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松虫姫物語  作者: 中沢七百
幕間
15/102

松虫姫伝説

 ときは奈良時代。

 聖武天皇しょうむてんのうの第三皇女、不破内親王ふわないしんのう、幼名松虫姫(まつむしひめ)は、それはそれは美しい姫君でした。しかし不幸にも十四歳にして不治の病を患い、苦しんでおりました。

 父親の聖武天皇は、仏様への信心のあつい人でしたが、松虫姫様も日夜、仏様へ快癒かいゆを祈っておられました。


 ある夜、そんな姫様の夢枕に、薬師如来やくしにょらいの使者があらわれてこう言いました。

坂東ばんどう下総しもうさの国(※)へ行きなさい。印旛沼いんばぬまのほとりに萩原はぎわらという村があります。その村の薬師堂に参りなさい」


 これを聞くと天皇は喜び、姫を下総の国へ向かわせました。

 お供には乳母の杉自すぎじ、護衛の権の太夫(ごんのたゆう)、僧侶の行基ぎょうき、そして武者を何名か付け、姫様は牛の背に乗り、奈良の都を旅立ったのでした。


 坂東は、鬼のむところと言われ、旅は困難を極めました。様々な災厄を経て供回りの人数も減ってしまいましたが、姫様一行はなんとか下総の国、萩原村にたどりつきました。

 はたして、沼のほとりには古びた薬師佛を祭る小さな薬師堂がありましたので、姫様はかたわらに質素な草庵を結び、暑い日も、寒い日も、薬師如来様へ一心に祈る毎日を過ごされました。


 華やかな都から、坂東のさびしい沼地の村にやってきた松虫姫様は、どんなに心細かったことでしょうか。それでも毎日毎日、熱心に祈りをささげる松虫姫様の姿は、村人たちの心を打ち、徐々に村人たちに慕われるようになりました。

 京の都から姫様の供をしてきた者たちは、村人に読み書き、裁縫さいほう機織はたおり養蚕ようさんなど、都の技術を伝えて村人の暮らしを助けました。


 このような日々を送るうちに、姫様の病はだんだんと良くなり、ついにはすっかり治って、その美しくすこやかなお姿をとり戻したのでした。


 この知らせはすぐに都の聖武天皇に届けられました。

 天皇はたいそう驚き、喜び、すぐに迎えの者を下総の国へ使わせました。

 松虫姫様は親切にしてくれた村人との別れを惜しみながら、奈良の都へ帰りました。


 しかし下総での暮らしの中で年老いた乳母の杉自は村に残り、このまま村人たちに都の学問や仕事を教えながら暮らしてゆくことを決めました。


 都からここまで姫様を乗せてきた牛も年老いていましたので、村に残されることになりました。牛は都から下総への道中、身を挺して姫様を守り、ときには山中で盗賊を突き殺したこともありました。牛は姫様との別れを聞かされるとたいそう悲しみ、自ら近くの池に身を投げて亡くなりました。

 この池はいまでは「牛むぐりの池」と呼ばれています。


 都の高名な医者さえも「決して治ることは無い」とさじを投げた病が完治したのは、薬師如来様のお力であり、姫の信心の賜ものであると考えた天皇は、僧行基に命じてかの地に薬師佛を祭る寺を建立し「松虫寺まつむしでら」と名付けました。


 病気を治し、晴れて都に戻った松虫姫様ではありましたが、その生涯はかならずしも幸福なものではありませんでした。

 幾度かの政争に巻き込まれ、何度も都を追われた姫様は、その長くない生涯の死の床で、「わたしが死んだら火葬にして、骨は下総の地に埋めてほしい」と言い残して亡くなりました。


 松虫姫様にとって、若いころ一心に薬師如来に祈り続けた毎日と、親切な村人たちとの暮らしが、その生涯でもっとも幸福で楽しかった思い出の日々なのでした。


 願いは叶えられ、松虫姫様の遺骨は分骨されて、松虫寺の境内けいだい墳墓ふんぼに埋葬されました。

 この墳墓のそばには松虫姫御廟(ごびょう)と呼ばれる堂が建てられいまに伝えられています。

 そして乳母の杉自も、松虫寺にほど近い、静かな林の中の小さな塚に、姫様の後ろにひかえるように眠っています。


※ 坂東は相模の国より東、いまの関東。下総の国は千葉県北部。

※ 松虫姫伝説は、千葉県北総地方に伝わる伝承です。

※ 松虫姫 不破内親王は奈良時代の実在の人物です。正確な生没年、下総滞在時期については諸説あります。


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