抜け出せない闇
コツコツ、と音を立てて階段を上る。ホームにたどり着くとともに電車の到着を告げるアナウンスが響きいた。ホームは無数の人で埋め尽くされており、数えるのも億劫になるくらいだ。俺はそんな人混みを縫うようにかき分けて進んだ。
ああ、この人禿げ始めてるな。ぶつかりそうになった人の頭を見てそんな感想が浮かぶ。再度一瞥して脇を通り抜ける。ドアが開くとともに流れ込む人の流れに乗って後続に押されながら奥へと進む。目の前には見目のいい中学生くらいの男の子がいてそっと目をそらした。ポケットからスマホを取り出すと同時に、イヤホンを耳にさしウォークマンの再生ボタンを押す。スマホの画面には一対一のオンライン対戦ゲームが映っている。俺は音楽に耳を傾けながら対戦ボタンを押した。
ノイズキャンセリング越しに電車の到着を告げる車内アナウンスが届く。俺はスマホをポケットにしまい、滝のように勢いよく流れだす人に飲まれないように備える。扉が開き何とか無事ホームに足を付け、そのままエスカレーターに向かう。エスカレーターに乗ると目の前には付き合っているであろうカップルが見えた。再びスマホを取り出しラインの通知のチェックをする。どうでもいい事務連絡が来ているだけだった。エスカレーターを降り、駅の改札を抜けると会社があるビルを目指す。一流企業とまではいかなくてもそれなりの会社だ。そこらの三流会社とは違う。会社までの道のり。名前も知らぬ小さな会社がある小さなビルに入っていく人を横目で見ながら歩いた。
自分のデスクに着くとパソコンの電源を付け、コンビニで買った一本九十二円の缶コーヒーを口に付ける。一服しているとパソコンが起動し終わっていた。淡々と文章作成ソフトを立ち上げるとキーボードに手を置いた。
暫くそうしていると肩をぽんぽんと叩かれた。振り返ると同期の斎藤がいた。
「この書類のチェック頼んでいいか?」
俺は「悪い、今は無理だ」と告げて再びPCに視線を戻した。実際無理という訳でもない。少しペースを上げれば出来る。ただ面倒くさかったのと……。
「頼む。早く仕上げて部長に見せないといけないんだ。後でコーヒー奢るから」
そう。こいつが係長だからだ。同期入社にも拘らず出来た差。向こうは同期だから頼みやすいとでも思っているのだろうが俺からしてみれば自分と違って人生が上手くいっている奴の尻拭いなんて押し付けられたくない。ただこう頼まれると可愛そうになってくる。いつものことだが俺は「わかったよ」と告げて受け取った。俺はやっぱ人を見捨てられない人間なのかな。違うと心のどこかから聞こえてくる声に気づかずにそう思う。本当は違う。ただ……なだけだって。
普段の業務に加えて追加の業務も終えて昼休憩に入ると、隣の奴はもう休憩に入っていた。コンビニで買ったであろうおにぎりやパンを片手にイヤホンを付け、ギャルゲーをプレイしている。そういやオタクだったな。あれはないわ。侮蔑の視線をちらっと送り歩き出した。
時刻は既に七時前。空はただ黒一色に染め上げられている。本来ならば暗いはずの道は月明りとビルから漏れ出る明かりに照らされてまるで昼間のような賑わいを見せている。
ようやく仕事から解放され、帰路に着いた。早く帰って飯を食べたい。と言ってもスーパーで適当に買って食べるだけだけれど。その後はゲームだ。先週買ったばかりのオンラインゲームがもう少しでクリア出来そうだ。心なしか早くなった足で駅へと向かう。
電車は満員電車という程ではないが、席に座れない程に混んでいる。大半が仕事終わりのサラリーマンやOLだが学生も混じっている。その中の楽しそうに談笑する学生が視界に入った。バレー部か。床に置かれている荷物からそう推測できる。恐らく練習試合があるのだろう。身長は平均よりは高いがあの頃の俺より低いな......って何考えてんだ。何でこんなことを。ああ、嫌なことを思い出した。今までずっと自分にさえ隠していたこと。無意識の内に頭の片隅に押し込んでいたことを。
俺がまだ中学生だった時、俺はバレー部に入っていた。理由は特にない。中学生にしては背が高かったことで勧誘されたから、入ってみたという感じだ。初めの一年半くらいは楽しかった。皆素人で背が高かった俺の方が有利だったこともあって一年から試合に出してもらえた。だからだろうか。俺は練習を適度に手を抜いた。一見すると真面目にやっているがちょくちょく休憩を挟んでサボっていた。それが凶と出たのは中二の頃。皆の身長が俺に追いつき始めた。技量では真面目にやっていた奴らに敵わない。気づけば他の奴らの方が試合に出ていた。それでも俺はその現実から目をそらし続けた。あいつらの身長が伸びてきたから試しているだけだと自分に言い聞かせ、まだ自分の方が身長が高いと皆と比べて安心した。けれども状況は悪化するばかりだった。身長を抜かれた。俺が試合に出る機会がめっきり無くなった。それでも練習ではかっこつけたくて。みじめな姿を見せたくなくて。実体のないプライドに縋って。ミスをすると適当に誤魔化すように笑って。ボールを取りに行くと言って少しでも練習から離れて。現実から逃げ続けた。三年生が引退したら必然的に自分はスタメンだと言い聞かせて。
実際、三年生が引退すると同時にスタメン入りを果たした。心は安堵に包まれ、少しだけ真面目に練習に取り組むようになった。俺はこのまま仲間と共に試合に出て、喜んで、泣いて、そうして引退するものだと思っていた。ただ現実は違った。三年の五月の県大会。俺は当然スタメンで発表されるものだと思っていた。けれど俺の名前はなかった。俺の名前はベンチの枠に。代わりに一学年下の奴がスタメンに入った。頭の中で嫌な音が響いた。それから俺がスタメン入りすることは無かった。
中学時代に嫌という程思い知った劣等感。ただただ不安で。誰かを見下して心の平穏を得た。けれどそれは底が見えなかった。どれだけ安心感を得ても満足することがなかった。まるで蟻地獄に嵌ったかのように俺は溺れていった。それから高校、大学、社会人と進んでもその地獄から抜け出せていない。普通のことだ、みんな人を見下して安心している。テスト返しで見せ合う姿なんてその通りじゃないか。そう自分を納得させているうちに、いつしか自分にも隠すのがうまくなっていた。お陰でこのざまだ。もう二十八だ。彼女はいない。貯金もない。いつか思い描いた輝いていた大人とは正反対だ。
思考の海から浮上すると同時に最寄り駅に到着した。人の波に流されて駅の改札を出る。ただ何となくそのまま帰る気分にはなれなかった。小さなロータリーに置かれたベンチに腰を下ろす。空を見上げるとどこまでも広がる闇の海に月だけはまるでこっちだよ、と主張するように光っている。
「俺はどうすればいいんだろう」
ぽつりと呟かれた言葉は静寂をかき乱すように通った車の音の陰に隠れた。
「ふっ。いつまで他人を頼ろうとしてんだよ」
俺はいつまでもこうしているのが馬鹿らしくなって立ち上がる。足に力を込めてコンクリートの地面を踏み込む。いつも通りの帰路。街灯も月明りもない小道をまっすぐ進んだ。