第10話 運命
ここが……芳乃の家だって!?
あらためて部屋を見回してみる。
確かにこの建物は社務所ではなく、アパートの一室のような様相だが、なんというか生活感があまり感じられない。もしここが芳乃の部屋なのだとしたら、例えば読みかけの雑誌とか、コーヒーカップとか、そんなものがあっても良さそうな気がするのだが、この部屋は綺麗に片付いている、と言うよりは、どこか無機質な印象を受ける。
「山小屋のようなところですまないな。そこの椅子にでもかけていてくれ」
芳乃はそう言うと、部屋の奥の扉を開けて中に入っていった。
俺は部屋の中央に置かれたテーブルの椅子に腰掛けた。この数時間のあいだに驚くことが起こりすぎて頭が混乱している。
芳乃には聞きたいことが山ほどあるのだけれど…………。
この山の守り神だというオオカミのような獣、あれはいったいなんだ。
ここに住んでいるという全身革バンドの少女。彼女は本当に俺が訪ねてきた千堂芳乃なのか? さっき二頭のオオカミを一瞬で投げ飛ばしたように見えたがあれはいったいどういうことなのか。
「すまない。待たせたな」
しばらくして奥の扉から入ってきた芳乃は、山門で会った時と同じような服に着替えていた。部屋の明かりの下で見ると、それは黒ではなく黒に近い濃い紺色で、前合わせの上着にやや短い袴という、剣道着をタイトにしたような和服だった。そしてやはり首、手首、足首には金属鋲の黒い革バンドが見えている。おそらくまだ体にも革バンドを巻いているのだろう。
「これを使ってくれ」芳乃は俺に大判のタオルを差し出した。「あとこれは道着だが、わたしの着物よりかなりサイズが大きいからおまえでも着られるだろう。濡れた服を脱いで着替えたらいい。袴のはき方はわかるか?」
「え…………? あ、ああ、袴ならはけるよ」
芳乃はタオルと一緒に、平たいカゴに入った着物を差し出した。やはり何かの武道の道着らしい。
カゴを置くと芳乃は俺に向かってたずねてきた。
「そういえばさっき剣の腕には自信があると言っていたな。剣道をやっているのか?」
「……いや。剣道は中学まででやめたんだ。いまは帰宅部だよ」
「そうか。ともかく早く体を拭いてそれに着替えろ」
「……着替えろ、って言っても…………」
「どうした?」
「……ここで?」
「……? わたしは別に気にしないから大丈夫だ」
「い、いや、俺が気になるんだけど……」
「なんだと? さっきおまえはわたしの前で裸になって服を絞っていたではないか」
「いや、だって、さっきは緊急事態だったし、薄暗かったし……、それに上も下も着替えるってことはパンツだけに…………」
「ぐだぐだと女々しいやつだな、さっきおまえはわたしの着替えているところを見なかったか?」
「……う」
ああ見たよ、見ましたとも。服を脱いだところをバッチリね。革バンドでグルグル巻きだったけどな。ほとんど凹凸は無かったけどな…………とはさすがに言えないが。
「まあいい。それなら奥の部屋で着替えろ。脱いだものはとりあえずそのカゴに入れておけ。うちには乾燥機のようなものは無いからな」
「あ……ああ、ありがとう」
俺は借りたタオルと着替えを持って奥の部屋に入った。
そこはやはり同じような板の間で、片側に調理用のシンクと据え置きのガスコンロ。小さな冷蔵庫と古びたガス炊飯器の乗った引き出しつきのワゴン。反対側に古びた食器棚。中央に木製の四人がけのテーブルがある。要するにダイニングキッチンだ。入ってきたドアの並びにもう一つドアがある。寝室だろうか。
奥の突き当りには勝手口らしきドアもあった。
俺は濡れた服を脱ぎ、タオルで体を拭くと道着に着替えた。着慣れた剣道着よりはやや生地が厚く、上着の袖や袴の裾は少しきつめだが、おそらくそういうデザインなのだろう。これで袖口と裾を絞って頭巾でもかぶったら忍者装束に近いかもしれない。
「服は着られたよ。ありがとう。借りちゃってよかったのかな?」
「うむ。なかなか様になっているではないか。それは父親の形見だがとっておいてよかったな」
「ええっ? お父さんの形見だって!? そんなもの借りちゃって良かったのか?」
「かまわない。形見と言っても納戸の隅に十何年も放置してあっただけのものだ。役に立つなら使ったほうがずっといい」
「十何年も……? 芳乃のお父さんって、そんなに早く亡くなったのか?」
「父はわたしが生まれて六ヶ月のときに事故で死んだのだ。だからわたしは父の顔を写真でしか知らないし思い出も無い」
「そうなんだ。うちの父親も俺が六歳のときに病気で亡くなってるから、似たような境遇かな。二つ下の妹は、父親との思い出はほとんど無いって言ってるし」
俺の父親は中堅商社に勤めていて、海外勤務が多かったから俺も父親との思い出は少ない。商談のために中央アフリカの国に滞在していたとき、現地の風土病にかかって亡くなった。現地で火葬されて、日本には遺骨だけが帰ってきた。
「じゃあここにはお母さんと二人暮らし?」
俺は続けて芳乃に質問をした。
「母は小学校三年のときに病気で死んだ。ここには一人で暮らしている」
「一人で? それっていつから?」
「母が死んでからずっとだ。小学三年の夏から一人で暮らしている」
「ええっ! 小三の夏から……って、そんなまさか……」
俺は言葉を失った。小学三年の女の子がこんな山の中で一人暮らしだって!?
そんなことができるのか?
いや、できるはずがない。もしできたとしても、そんなこと法律的にだって許されないんじゃないのか? 普通は親族に引き取られるとか、そういう人がいなければ、それなりの施設のようなところに入るとか。
ただでさえこの数時間の間の不思議な出来事で脳みそが飽和状態なのに、まだまだ驚きの連鎖が止まらない。
俺は芳乃の向かい側の椅子に腰をかけると、気持ちを落ち着かせるために大きく深呼吸をした。
「そういえばさっきの犬……じゃない、オオカミたちはどうしたんだ?」
「ああ、投げ飛ばすときに頚椎のツボを突いた。うまくツボに入っていればしばらくは動けないだろう」
「ツボを突いた……って、あの一瞬の間にいったいどうやって? そういえばあのときオオカミたちが投げ飛ばされたのって何かの武術みたいなもんなのか?」
「当家に代々伝わる体術だ」
「じゃあやっぱりあれは芳乃が投げたのか! すげえな! あれ! 教わったら俺にもできるか?」
「当家の体術を会得するには、まずは精神の鍛錬が必要だ。孝一郎は剣の筋はいいようだが、わたしから体術を学ぶにはまだまだ早いな」
うわ……。どうみても小中学生にしか見えない女の子にお子様扱いされちまったよ。でも……まあ、仕方ないか。実際、俺は芳乃を守れなかった。
「…………くそっ」
「そんなに悔しがることはない。当家の秘術を学べる素養をはじめから持っているものなど世界中探してもいないだろう。孝一郎も精神修養からはじめれば……」
「いや、そうじゃねえよ」
「ではなんだ?」
「俺は口ではデカいことを言っておいて、おまえを守れなかった。それどころかおまえに守ってもらって一人で先に逃げた。最低だ……。本当に恥ずかしいよ」
「なんだ、そんなことか。気にすることはない。相手が大神では、いくら剣道の覚えがあるといっても普通の人間が木刀一本でまともに戦える相手ではない。わたしはああいった相手も想定した体術を身に付けているし、多少興奮状態でも大神は絶対にわたしを傷つけないだろうという確信があったから、彼らを押さえ込むことができたのだよ」
「それでもっ!」俺はいまさらながら自分のとった行動の情けなさに気づいて悔しさと恥ずかしさで頭に血が昇っていた。「それでも俺は芳乃を置いて逃げた。俺は恥ずかしい。なんであのとき…………」
「おまえは…………バカなのか?」
「…………え?」
芳乃はぐしゃぐしゃに垂れた前髪の奥から、じっとこちらを見つめている。
「それではおまえは……孝一郎は、あのときわたしの言うことを聞かず、逃げずに大神たちと戦い、喰い殺されてもよかったというのか?」
「そうだ。俺は以前にも戦うべき場所から逃げて、いまでも後悔している。あんな後悔を重ねるくらいなら俺は死んでも戦うべきだった」
中学三年の冬に事故に遭い、内定していた特別優待入学が取り消しになったとき、俺はその学校への進学をあきらめた。特別優待枠ではないがスポーツ推薦で入学はできる、と言われたが、それまで剣道の天才少年と呼ばれてもてはやされていた自分が、試合に勝てずに無様な姿をさらすことになるのが怖かった。そうだ、俺はあのとき……戦いの場から逃げて剣道をやめたんだ。
あのときの選択は正しかったのか。
俺は今でも悩み、苦しんでいる。
「ふむ。心がけは立派だな。だが『死んでもいい』などということは軽々しく口にしてはいけない。おまえが何を決断しようと、何を選択しようと、あそこで死んでしまったならそれも運命だろう。しかしわたしたちは二人とも生きてここにいる。わたしも、そしておまえも、正しい選択をしたのだよ。死んだほうが正しいなどという選択を、神は決して与えない」
「俺は運命も神様も信じねえ」
「だが孝一郎。おまえは山門の鍵を壊すときも、拝殿の建物に入ったときも、神に許しを請うたではないか? わたしはあれがうわべだけの言葉だったとは思えない」
「そうだな。でも俺は普段から神様を崇め奉ったりしてないのに、正月なれば神社に初詣に行って、賽銭を投げて、自分勝手な願い事だけして帰る、ごく一般的な日本人だよ。神様を信じているかいないか自分でもよくわからないけど、とりあえず神社に行ったら手を合わせるだけのことなんだ」
「それならそれで充分だ。孝一郎は神を信じているかどうかはわからないと言うが、神を敬う気持ちはあるではないか。そういった気持ちを持つものは、めったに運命の選択を間違えたりはしないものだ」
「……そんなもんかな。神様はともかく、運命なんてそれこそ信じられないけどな。あー、なんかごめんな。そもそも俺がいろいろ勘違いしてここに飛び込んだから、おまえまで巻き込んでこんな危ない目にあわせちまった」
「いや勘違いはともかく、孝一郎がいまここにいるのも運命だ。おまえは運命に導かれてここにいるのだよ。そのことをわたしに謝る必要はない」
「そうか……」
運命。そんなものが本当にあるんだろうか。
もしあるとしたら、俺が怪我をして剣道をやめたのも運命だって言うのか。
「なんかえらく重苦しい空気になっちまった。まあ、なんだ。要するにあれだよ、俺ってカッコわりいなあー、って話だよ」
「そんなことはない。孝一郎は拝殿でわたしにこう言ったではないか」
「え?」
「『なんとしてもおまえの身は守ってやるから安心しろ』と」
「…………っ」
うわー!!!! 言ったような気がする。いや、確かに言った。なんか…………こうやって落ち着いてから思い返すと死ぬほどこっぱずかしい。
「あんなセリフが言えるのは少女マンガの王子様くらいかと思っていた。実際に自分自身があのようなセリフを言ってもらえることができて実に感慨深いものがあった。おまえはカッコ悪くなんかない。ほんとうにカッコ良かったぞ、孝一郎」
芳乃は口元を押さえてくっくっ、と笑っている。
意外と意地が悪いな、このお姫様は。
「それにしても、何かおかしい気がする」芳乃がつぶやいた。
「何かって?」
「大神たちには、南拝殿からずっと『この男は敵ではない』と伝えているのだ。おそらくそのこと自体は通じているのはないかと思うのだが、あの興奮のしかたは異様な気がする」
「それは……俺が芳乃を閉じ込めたと思って……」
「たしかにそうかもしれないが……」
芳乃は腕を組み、考え込むように目を閉じて言った。
「やはり何かがひっかかるのだ」