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松虫姫物語  作者: 中沢七百
第1章 嵐の石室山と首輪の少女
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第9話 脱出

 幸い雨はずいぶん小降りになっていたが、いぜん風は強く、空にはまだ黒い雲が覆っている。時刻が日没前後ということもあって、あたりはかなり暗くなっていたが周りが見えないというほどではない。

 走って(やしろ)を飛び出すと建物の西側へ回りこみ山道を駆け上がる。


 振り返ると山王丸(さんのうまる)はまだ屋根の穴に首を突っ込んでもがいている。意外と間抜けなやつで助かったな。と、胸をなでおろして前を見ると、道の奥の暗がりから何か黒くて大きな塊がこちらをめがけて突っ込んできた。


雷王丸(らいおうまる)!」芳乃が叫ぶ。

 それは……山王丸とそっくりなオオカミだった。


「二頭いるのかよ! 聞いてねえよ!」


 雷王丸と呼ばれたオオカミは俺たちの数メートル手前で跳躍(ちょうやく)すると、俺をめがけて飛びかかってくる。その瞬間芳乃が俺を横から突き飛ばした。「うわっ!」一瞬目標を失った雷王丸は、そのまま激しい勢いで坂道の下へと転げ落ちていく。


「木の上に逃げろ!孝一郎!」

 芳乃はそう叫ぶとすばやい身のこなしで道の脇の巨木の枝に飛び上がった。


「木の上……って、そんなに簡単に言うけど……うわ!」

 坂道の下で体勢を立て直した雷王丸は、再び俺に目標を定めるとうなり声を上げながら突進してきた。


 もう木登りをしている余裕は無い。俺は大木を背にして腰の木刀を引き抜くと上段に構えて雷王丸を睨みつける。雷王丸もこちらを睨んでいる。

 正面で向き合ってみると、雷王丸の左目には額から斜めに切られたような刀傷があり、どうやら片目しか見えないようだ。


「止まれ! 雷王丸」木の上から渾身(こんしん)の声で芳乃が叫ぶ。「その男は敵ではない!」

 あと10メートルもない位置で、坂道を駆け上がってきた雷王丸の動きが止まった。芳乃の叫びが通じたのか。こいつは山王丸よりは聞き分けがあるのかもしれない。


「孝一郎! 雷王丸から目をそらすな! 『俺はおまえより強い』という意思を込めて睨みつけろ! 視線を外したら一気に飛びかかってくるぞ!」

 言われなくてもこの状況じゃあ視線は外せねえ。

 雷王丸はその場で動かないが、姿勢を低くして、グルルル、とうなり声をあげている。正直おっかねえ。いまにも小便ちびりそうだ。


「んなことより、こいつをなんとか説得してくれよ!」

「いまやってる! だが雷王丸も興奮していて、なかなかわたしの意思が通じないのだ!」

「くそっ! こいつもかよっ! 普段からもーちっと言うことを聞くように(しつ)けといてくれ!」

「だからわたしの飼い犬ではないと言っているだろう」


 その時だった。うなり声を上げる雷王丸の後方から黒い塊が突進してくる。

「あれは……?うわっ! やべえ! 山王丸じゃねえか!」

「止まれ! 山王丸!」木の上から芳乃が叫ぶ。


 しかし目を血走らせた山王丸は止まらない。後ろから仲間の気配を感じた雷王丸も、今にも飛び掛ってきそうだ。

 これはさすがにヤバイ。

 どうする…………イチかバチか走って逃げるか。しかし木の上の芳乃を置いてはいけない。もう残された手段はひとつだけだ。戦うしかない。俺は木刀を握る手に力を込め、二頭のオオカミに全神経を集中させる。


 山王丸があと数メートルというところまで迫り、雷王丸がさらに身を低くかがめ、こちらに向かって飛びかかろうという姿勢をとった……その時。頭上から何かが落ちてきた。


 芳乃だった。

 小さな体で腕を大きく広げ俺の前に立ちはだかる。

「芳乃っ! 何やってんだ! 危ねえからどけっ!」


「止まれ! 山王丸! 雷王丸!」芳乃は仁王立ちで叫んだ。

 芳乃のだだならぬ怒気に押されて、二頭のオオカミは跳びかかる姿勢のまま静止した。

「この者に害を成してはならない。わたしの言うことが聞けぬのであれば、たとえ山の守り神といえど容赦はせぬ」


 芳乃と二頭のオオカミは互いに睨み合ったまま動かない。

 芳乃の小さな背中からは尋常ではない気迫が感じられる。


「孝一郎。木刀を構えたままゆっくり後ろにさががれ。そしてわたしが合図をしたら後ろを向いて振り向かずに走れ。五十メートルほど先に、おまえが言っていた丸太作りの建物がある。鍵はかかっていないからそこに飛び込むのだ」


「なに言ってんだ。おまえだけ置いて逃げたりできるか」

「わたしなら絶対に大丈夫だ。大神がわたしを傷つけることは無い。わたしを信用しろ孝一郎。ゆっくり後ろにさがれ」


 芳乃の口調は静かだが有無を言わせない迫力があった。

 ここは芳乃を信用して任せるしかないか。このままここで睨み合いをしていても状況が好転するとは思えない。


「よし…………わかった」

 俺は木刀を舞えたままゆっくり後ろにさがり始めた。


 いつのまにか雨は止み、強い風に流されていく雨雲の隙間から星空が見え始めた。月は出ていないが、わずかに残る夕まずめの明かりでなんとか視界は確保できた。オオカミたちは体勢を低くしたままグルルルル、とうなり声をあげている。

 芳乃は両手を広げたままオオカミたちを睨みつけている。

 ときおり吹きつける強い風が、芳乃の着ているダボダボなTシャツをバタバタとはためかせた。


 俺はじりじりと後ろにさがり、芳乃から10メートルほど離れたとき、芳乃が叫んだ。

「孝一郎!走れ!」


 俺が正面を向いて走り出そうとした、まさにそのとき、二頭のオオカミは跳躍し、芳乃の肩の上を飛び越えてこちらに飛びかかってくる光景が見えた。

 あっ、と思ったその瞬間、芳乃が小さくかがんだように見えたが、次の瞬間にはオオカミの一頭は(かたわ)らの大木に背中から打ち付けられ、もう一頭は芳乃の後ろで仰向けになって昏倒(こんとう)している。この一瞬のあいだにいったい何が起きたのかまったくわからなかった。


「芳乃っ! 大丈夫かっ!」

「わたしは大丈夫だ! 孝一郎! 走れ!」

 芳乃がこちらに向かって叫んだ。俺はあっけにとられて動けない。


「何をしている孝一郎! 走れ! 走って先に部屋に入れ!」

 再び芳乃が叫ぶ。その声を聞いて俺は坂の上に向かって走り出した。


 目的の山小屋はすぐに見つかった。子供のころの記憶どおり、頑丈そうな丸太でできた山小屋風の建物だ。

 俺は正面にある、やはり丸太で出来た扉の取っ手を引く。芳乃の言うとおり鍵はかかっていなかった。しかし小屋の中は真っ暗だ。


 俺は扉の前で芳乃を待った。

 しかしなかなか芳乃は現れない。

 今しがた走ってきた道の方角を凝視していると、道の奥の暗がりからオオカミのうなり声とも叫び声ともつかない声が聞こえたが、すぐに強風の音でかき消された。


「芳乃っ!」

俺が思わず暗がりに向かって走り出したその時、道の奥から芳乃が走ってきた。


「芳乃っ! 無事かっ!」

芳乃は小屋の扉の前まで走ってきて立ち止まると力尽きたように膝に手をついた。ゼエゼエと荒く息をしている。俺は腕を支えて芳乃を小屋の中に入れると自分も中に入って扉を閉めた。


 小屋の中は真っ暗だったが、すぐにパチンという音がして明かりがついた。


「……孝一郎、扉の鍵を閉めてくれ」

 丸太で出来た扉の内側には、先ほどの山門のものを小さくしたような、カンヌキ式の角材の鍵がついている。俺は鍵を閉めると扉を手で押して間単には開きそうにないことを確かめた。


「雷雨になりそうだったから早めによろい戸を閉めておいてよかった。ここは特別な場所だから大神たちも手出しはできないはずだ。ここにいれば外からは見えないし、しばらくは大丈夫だろう」


 明かりの下で見ると芳乃の着ていたTシャツは両肩からズタズタに裂けていて、残った布切れがかろうじて小さな体に引っかかっているような状態だった。トレーニングパンツもあちこち裂け目が出来ている。


「芳乃、さっきオオカミたちにやられたんじゃないのか? 大丈夫か? 怪我はしてねえか?」

「ん……ああ、大丈夫だ。久しぶりに立ち回りをして疲れただけだ。怪我は無い。おまえに借りた服を破いてしまったな、申し訳ない」


 芳乃は自分の姿にいま気づいたのか、両手で敗れたTシャツの布をかき寄せて下を向いた。その表情はやはりよく見えないが、荒かった息も整って、普段どおりに戻ったようだ。

「服なんかいいよ。それよりさっきのはいったい…………あれ? この建物は…………」


 部屋の中を見回すと、ここはどうやら社務所のような事務的な建物ではないようだ。


 広さは10畳か12畳ほどだろうか。窓にはクリーム色のカーテン。中央には木で出来た簡素なテーブル。部屋の奥の隅にはやはり簡素なベッドと、隣には事務机か学習机のようなかなり古びた片袖の木製机。机の上にはこれも年季の入ったスタンドライト。ブックスタンドに数冊の本。反対側の隅には本棚と、小さな洋服ダンスのような家具がある。

 北側の壁の高い位置に神棚のような棚があるが、そこに祭られているのは、さっきの社にあったような丸い鏡と白く錆びた剣のような武器だ。祭事用の小道具か何かだろうか。

 西の一番奥にも扉があるので、トイレか、もしかすると他に部屋があるのかもしれない。


 それにしてもこれは…………壁が丸太で神棚らしきものがあることを除けば、まるで一人暮らし用のアパートのワンルームのようだ。

「ここっていったい…………」


「ここはわたしの家だよ。ようこそ富岡孝一郎くん。この部屋に村人以外の人間を招き入れるのは初めてだ」


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