音を聞いて、妹の春香が家から出てくる。
「ただいま」
「うおっ! その子がお姫様? こんばんわー! わたし富岡春香だよ。よろしくねっ」
兄の俺が言うのもなんだが、春香のこういう人怖じしない性格と笑顔は本当に天使のようで、そこらのアイドルでは太刀打ちできないくらいのパワーがあるような気がする。そりゃあ簡単に友達もできるだろうよ。
「お兄ちゃん! 子犬とかじゃないじゃん! 人間じゃん! もー! どこで拾ってきたの? お兄ちゃんロリコンなの?」
「あはは、……って洒落にならねえぞ、春香。……あれ? 芳乃はどこへ行った?」さっきまで俺の横にいた芳乃は……。いた。俺の後ろに隠れている。
「せ、千堂……芳乃、だ」
芳乃は俺の背中からわずかに顔を出して蚊の鳴くような小さな声で言った。あれ? もしかしてこいつ、人見知りなのか?
「芳乃ちゃんかー! ちょっと古風な感じでいい名前だねっ。おうち壊れちゃったんだって? 大変だったねー。お風呂入ったら一緒にご飯食べて、いっぱいお話しようね。お兄ちゃんトンチキだけど、ご飯はおいしいの作れるんだよ。楽しみにしててね、芳乃ちゃん!」
おいおい、人見知り芳乃が俺の背中に隠れて怯えてるじゃねえか。少しは空気読めよ。てゆーか何だよさっきからトンチキって。
「おいマイペース春香」
「ん? なあに? トンチキお兄ちゃん」
「おまえはたぶん勘違いしていると思うから言っておくが、芳乃は俺の同級生だ」
「えー!! そうなんだ! 小さいからてっきり同い年か年下くらいかと思っちゃった。ごめんね芳乃ちゃん……じゃなくて、芳乃さん」
「…………芳乃でいい」
「え?」
「さんはいらない。芳乃でいい」
「いやあ、さすがに二学年も年上のお姉さんを呼び捨てにはできないよ」
……春香よ。おまえはさっき二学年も年上の兄をトンチキ呼ばわりしてなかったか?
「かまわない。呼び捨てでいい」
「じゃ、じゃあ……うーんと、お姫様だから『姫ちゃん』て呼んでもいいかな」
「…………」
芳乃の反応が無い。なんだ? イヤなのか? まあ確かに『姫ちゃん』てガラじゃないかもな。
「あー、ごめんねー、慣れなれしすぎるよね。やっぱりわたしは『芳乃さん』って――」
「いや、そ、それでいい」
芳乃は俺の後ろでうつむいて小さな声で言った。あいかわらずボサボサの髪の毛が顔を隠しているが、髪の間からわずかにのぞく耳が真っ赤に紅潮している。
「え? あの……姫ちゃん、でいいの?」
「ああ、それがいい。わ、わたしは、生まれてから今まで、あだ名や呼び名で呼んでもらったことが無いのだ。なにか……こう、気恥ずかしいというか、もったいないというか、わたしなどには、に……似合わないのではないだろうか」
「ああ、確かに似合わな……むっ! むごがっ!」
ずいっと前に出た春香が俺の口を塞いだ。なんだよ、俺に発言権は無いのかよ!
「お兄ちゃんは話に入ってこなくていいから、早く晩ご飯作ってね」
そう言うと春香は芳乃の手を取った。
「さ、姫ちゃん、おうちに入ろ。ずいぶん汚れてるからまずお風呂だね。そうだ、一緒に入ろうか? あたしいつもは寝る前に入るんだけどね。うち、お風呂だけは大きいんだよ。昔建ってたおじいちゃんの家のお風呂が広くてね。お母さんがお風呂だけは広くしたい、って。沸かすのに時間がかかるし、冬は寒いし、掃除も大変なんだけどね。でも友達がお泊りで遊びに来るとよく一緒に入るんだよ」
「じゃあ俺も一緒に……」
「お兄ちゃんっ!」春香が怖い顔でにらむ。
「い、いや……冗談だよ」
「お兄ちゃんは外のシャワーで体を綺麗にしてから家に入ってね」
「外のシャワー、って」
「お風呂覗いたら殺すからね」にっこり笑った。にらまれるより百倍怖い。
「じゃ行こっか、姫ちゃん」
そう言うと春香は芳乃の手を引いて家の中に入っていった。