幸田露伴「土偶木偶」現代語勝手訳 (5)
情難 十三
自分に人並み以上の力さえあれば、憎たらしげなこの男を鷲づかみにして押しつぶし、その間に哀れむべき女を逃がしてやりたいのにと、到底叶わぬことを思いながら、手も出せず、口も出せぬこの身のやるせなさ。目の前で優しい鳩が梟に捕まえられるのを見過ごす辛さに、卜川、これまで感じたことのない不快感がこみ上げてきた。いても立ってもおられず、行くに行かれぬ気持ちをどうすべきかと悶え悩んでいると、その間、身動きさえしなかった女は、「キッ」と強い意志を得たようで、逃げるだけは逃げてみようと思っての行動か、言葉もなく駆けだした。
ヒタヒタという足音が遠ざかって三間、四間くらいは隔たったと思われる時、
「もういけねえよ、お照さん、諦めの悪い。逃げるといっても逃がすものかい」と言いながら追い縋ろうとする男を、おのれ、憎い奴、木の根っこか岩角にでもつまずいてしまえ、と念じたが、木の根にも岩角にもつまずかず、その代わり、道中に突っ立った卜川にぶち当たった。
「ええい、トンチキめ」と男は激しい腹立ち声で卜川の顔を一殴りして走り去ろうとした。それでなくてもむしゃくしゃしていた矢先だったので、罵られ殴られては、鉄に打たれた石が飛ばす火花のよう、我を忘れて激昂した卜川、「失敬な!」と言いざまに闇を手探った先に、幸い袖が触れたので、それを引っ捕らえてぐっと引き戻せば、びりりと袖は裂け、男はよろめいた。
「野郎、何をしやがる」という声と共に凶暴な拳が卜川の頭に、肩に落ちた。こうなると、もう理屈も分別もない、卜川も無茶苦茶になって殴られれば殴り返す、捻られれば捻り返す。呼吸と腕っ節の続く限りに争ったが、せめてこの間に少しでも遠く逃げのびてくれと、この忙しない間にも念じながら、苦しさを堪えて格闘していた。
しかし、卜川は元々腕っ節の強い男ではない。初めのうちこそ、四分六分であれ、闘い得たが、やがて息は疲れ、腕は萎えて、脆くも組み敷かれた。無念と空を蹴ってもがき回ったけれど、その甲斐も虚しく、
「野郎、一時殺しだ、ちっとの間死んでな、ざまあみろ」と言いながら、ジリジリと喉を締め上げられ、何おのれに殺されてなるものか、とぐっと堪えに堪えてはみたが、気はいつしか遠くなって、夢の中で谷底に落ちていく感覚。うっとりとして、その後は覚えていない。
暁の風に夜明けを知ったような感触で、ぼんやりと目を開ければ、闇はまだ闇のままで、一尺先もわからなかったけれど、誰かが自分を介抱している様子である。喉のあたりが閊えて何となく息苦しいが、カッと少し冷たくなった痰を吐けば、ようやく心が開いたようになって、はじめて一度絞め殺された身が今一度蘇ったのを悟り、『これは』と今さらながらに驚けば、
「ああ、ありがたい、気がついてくださいましたか。しっかりなさってくださいませ」と耳元近く、美しい声で話しかけるのは、まさしく先ほどの女であった。
情難 十四
身体のあちこちにはまだ痛みは残っており、気持ちもまだ完全に晴れてはいないが、弱虫ながら男は男。卜川は強いて何気なく装い、
「いや、もう大丈夫です。喉を絞められただけですから……。ハハハ、こっちは柔道も相撲も何も知らないので弱くて……。ハハハ」と何事もないように笑うけれども、笑い声の最後は力が入っておらず、しかも調子が外れた具合なので、心身ともにまだ元通りに快復したとは思えなかった。
「とんでもない災難を私の方からおかけしてしまい、本当にもう何とお詫びすればいいのやら。気がおつきになってくださったので、まあホッといたしましたようなものの、別にお怪我などございませんか。心配でなりません」と憂わしげに優しく言ってくれるので、痛くても痛いとは言えず、
「幸いどこも傷めはしませんでしたから、ご心配なく。で、あなたはどうしてここにいらっしゃるので? それと、あの男はどうしました?」と不審ながらに訊ねれば、
「はい、私を追ってきた男はうまくやり過ごしました。最初、逃げられるだけは逃げようと駆け出しましたら、あなたとあの男のお争いでしょう。どうにかしたいと思っても女の私は手出しもできず、またよしんば逃げ出したところで追われることになりますと、逃げおおせることも難しいと思いました。それに、逃がしてやろうというご親切な思いからあの男と力ずくの争いをしてくださったあなた様が、万一どういう目に遭われるかもしれないのをよそにして、自分さえよければと逃げることもできませんでした。ふと思いついて、そっと路の脇にかがんで小さくなっておりまして、あなた様とあの男との組んずほぐれつのやり合いを一町足らず離れたところからドキドキしながら窺っておりました。そのうち、あの憎たらしい男が偉そうな言葉を吐いて立ち上がった様子なので、ハッとあなた様のお身体が気になり、ドキリとしましたが、なおのことできることは何もなく、見つかりませんようにと、ただ神様に祈るようにして潜んでおりますと、ええい、下らん奴のせいで、せっかく捕らえたものを逃がしちまった、女の足でもだいぶん逃げたろう、うう、忌々(いまいま)しい、と独り言を言いながら私の潜んでいた前を、闇はありがたいもので、ちっとも気づかずにさっさと東の方へ走って行ってしまいました。そんな訳で、上手くやり過ごしてしまいましたので、これで安心と思いまして、それからここに戻って介抱させてもらったのですが、ご無事であれという一念が届いたみたいで何よりも嬉しゅうございます。本当にもう、別にこれといったお痛みなどはございませんか」と言う。
今の話しで、すべての状況は理解できたが、介抱されながら露が降る闇のただ中はしみじみ淋しく、今の自分には金無く、力なく、この女には敵あり、また憂いありで、卜川、これから先、どうすればいいのだろうかと思い悩むばかりであった。
情難 十五
「済むも済まぬもありません。ただ、私が弱かったので酷い目に遭っただけのことで、私さえ強かったなら何でもないことだったのです。順序からすれば、こうして介抱いていただいたお礼の方から言わなければなりませんが、済んでしまったことですので、どちらが先でもいいとしていただきたいと思います。それはそうとして、あなたが上手くあの男を巻いたのはお手柄でしたが、これからもやはりお一人で行こうとされているところまで行かれるおつもりですか。とかく当てにはならない役立たずの弱虫ではありますが、これから行かれるところまで送ってあげたいような気もいたしますが……」と後は自分のこれからのことを算段する腹づもりもあり、その都合の悪さに言いよどむ時、
「本当に、本当に言い出しにくかったことなのですが、そうお願いできましたらどれほど嬉しいでしょう。お陰様で危ないところを助けていただきましたのに、お礼も言わずにこのままお別れしてしまってはどうしても気持ちが済みません。ご無理を願っても私が行こうとする場所までお供をいただいて、せめて言葉だけでもちゃんとお礼を申し上げたいと思っておりました。しかし、私がこんな状態で夜の夜中に歩いているのでございますから、素性もわからぬどこの誰だとお疑いになろうかと思い、申し上げるに申し上げかねておりました。どちらへおいでになるのか存じませんが、一生のお願いでございます、どうぞ私の参るところまでおいでいただけませんでしょうか。もうこれからは道もいくらもございませんし、今から行く所は人も多くはおらず、気の使わない私の家同様の場所でございますから」と女は手を合わせんばかりに言うので、後には引けなくなって、
どうせ滅茶苦茶になってしまった今のこの身、右へ行っても左へ行っても、結局は同じこと。別れ際にはおむすびの三つくらいはもらえないこともあるまい。京の知人を訪ねるのはそれからでも遅くない。まったく余計なことに手を出して、喉まで絞められるほどの馬鹿を見た上は、親切を途中で捨てずに最後まで行って、事の吉兆の底というものを見届けてから別れることにしよう、と覚悟を決めた卜川、
「私は、お話にもならないほどの風来坊で、妙なことに出くわした末に、京都を目指して行くところですが、さして急ぐというものでもありません、言ってみれば宙ぶらりんの身ですから、いいですよ、送っていってあげましょう。あんな強い奴には敵いませんが、犬おどしくらいにはなるでしょう」と気軽に答えれば、女は心弾んだように喜び、いそいそと動きだそうとするその様子は、闇の中でもうかがえるようだった。
あたりはシンとして、暗闇の中での会話は誰が聞いているかも知れず、それは、二人とも身に懲りているので、口を利かずに黙々とただ歩いて行く。女が遅れるとみれば、男がそれを待ち、男が道に迷いそうになると女が道を教える。こうやっていると、知らず知らず相手の心の温かさが互いに見えるようだった。
いつしか半里あまり歩いた頃、ここはどこになるのだろうか、だらだらとした坂を下りきったところに、水の光りが仄かに見えて、確かに琵琶湖のほとりと思われるところに出た。大津なのかと思ったが、家はなく、人気もないので、そうではない。岸に寄るさざ波のぴちゃりぴちゃりという音が幽かに響いて、松が何本かまばらに生えた砂地の向こうに一構えのさほど大きくはない一軒家があり、そこの隙間から漏れる灯の光りが恋しく見えた。女はやがてその家の前に立ち、ほとほとと戸を叩きながら、
「信さん、信さん」と召使いを呼ぶような口調で呼べば、三声目に「ハイ」と答える声は爽やかに若く、十四か十五の男の子に思えた。
つづく