幸田露伴「土偶木偶」現代語勝手訳 (3)
情難 七
呆れて言葉も出ない客の様子を見て取り、
「商売をいたしておりまして、このようなことを申してはおかしゅうございますが、本当にいくらでも結構なのでございます。実は、中身は何かわかりませんけれども、表装が面白いので、それなりの仕入れ値で仲間から引き取ったのですが、商売を始めましてからこんな代物は手がけたことはございません。ちょっと振り返って見る方、立ち止まって見る方、手にとって詳しくご覧になる方、それから値段を訊いてそれで終わりという方はいらっしゃいましても、終いに負けろ負かりませんという値段の押し引きまでなさった方はこれまでおられませんでした。いつでもいつでも素見ばかり。たまにじっとご覧になるかと思えば、やがてふいと行っておしまいになるので、中にどんなことが書いてあって、人様がお買いにならないか知りませんが、そういったことがあって、店にお客様がお立ちになって、この掛け軸に目をお留めになるのを見れば、がっかりしてしまい、ああ、また此軸のお客様かと、お客様をもったいなくも不吉なお方のように思うようになったくらいでございます。こんな事情でございますので、いくらでお買い求めになられてもありがたいのでございまして。ヘイ、ヘヘヘ、イエ何もこれを胡散臭いものだとか、祟りが憑いているとか、曰く因縁のあるものとか、そんな下らないことを思っているのじゃございませんが、そういう訳なので、もう大分前から値段を付けてくださる方がありましたら、何ほどでも差し上げようと思っていたのでございます。正直、欲は申しません。お買い求めくださりさえすればお客様のお見込みの値段で結構でございます」と言い訳がましく言う。
そんな言葉の端々に、この軸を薄気味の悪い何かのように思って、いくらかにでも金にして人に押しつけ、代金は自分の懐に、物は西の海にでもさらりと流して厄払いしたい、と考えているようなのが見て取れた。暮れれば店を閉めるのが習慣なのはわかるが、燈火さえ出し渋る偏屈な田舎気質は何となくいまいましく感じられ、事情はわからないが、お世辞や冗談では済ませられない生命をかけて書かれたこの書き手が気の毒で堪らぬような気持ちになった。そんな気持ちもあって、しみったれの主人に向かって憤ったようにつっけんどんな声で、
「そんならこれだけ払おう。不足はあるまい」と小札を一枚、男らしい血の気もない、今や闇の中に埋まっていくような不景気のべそかき面へ突きつけるようにして支払い、掛け軸をこちらへ引ったくって、面白くもない店を出た。
店を出た途端、亭主が奥にいた女房か誰かに物語るように、
「やれやれ、とうとう九十九人目に売りつけた。あの人は、この辺の人ではなく、他所の人らしいが、あんな縁起の悪い軸は鶴亀々々(つるかめ)、もう帰ってくるな」と小声で言うのが後ろから聞こえてきたが、その後はかたりことりと店の戸締まりをする音がするだけで、もう秋の日はとっぷりと暮れて、町はシンと静かであった。
情難 八
九十九人目でも百人目でも構うことはない。買わなかった男どもが利口なら、この俺が馬鹿だと言うまで。だが、これ一つを買わずに済ませば、それで何も急に賢くなる訳でもないだろう。どうせあまり小知恵の回る方でもない自分のこと、変な物好きのように後ろ指さされても、したいことはしてみるのが得だというもの。そんなにたいした額ではない。もう一度読んでみて、その後は寺へ納めるとか人にやるとか、どうにでもできる、と拗ね者の卜川、小憎たらしい道具屋が陰口をたたくのを後ろに聞いて、さっさと宿屋に帰った。
ブリキ骨の紙の笠が汚れた貧乏くさいランプに、煤けた低い天井の六畳一間の一室。卜川は再び例の掛け軸を広げて、繰り返し繰り返し初めから終わりまで読むうちに、おおよその事情はおぼろげながら理解できた。この手紙の書き手は堅気の娘ではなく、浮き草のように寄る辺の定まらない人物であるが、そんな状況の中でも、来世も一緒になりたいと、お互い心の通った男ができ、この手紙は確かにその男に宛てて送ったものである。
文面を読み味わいながら考えるに、金と力のある男が他にいて、執念深く女につきまとい、ついにその男が遠く離れた所へ行くにあたり、女を連れて行こうと強いているのである。女を遠くに連れて行きたい男と、恋しい男との別れを悲しんで、それに従わない女。男は女の上に立つ者をも自分の意に従わせ、恩義を掛けたことを持ち出して強硬に女を従わせようとする。そのため、女は思い詰め、自ら命を絶とうとして、愛しい男に自分の胸中を細々(こまごま)と訴えたものであると思われた。
女の気持ちを静かに思いやれば、その心の奥に哀れさを覚え、愚かと言えば愚かではあるが、命をかけてまで迷い込んだ一途な女心は、浅はかな故になおさら悲しいものがある。
何度となく繰り返し読むうち、段々と心を奪われる中、秋の夜は少しずつ更けて、隣室の人の鼾がかすかに聞こえ、宿屋の下での洗い物の音や人の話し声なども自然と止む時、じっとその女のことを思いやり、卜川は思わず涙を流しそうになった。しかし、いつまでこうしていても、と軸を巻き収めようとした時だった、今まで気づかなかったのだが、軸の裏に何やら筆の跡細く、文字が数行書かれてあるのを見つけた。
さては、この手紙を受け取った人物がこのような表装を施した後、何か書いたものであろうと考え、読んでみようとして、巻き掛けた軸をまた開こうとしたその時だった。
「あっ」と言う人の声、「大変々々」の金切り声、けたたましい足音と物音、戸や障子の倒れる音、もっとただならないのは火の燃える響き。これは、と驚く時、「火事だ火事だ」との叫び声に、ランプなどをひっくり返したかと胸を騒がす間もなく、部屋との境の襖を押し倒して、隣の男が転がり込んできた。窓以外には出口はない突き当たりのこの部屋の、その窓から逃げようとして慌てもがいている。こんな状況では、人の部屋に突然踏み込んだ不作法を咎めている場合ではない。倒れた襖の後方を見通せば、火は早くも階下に満ち満ちているではないか。階段からは黒い煙が吹き上がり、朦々(もうもう)とこっちへ向かって襲いかかってくる。これには卜川、自分の命も危ういと驚き、軸を手にしたまま、先ほどの男の後に続いて窓から屋根へと逃げ出した。
情難 九
逃げるよりも速く火の臭いが追いかけてくるので、気は焦り、夢で悪鬼に追われるような気持ちになって、無我夢中で、今さっき強引に自分を押しのけて外に出た男の後に続いた。足下の暗い屋根を危なっかしく伝い、かろうじて渡れるほどの隣家の廂から、運良く軒近くに生えている庭の松をたぐり寄せ、ようやくその庭へすべるように降りてホッとため息をついた卜川。振り返ってみると、自分が逃れ出た先ほどの窓は、飛び散る火の粉で明るさを増し、人々が口々に騒ぐ声と、ものを運ぶ音と、ガヤガヤという騒音がごっちゃになって、何を言っているやら、罵っているやらわからない。そんな中、見る見るうちにその窓は燃えぬ抜け、火は勢いづいて、雲が重なっている暗い空を華やかに焼き立てた。焼けた後の空は、まるで梨子地に蒔絵を施したようであった。
卜川はただただ呆気にとられながらも逃げ延びたが、ハッと気づけば、何ということ、部屋に手荷物を忘れてきた。引き返して取りに行こうとしてももはや火の中。
ええ、本当に間抜けなことを、と悔やんでみてももう遅い。未練心に自分の部屋の方向をぼんやり見ていたら、手箪笥を一つ肩にして夢中で駆けてきた男にイヤというほどぶつかられた。しかも、
「ええい、このトンチキめ、何を邪魔なところに突っ立っているんじゃ。けったいな奴め」と激しく罵り飛ばされた。
こんな状況では男が怒るのも無理はないかと思いながらもやはり忌々(いまいま)しく、渋々動こうとするところへ、今度は奴箪笥を二人して下からすくい上げるようにして運んできた先頭の男が、
「それ、退いた退いた、退いたっと言うのに邪魔な奴だな」と、言いざまに、肘を伸ばして手荒く突き退けた。
こっちは、気が抜けており、向こうは気の張った状態。喧嘩のしようもなく相手はさっさと行ってしまう。そんな後に続いて人々の行き来は乱れ、長火鉢を担いで行くのもあれば、味噌瓶を頭上に差し上げるようにして通る者もいる。赤ん坊を忘れて、その代わり猫を抱いたり、葛籠を家に残して飯杓子一つ大事そうにして持って出る者もいて、自他共にもう、とりとめもなく慌てふためいて混雑し、何が何だかわからないが、卜川はただ泥に喘ぐ鮒の気持ちのような気持ちになって、突き飛ばされつつ、罵られつつ、怪しまれつつした後、いつの間にか、自然とそこを離れて、少しばかり人気の少ない方に歩いて行った。そこからもう一度現場を見れば、火の勢いは一向に衰えず、まだまだ燃え盛っており、逃げる者、消そうとする者、それぞれの気ぜわしさで溢れかえっていた。
手荷物を持って出なかったのは愚かだったが、それを失ったとしてもそんなに大げさに悔やむこともない。手荷物のことさえ思い切って諦めれば、気軽な旅の身の上、焼け出されても苦にはならない。こっちの座敷からあっちの座敷へと、ちょっと宿屋の場所を変えるだけのこと。他に宿も座敷もいくらでもある。宿賃さえ払えばすぐにでも落ち着けるさ、と一人余裕綽々でいたのだが、高慢な鼻はすぐにへし折られた。
おや、これはどうしたこと、どこで振り落ちたのか、懐に入れてあった財布がない。奪られたのか、いや、奪られたとは思えない、それでは落としたのか、いや、落としたとも思えない。だが、一時、気が動転し、部屋の窓から出て、ここまで逃げてきた間に、掏られたか、落としたかに決まっている。手荷物は焼いてしまうし、財布はなくす。その上、帽子まで置いてきて、着の身着のまま、風呂敷一枚持たず、あっても役に立たない怪し気な掛け軸だけを、あの時手にしたままずっと持ち続けている。これが尺八だったら物乞いにでもなりそうなこの状況、ほろほろと無茶苦茶にでも吹き鳴らしてお恵みを頂戴する道具にもなろうが、それもできない馬鹿でおかしな物。これと同じく馬鹿でおかしな男がもう一人、縁は異なもので、両者手を取り合っての道行きとなった。それは、もの悲しい風が雲間に光る遠い星から吹いてきて、薄い着物の裾を冷やし、しっとりと降りる露が音もなく、帽子もない淋しい頭をなぶる秋の夜中のことであった。
つづく