幸田露伴「土偶木偶」現代語勝手訳 (6)
情難 十六
雨戸を繰り開ける音がして、そこから下駄の音が響いてきた。幾程かの庭石を伝い、それに続く片開きの門の戸を押し開けて、
「これは、大変に遅くのおいでで」と言いながら、片手に持った灯で二人の様子を照らして、
「ま、どうなされました」と驚いたのは、今さっきの爽やかな声の持ち主であった。賢さが桃の花を思わせる美しい顔に現れた、目元涼しく、眉鮮やかな少年である。
「どうしたこうしたくらいの話しではないの。まあ、その訳は後でゆっくりと話すとして、色々切羽詰まったことがあってね、夢中になって走ってきたのよ。それからお前、途中でこのお方には一通りではないお世話になったという訳なの。私はいいから、このお方を、お前、大切にお世話してさし上げてね」と早口に言いながら、勝手知ったように振り返って、自分で門を閉じ、自分は水口の方へ行ってしまった。
玄一は導かれるままに少年の後について玄関にさしかかれば、一間の三和土の靴脱ぎ場は塵もなく綺麗で、そこには、土にまみれ、露に濡れそぼった身体では腰を下ろせないくらいにピカピカに拭き込まれた檜の上がり椽があった。家は小作りだが、すべてに技巧が施されており、卜川の好みに合うものばかりである。
洗足の水を待つ間もそれほどなく、少年は小さな盥にぬるま湯を入れてきて、
「さあ、そこにおかけになって、お足をお伸ばしください」と甲斐甲斐しく、早くも卜川の足首を捉えて洗う。
「いえいえ、それには及びません。自分で洗います」と言う間にも指の股の泥まで綺麗にされてしまい、
「どうもすみません」を言い続けているうちに、少年は盥をもって外に出た。それと入れ違いに、例の女が奥の方から出てきて、こちらへと案内する。
縁なしの六畳の茶がかった小座敷、茶の砂壁、へぎ板で造った網代天井、花櫚の床柱。その浅床には掛け軸はなく、ただ背の低い花桶だけが据えられてある。花桶には芒、かるかや、女郎花などが無造作に取り繕うことなく投げ入れられてあり、小窓近くには胡麻竹脚の品のいい小さな机が置かれている。その一つ一つが玄一の好みで、驕らず、さりとて俗にならず、これらのものを楽しみながら住んでいるこの家の主はどんな人なのだろうと思った。
ランプもむき出しではないのが嬉しい雪洞の付いた菊燈台で、柔らかい光を放っている。その下で、あらためて先ほどの礼を述べる女をはじめてよく見たのだが、髪は今、自ら急ごしらえで束ねたのだろう、少しほつれ散っているけれども、雪のように白い顔は素顔でも美しく、細い地蔵眉、切れ長い菩薩眼、長く形よく整った品のある鼻、どこにも非の打ち所のない面長の美人である。しかし、何となく陰気な哀れさを誘う艶やかさとでも言おうか、特に、小鼻から口のあたりにかけてはとても淋しげな顔つきである。
はて、この顔どこかで確かに見たことのあるような、と思うと急に気味の悪い風が身に染みるようで、思わず知らず、ぞっと鳥肌が立った。これは自分でもよくわからない奇妙な感覚である。こんな人を知っているはずもない。気の迷いとはこのことだろうと、卜川は一度は思い返したが、見れば見るほどどうしても記憶にあるような気がするのは、一体どういうことなのか。そうだ、きっと、どこかの絵や彫刻などでこの人によく似た面影を見たのを現実の人のように思い歪めてそういう風に思ってしまったのだと、無理矢理自分に言い聞かせるようにしたが、ぼんやりそういうことを考えている間に、女から何を言われたのやらよく覚えておらず、
「夜露が深こうございましたので、さぞお気味が悪かったことでしょう」と言った言葉の最後の方だけがわずかに聞き取れただけで、その言葉に
「どうも夜道のことなので仕方ないですが、私はその上に汗もかいたので、襟も袂もべとべとして」などと、言わなくてもいいことを正直に言ったこともおかしく、また、自分の目の前にあった茶碗をいつの間にか手にしていたのを今になって気づき、一口啜ればもう飲み頃を過ぎてしまい、微温くなっていたのもおかしかった。
しばらくして、例の賢そうな少年が女の後ろに来て、
「今日は大方お帰りになると思いまして、風呂を焚きましたが、幸いにもまだそんなにも冷えておりません。今しがた一燃ぼやぼやと燃やしましたら、ちょうどいい加減に沸いて参りました。お入りになるよう、おっしゃっては」と言う。
「それはちょうどいいところ。お気味悪くていらっしゃいましょう、一風呂お浴びなさいませ。お身体もさっぱりとなされば、お気持ちもよくなって、お疲れも取れましょう」そう言う女の勧めを断る気もなく、今夜はもうすっかりこの家の世話になろうと決めたので、その好意に遠慮することはないと、
「それはありがたい。何よりのご馳走です」と素直に従えば、少年は路次行燈を手にして、外に出て先に立って案内する。きちんと揃え直された庭下駄を履き、趣味よく置かれた石のある小路を行けば、ただ足下だけの光りを頼りに進むに従って、その光りに照らし出されるのは、道を挟んで植えられた、人を埋めてしまうほどの高さまで育った幾株かの芙蓉の花であった。
夜になるとしぼんでしまう白い花が暗い中でありありと咲いて、自分の袖袂に触れようとする風情、つい、これはいい、と自然に笑みがこぼれてしまう。
後ろ庭と思えるところの片隅に離れて立っている二坪ほどの湯殿に入れば、二畳の脱衣場、二畳の流し、簀の子天井、小さい角風呂、ことさらに褒めるところはないけれど、すべて清潔で気持ちがいい。
灯だけを置いて少年は行ってしまった。卜川は一人、汗に朽ちて、露に湿った着物を脱いで、身をかがめて湯船に入ったが、入ってみると湯が思った以上に微温いのに驚いた。上がればかえって風邪を引くのではないかと思えるほどの肌寒さ。少しはこのままでいれば、身体が温もるかなと、仕方なく湯船にかがんでいると、例の少年が外で焚いているようである。しきりにぼうぼうと火が燃える音が聞こえてきたと思ったら、狭い風呂なので、見る見るうちに暖かくなり、やっと身体の中に心地よい春が訪れたような気分になった。
情難 十七
シンとした静かな夜。今は何時なのかもわからない。燈火が幽かに揺らめき、秋の気配が水のように感じられる。話し声はまったく聞こえず、ただ微かに火の燃える音だけが湯槽の中に聞こえてくる。その中にかがみ込んで、卜川は今日一日のことをつくづく思い返していた。
自分は生来の愚か者とでも言えそうな人間で、今の世の中では決して利口者とは言えない。そんなことは最初からわかっていたつもりであるが、あまりと言えばあまりにも賢くない自分に、ほとほと愛想が尽きる思いである。ずっと大切に持ち続けてきた応挙も蕪村も売り払い、何もかも捨ててきた後の旅路で、例えその情けは切なるものにせよ、哀れむべきものにせよ、何の役にも立たない怪しい掛け軸を、物好きにも買い取った挙げ句、それに気を取られたせいで、突然の火事に持つべきものも持たず、ただその一軸だけを手にしたまま、ふらふらと出てきてしまった愚かしさ。また、それよりも、よくも知らない道を夜を徹して歩こうとする思慮のなさ。京都に出てもどこにどう落ち着くのかさえおぼつかないのに、それさえもどこかへやってしまったように、途中で訳のありそうな女に出会って、またもや脇道に外れてしまった。
ここはどこなのだろう。主がどんな人なのか、何もわからない場所に来てしまった。このもの淋しい深夜を、このなま微温い湯に浸かりながら、何もいいことがない、と思う愚かしさ。ああ、愚かにして疎い男は世の中に少なくないと思うけれど、今日のこの自分のように、ここまで愚かにして疎い男はこの世の中にいないのではないか。考えれば考えるほどよくよくの間抜けの大馬鹿者に生まれついた我が身。とても汽車が走り、電車が走り、電話、電信が忙しく、人間が皆しきりに欲を求め、空飛ぶ天狗の財布の紐まで切りかねないこの世の中には、うまく交わることもできない身であるとは自分でも諦めている。自分の一生を生まれつきのままに拗ねてすましてしまおうと思っていたけれど、さてもさてもこんな大間抜け、大馬鹿者とは自分でも思ってもいなかった。この微温い湯を出た後は、今夜はこの家に寝るとしても、明くる日、あるいは明後日はどうすればいいのだろう。身につけたものは腐ったような着物一つと訳のわからない書簡の掛け軸一つ。知った者に出会わなければこの先どうなるのか。
それもこれも、自分とは無関係な手紙の面に心を動かし、自分とは関わりのないことなのに哀れに思ってしまったことから始まっていると、さすがに自分の並外れた愚かさを反省していた。さし当たって、明日明後日はどうしようかと思い悩んでいる時、戸を開いて少年が顔を出し、畳んだ着物を置いて、
「これをお召しになってください」と言って、脱ぎ捨てた卜川の着物を丸めて持っていった。
汗も垢も一通り流し終わり、少年の置いていった袷と清潔な白地の単衣を着れば、秋の夜の涼しさに湯上がりの肌が心地よく、疲れもまったく忘れて生き返った気持ちになった。
帰りは自ら路次行燈を手に取り、芙蓉の花が点々と闇に白く浮かび咲く狭い小道を行くと、何という虫なのか、霜が降りるのも近いこの季節を悲しむように、糸のようにか細く鳴きすがり、瞬間途絶えたと思うと、また細く鳴き始めたりして、哀れさを誘う。行燈の光りが冷ややかに霜の滴る行く手を淋しく照らし、あるかないかの風がそよ吹く中に、どこからか木犀の花の香りが闇に流れて薫ってきた。その時、卜川は訳もなく喜びがこみ上げてくるのを感じながら、おお、これは自分の手で植えた銀木犀で、今年も秋の季節になって匂っている、と満足げであった。だが、また急に気がついて、いやいやここは初めて来たところ。闇の中の木犀が銀か金かなどはもとから知る訳もないと思い、そう思うや否や、自分で自分を疑って、おかしいぞ、今夜はなぜ訳のわからない妙な感じばかりするのだろう、しっかりしなくては、と自分の気持ちを引き締めるのであった。
情難十八
湯上がりのさっぱりとした心地よさで腰を下ろせば、女はまず静かにお茶を勧めながら、
「お風邪を召しませんように」と言い、少年は後ろから黙って薄羽織を掛けてくれるなど、まるで、これまで十年にも渡って主人と仰ぐ人を扱うように、何の無理もなく親切に暖かく接してくれる。歳は取っても世慣れていない卜川は、断る言葉さえ知らず、ただ、はいはい、とされるがままになって、心の中でそれらの好意に感謝するのみであった。
「夜も更けましたし、何かもの欲しいお気持ちもございましょう。何もございませんけれども、ほんのお疲れ休めにお一つ召し上がっていただきたくって。でも、お笑いになってはいけませんよ、ほんとに何もないものですから。心ばかりはあっても、お肴はまるっきりございません厭な田舎で」と女は恥ずかしがりながら自ら膳を薦める。
真実、腹は空いて、酒も欲しい夜である。卜川は自分に嘘をついての空辞退もできず、ありのままに、これはありがたい、と喜んで杯を手にすれば、例の少年は卜川の方に座を進めて慎ましやかに酌をする。肴にそんなに旨みというものはないが、夜よし、家よしで、燈前の美女はとても親切で、傍らの少年もよく気が利く。これまでは田舎女が出すような膳の、味もない飯を食べ、自分の影だけを相手に手酌で冷えがちな酒を飲むという、淋しい生活を送ってきた卜川は、乱山残雪の間を抜けて芳草春風の野原に出た思いであった。
そう何度も杯を重ねた訳ではないが、心はすでに緩み、うっとりとして酔いを覚えてきた。女は自分も湯浴みをするとてしばらくして後、ちょっと会釈して座を外した。少年だけが受け答えはきはきと卜川の相手を務め、酒を勧める。
玄一はゆったりとくつろぎ、自分の家にいるよりも快い気持ちとなって飲んでいたが、ふと気がつけば、膳の上のものに一つとして火の気が通ったものがない。平鮒の鱠は柚の香りがほのかに薫って旨く、胡桃味噌を添えた皮引き独活、へぎ梨、欠き柘榴、山葡萄に氷砂糖をかけたものなど、あるものは見る目に美しく、あるものは侘びて趣があるけれども、皆すべて冷たいものばかりで少しも温かいものがないのである。夜も更けたことだから、一種類くらいは暖かいものもあってよさそうなのに、考えれば考えるほど不思議で、山深い石室に火を嫌うとかいう山精のもてなしを受けているような気持ちがして、もうちょっとのことで、少年に訊ねようとしたが、
いやいや、馴染みもない人に食事のことについて話しをするのは品がなく失礼だ、と思ったし、まさか、台所に火がないことはないと思うが、暖かいものを準備できなかったからこうしたのだろう。訊ねてみて、顔を赤らめさせるようなことは配慮に欠けることだと思い返し、ただ黙々と食事をしていると、少年は笑みを浮かべながら、上手に酒を勧めて、
「何も召し上がるようなものがないばかりでなく、暖かいものが何一つなくて、山の猿かなんかがご馳走するようでございますが、せめてまずお酒の熱いのを飲んでいただき」と言う。
自分もたまに人が考えていることがわかる場合もあるので、逆に人が自分の気持ちを当てるのはそんなに怪しいことでもないと思うが、この一言には卜川は本当に気味悪く驚かされた。けれども、また、少年がたまたま返事をした中に、自分の考えていることが当たったまでだと思って、心にも掛けず、
「いや、色々とご馳走をしていただき、ありがとうございました。冷たいものが揃って、湯上がりにはありがたいくらいで、私は何とも思いません。気にしないでください。鯛の取れない浜へ泊まり合わすのも、鹿の取れた山に宿を借りるのも、みんな自分の持った運と言うか、くじの結果だと思っております。今夜不思議に、こうしてご厄介になるのも、私の一生の定まった運命の中で、こういうことになると決まっているからだと思っています。ハハハ、何、暖かいもののないくらい何ほどのことでもありません」と、自分が思っていることを偽り無しに口にして、今宵感じていることを交ぜて答えれば、少年はその思いをわかったのかどうか、ただ微かに微笑むだけであった。
それはまあ、とにかくどうでもいいとして、ここの主人というのはどういう人なのか、また、彼女は一体何者なのか。おおよそこの家の妻とでも言ってもいいくらい主人と深い仲であるとは察するが、問うていないので、まだ本当のことは知らない。どうしても知りたい気持ちが抑えられず、杯を置いて、試しに少年に訊いてやろうと、
「そのことより、まず、この家のご主人はどんな方なのでしょう」と真顔で訊けば、少年は心底おかしそうに笑い出して、
「そんなことは、私が言わないまでも、あなたのご存じの通りで間違いはございません」と、卜川にはさらにわからない、とらえどころのない返答をするのであった。
つづく
あと、2回くらいで終了予定です。