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幸田露伴「土偶木偶」現代語勝手訳 (4)

情難 十


ひねくれ者はひねくれ者としての覚悟を決め、風流を装った痩せ意地を張り、どうにかなる時にはどうにかなるさ、と澄ましていたけれど、それがあまりにも早くどうにかなる時が来てしまい、(うら)(かわ)、泣くに泣かれぬ妙な心情であった。

金なし帽なし、知己(しるべ)なし。手の中にあるのは、九十九人のうち九十八人までが買おうという気にならなかったおかしな掛軸が一本だけ。秋の冷たさが土に宿るその土の上を、馴れぬ裸足のひょろけ腰。うそり、うそりと大津の町外れを歩きながら、卜川、さて、これからどうしたものかと思い悩んでいた。

宿屋の主人(あるじ)を捕まえて、苦情を言ってもどうにもならないことはわかっている。物乞いには放って置いてもそのうちなるだろうが、その他のものには、どんな呪文を唱えても今はなれそうにない。そんな我が身をどうしたものかと考えていたが、苦しい時にはほんの些細なことまで思い出す、と言われるように、卜川も当てにはならないけれど、京都にちょっと心当たりのある知人がいたことを思い出した。

まさかこんな恥ずかしい格好では白昼は歩けないけれど、夜であれば闇に紛れるようにして歩けるだろう。知らない路で難儀をすることはあるだろうが、ここから京都まではそんなにも遠くない。今から道をたどっていけば明け方には京都に着くだろうと思った。とにかく、朝早くにでも知人を訪ねて、もしも力になってくれなければそれまでのこと、その時はその時で考えようと、これまた心細い思いつきであった。すでに下火になった火の方を見れば、あんな小さな火がぼやぼやと燃えたくらいでこんな目に遭うのかと恨んでみたが、一目(ひとめ)ジッと見た後、思い切って目を離し、昼間地図で見たのと、人の話しに聞いたのをだけを頼りに、当てもない路だが、盲人でも(のぼ)れるのだから、わからないことはあるまいと、大雑把な思いで京都の方へ歩いて行った。捨ててもいいような軸はまだ手の中にあって、何の因果か、本当に仲のよいことである。

山道に分け入ったと見えて、左右の幅が狭く、東海道にこんなところがあるとは思えないようなところにさしかかった。知らない(みち)の夜歩きなので、多少の間違いはあるにせよ、方向さえ間違わなければそんなに苦労することはないだろうと、多少やけ気味に西へ西へと進むうちに、空の色はいつの間にか大きく変わって行った。雲が空をすっかり蓋をしたように塞いで、墨よりも黒く、一寸先に牛がいたとしてもわからないくらいの濃い闇となった。そして、路もいよいよ狭く両側に迫り、風も通らないところに行きかかった。

人の声もなく、火の光もなく、虫の音もなく、鳥の身じろぎも聞こえず、冥土にあるという黒闇道(こくあんどう)と言うのも、もしかしたらこんな所かも知れないと思われた。ただただ両足の裏の感覚だけを頼りに、雲の中を歩くでもなく、違った世界を歩くのでもなく、確かにこの世のどこかの国のどこかの山中を歩いていることだけは確かだと思い歩いていると、突然前方のその真っ暗な闇の中に、しょり、しょりという裸足で歩く足音が聞こえる。

さすが()ね者の玄一もギョッとして驚き、気のせいで、自分自身の足音かと疑ったが、そうではない。耳を澄ませば、その足音は小さくて、まさしく女の足音のようである。しかも、一足、一足自分の方に近づいてくる。昼間なら、顔の黒子も見えそうなほど、それ、それと自分との距離が三間(さんげん)、二間、一間、半間に縮まったと思った途端、自分の胸先にヒヤリと触れたのは、確かに若いと思われる女の髪。ハッとこちらが驚けば、向こうも飛び退き、双方の足音も止まり、色も見えず、匂いもなく、目の前にはただ闇があるばかりであった。



情難 十一


急ぎ足の身体(からだ)は自ずから前のめりになる。駆けてきた女がそうやって自分に当たったのだということはすぐにわかったが、あまりの驚きに息が詰まるような思いで、すぐには言葉も出なかった。どんな差し迫った事情のある、どんな人なのか。男の自分でさえ気味の悪いこんな夜道の闇の中を走ってくるとは。

相手が何者なのか思いもつかないので、想像するその後にじわっと襲ってくる恐ろしさ。腰を低くして、頭を下げ、空の明るさを透して様子をうかがうが、雲は暗く、(うるし)のような黒さである。どこが天地の境目かも見定めがつかないくらいで、何一つ目に映るものはない。ただ、わずかに人の息が弾んでいるのが、あるかないかくらいに聞こえて、その闇の中に自分と当たった人が潜んでいるとわかるだけであった。

こちらも動かず、あちらも動かず、自分ももの言わなければ、相手もものを言わない。お互いに相手のことを測りかねて不安な気持ちでいたが、相手方がやむを得ないと意を決したのか、

「どうかお許しくださいませ……、取り急いでおりましたので、とんだ失礼をいたしました」と泣かんばかりの口調は切羽詰まった切なる気持ちが表れて、思いのこもった詫びの声は玉のように美しく、品のいい歳の若い人と、おおよその想像はできた。卜川はまた今さらながら慄然として、一層驚き怪しんだが、

「ど、どういたしまして。粗相(そそう)はお互い様でございます。お詫びいただくとかえって恐れ入ります。どこもお怪我はなさいませんでしたか」と普段では決して使わないような優しい言葉を返し、いいにつけ、悪いにつけ、これ以上ことを大きくしないように努めた。

「はい、ご親切にありがとうございます。別にどこも(いた)めはしておりませんのでご心配はいただかなくても……」と言うのも聞き捨てて、闇夜のこの女が恐ろしく、

「それは本当によかった。お気をつけて……、どうも失礼いたしました。さようなら」と言いながらすれ違って、卜川、一、二間行き過ぎたところ、女は押し黙ってなお身動きもしない様子だったが、やがて卜川を追いすがるような足取りで、数歩歩みを向けながら

「もし、もし」と切なげに後ろから呼びかけた。その声は悲しみを帯びて、闇にもの淋しく響き、玄一は背後から襟元に冷水を注がれたようにゾッとした。



情難 十二


恐ろしいと思っても、さすがに走って逃げられず、がくつく脚を踏みしめて立ち止まり、いやいやながら振り返って、

「何かご用で?」と言えば、女は四、五歩こちらに近づいてきて、

「本当にぶしつけで、失礼な者とお見下げでございましょうが、よくよく悲しい突き詰めたことがございまして、こんな大胆な真似をするのでございます。どうか、よくよくのことと(おぼ)し召して、助けてやると思って私のお願いをお聞きくださいませんか。あなた様をご親切なお方とお見込みいたしましてお願いを申しているのでございます。お見えにはならないと思いますが、このとおり手を合わせてお願い申し上げているのでございます」と、悲しげに話す声の調子には嘘がないように思われた。

だとすれば、こんなただならぬ夜道を抜けるような女が一体何を話し出すのかわからないだけにおいそれと返事は出来ず、

「いや、そんな親切な男と思われては、ちょっと違いますが……」と愛想のない返事を、しかも、渋々返して、どんなことを言い出すかと、半分逃げ腰に構えれば、

「そのお返事で失礼ながら、なおのこと実直でいらっしゃるお方とお見受けいたします。決して大きなご迷惑をおかけするようなことではございません。ただ、これだけのことでございます。これから先、あなた様の行く道筋で、万一私を追いかけてくる者がございまして、これこれの者を見なかったかとお訊かれになったならば、どうぞ御慈悲でございます、ご方便のおはかりでもって、いやそんな者は、似た者も見かけなかったとおっしゃっていただきたいのでございます。嘘をついていただきたいと申すのでございますから、本当に申し訳ないのですが、切ない事情がございまして、あるところまで逃げているのでございます。よくよくのことと御推量くださいまして、助けてやると思し召して、無理なお願いではございますが、どうか、どうか……」としみじみと話す。

「それくらいのことなら、わけのないこと。元来、追い詰められた鳥の行方を猟師に教えるほど情け知らずにはなれない性分」と、卜川快く承知をして、

「よろしい、ご安心ください。すっかりわかりました。どういうわけなのかは存じませんが、よくよくのことがあってのことなのでしょう。あなたの不利になるようなことは絶対申しません。適当なことを言って、引き返すか、横道にそれさせるか、どっちにせよ後を追わぬようにしてあげましょう」と頼もしげに言えば、

「ご恩は忘れません。ありがとうございます。それではどうかよろしくお願いいたします」と言う。

「引き受けたこの梶原、きっと適当に誤魔化してあげましょう。気をつけてお行きなさい」と言う。

「ああ、ありがとうございます。どうか、それでは……」

「よろしい。ご安心ください」

「ありがとうございます。それでは……」と双方今や別れようとする時、闇の中に急に錆声(さびこえ)(あざ)笑い。

「フフフ、いけないよ、お照さん。いくら賢くやり過ごそうたって、捕まえに来たこの(ぜん)()がもうさっきからここに来ていて、嘘をついていただきたいと言うのですから、本当にすみませんけれども、とか何とか言ったあたりから後はすっかりここで聞いていたんだよ。フフフ、逃げ出した者を追いかけるにも提灯を点けないっていう、こんな頭のいい叔父さんに追われたのがおまえの不運というものよ。さあ、おとなしく俺に連れられて帰りなせえ。いくら情夫(おとこ)の所へ突っ走る一心だからって、可哀想にそんな豆腐みたいな足じゃ、さぞ痛かったろう。もう逃げることなんて到底出来やしねえさ。さあ、俺が負ぶってやろう。おとなしく帰りなせえ。悪いことは言わねえわ。逃げるなら逃げてみなだよ」と追っ手らしい男の落ち着き払ったその言葉は、卜川の耳には一々(いちいち)憎らしげに響いた。

つづく

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