天瀬川さんと暑い冬の日
暑い。
日本の冬はこんなにも暑いものだっただろうか。
今日も今日とて、僕は天瀬川さんの家に招かれお邪魔していた。
こう寒いと特段の目的が無い限りあまり積極的に外に出たくはない。
そう、寒いのだ、本来は。
「どうかしましたか、岩波君」
問う天瀬川さんは半袖のブラウスにスカートと、至って涼しげで目にも優しい。
長い髪もアップにしており、ちらちらと白いうなじが見えて大変困る。
この格好で玄関に出てきた時はどういうお誘いかと面食らったが、彼女の部屋に通されてみれば簡単なことだった。自らに有利な環境を作って待ち構えていたのだ。
さすが室温をガンガンに上げた張本人は暑さ対策も万全というわけだ。
「うん、いや……ちょっと何だか暑いかな、って」
「そうでしょうね」
それだけ言って天瀬川さんは読んでいた本に目を落とした。
うん、分かってた。
当然意図的に室温を上げているであろう天瀬川さんに暑いと言っても、そりゃあ下げてはくれまい。
本の表紙には『時短レシピ ご家庭で出来る蒸し料理』とあるが、それは果たして皮肉だろうか。僕は美味しく調理されてしまうのだろうか。
しかしまぁ、秋口につきあい始めて、まだ寒い時節しか交際していない天瀬川さんの薄着というのは、至ってレアな代物だ。
さすがに暑いのか首を汗の筋が伝い、その様子すら艶めかしい。
拭くことはせず、薄手のブラウスも心なしかしっとりとしているように見える。
まさか透けたりはしないだろうけど。
よし分かった。
こうして暖かくした上でそれなりの格好をしているということは、その姿を見せて僕を恥ずかしがらせるのが今回の彼女の作戦と見た。
きっといつも足を見ている時みたいに本を読みつつチラチラと見ていたら、覗き魔気質の変態と罵られるのだ。それもいいな。いやいや。
天瀬川さんが仕掛けてくるなら、僕は彼女の想像を乗り越えて一歩先を行かなければならない。
いいだろう、受けて立つ。
僕は戦いに備えて座り方を女の子座りから正座に切り替えると、本を脇に置き、背筋を伸ばして彼女の方に向き直った。
意外に防御側になると照れやすい彼女だ。僕の方から積極的に見つめれば勝てるかもしれない。
薄着になってなお厚みのある胸元を、細く浮いた鎖骨を、スカートの裾からすらりと伸びた脚を、じっと見つめる。
これは断じて助平な行為ではなく、彼女の横暴に対する反抗なのだ。
特に良いのは、数本垂れた髪の毛をかき上げるときにブラウスの袖口からチラと覗く腋だ。
冬場は決して見られないその部位は、秘めた場所としての希少性と、胸に近い位置の素肌という直接的な要素の双方から興奮を覚える。
これは断じて助平な行為ではない。
そうしてしばらく彼女の身体を見つめていると。
「岩波君」
「はい」
なんだか改まってしまった。
天瀬川さんは氷のぶつかり合う音のするコップからお茶を一口飲むと、こちらには目も向けずページを捲った。
「タンスの下着入れの段からハンカチを取ってもらえますか」
「かしこまりました」
なんだかかしこまってしまった。
勝手知ったる天瀬川さんのタンス。上から二段目を迷いなく開け、綺麗に畳まれた下着を拝見する。
いやそうでなく。その隣にしまわれたハンカチに目をやる。
性格か、無地のものが多かったが色は様々だ。なんとなく薄いピンク色のものを選ぶ。
「取ったよ」
「ありがとうございます。ではこちらへ」
椅子に座って読書している天瀬川さんの傍に寄る。近くで見るとまた露出度の高さがよく分かる。
というか結構盛大にダラダラと汗をかいている。下げようよ室温。
「今日は暑いので随分汗をかいてしまいました。拭いてください」
「外は氷点下だよ天瀬川さん」
そうか、こう来たかぁ。
僕に汗を拭かせたいから室温を上げた。言われてみれば実にシンプルで天瀬川さんらしい状況だ。
「一応、理由を聞いても?」
「先日小説を読んでいたら、風邪で寝込んだ女性の身体を、恋人が濡れタオルで拭いてあげるというシーンがありまして。男女の健全な範囲で触れ合う行為としては定番だなと思った次第です」
なるほど、確かに恋愛ものとかではお約束の、無理なくちょっと肌色描写の増える美味しいシチュエーションだ。
「まぁその恋人は直後のページで犯人の怪人に撲殺されたのですが」
「その情報は要らないよね?」
ひょっとしてクローゼットに怪人が潜んでいたりするのだろうか。
ともあれ体拭きか。彼女自ら望むのであれば、誠心誠意拭くにやぶさかではない。
天瀬川さんは暑そうに一息つくと、脇に立った僕をちらりと見上げた。
「本当は風邪を引いて状況再現しようと思ったのですが、考えてみれば私、生まれてこの方風邪を引いたことがありませんでした。とんだ誤算でした」
「それはまた健康で良いことだと思うけど」
とりあえず、額に浮かんだ汗、次いで眉を濡らす汗を拭く。目に入りそうだ。
肌を傷めないようポンポンとはたくようにして頬、鼻梁、顎と順に撫で拭っていく。
天瀬川さんはされるがままになっており、ちょっと悪戯心を刺激される。
僕は彼女の耳の後ろから首にかけてを、ごくそっと触れるかどうかの強さで拭いた。
声こそ上げなかったが、天瀬川さんの身体がブルっと一度震えた。
マナーモードみたいだなとは思ったけど黙っておく。
「顔はこれぐらいでいい?」
「はい。後で覚えていてください」
怖い。調子に乗りすぎたか。
反省しながら改めて首と、真っ白なうなじを拭く。短い産毛が可愛らしい。
普段の髪型では見る機会のない部位だ。よく見ておこう。
浮き出る汗を円を描くようにして拭い、肩から前へ。
喉を拭いて、構造上汗の溜まった鎖骨をその形に沿って拭き取る。
「鎖骨が、少々目立つ体だと思うのですが、どう思いますか?」
「好きだよ」
「そうですか」
天瀬川さんはにこりともせずにそう答えた。
スリッパの中でパタパタと足を上下させる音がしているのが喜んだ時の癖だと、果たして本人は気づいているのかいないのか。
鎖骨の間を拭いていると、当然無防備な彼女の体を上から見下ろす形になり、すると当然ブラウスと体との間の隙間が見えてしまうことになる。
僕としては覗きのような真似は極力したくはないのだけど、与えられた役割上仕方がないことだ。
本当は見たくはないんだけどなー! と自分すら微塵も騙せない言い訳を根拠に、僕は視線を隙間に向けた。
「……?」
下着でも見えればと思っていた視界に飛び込んできたのは、紺色のインナーだった。
以前畳まされた下着のどれとも違うし、質感もどうも肌着っぽくはない。
水着だ!
天瀬川さんはブラウスの下に学校指定の水着を着用していた。
僕の驚愕を見抜いたように、彼女は得意げな表情を覗かせた。
「こういうことをさせるにあたり、私がそこまで無防備になるとお思いですか。殿方に自分の下着を見せるなんて破廉恥な女と思われては心外です」
いや、以前干させて畳ませて、さっきもまたタンス開けさせてと何度も見せられてるんですが。
着用してなければエロスではないという判断だろうか。謎だ。
若干腑に落ちない気持ちを抱えながら、二の腕の汗を読書の邪魔にならないようそっと拭き取る。
上半身の露出した部位は全て拭き終えた。額にはまた汗が浮いてきたのでそれも拭う。
さて、さすがに下半身となると勝手に拭くのは躊躇われるところだ。
「えーと、天瀬川さん。この後僕はいかがすればよろしいでしょうか」
「まだ一番汗をかいてるところを拭いてもらっていません。詰めが甘いですね」
そう言って天瀬川さんは本を机に置き、右腕を挙手した。
ブラウスの短い袖口から、さっきからずっと気になっていた腋がはっきりと覗く。
何故か天瀬川さんは冷ややかな眼差しでこちらをジーっと見ていた。
「薄着をするにあたり、読書しながらいろんな部位を故意に見せつけて反応を窺っていました。世の殿方の平均から考え、胸元なら仕方がないだろうと思っていました。うなじもあからさまに見せつけていました。でも一番反応していたのは腋でしたよね、岩波君」
「若干申し訳ない」
見せつけられてたのに何で叱られてるんだろう、僕。
「ちなみに二番目に反応してたのはスリッパから出した足の指をほぐす運動でしたが、これは予想の範疇です」
「本当に申し訳ない」
肌色多めのくるぶしソックスで足をアピールされたらそりゃあ見てしまう。
天瀬川さんはコツコツと机を指で叩き、いかにも気難しそうな顔をした。
「どうしてこう足だの腋だの……プールや海なんかに行ったらどうなってしまうんですか?」
「いや、天瀬川さん以外のにはそんなに反応しないから大丈夫だよ」
「ならいいですけど」
「いいんだ」
意外と独占欲の強い子だ。僕の部屋の本棚の裏に隠してある、足の裏多めの写真集は絶対に見つからないようにしよう。
ともあれ、お許しを得られたのだ。拭くしかないというか積極的に拭いていきたい。
すっかり水分を吸ったハンカチを裏返して畳み直す。
見えにくい服の中だ、よく確認しなければならない。僕は袖口に顔を近づけようとし、天瀬川さんの手に額を押さえられた。
「待ってください、拭くのにどうしてそこまで顔を近づけるんです」
「敏感な部分だし、どのぐらい濡れているのかもわからない。僕には間近で確かめる義務があるんだ」
「そんな義務はないし権利も与えないので安心してください」
ちぇっ。
仕方なく、畳んだハンカチを袖口に差し込む。
……手に感じる湿度がもうすごい。この暑さ、僕もシャツの脇に汗が染みて気持ち悪いので、いくら多少薄着とはいえこうなるのも必然である。
服って寒さには重ね着で対応できるけど、全裸でも暑いような暑さにはどうしようもないし。
「んっ」
余人と変わりなく天瀬川さんもここはやっぱり敏感なのだろう。ハンカチの端が腋の下に触れると、耳の裏のとき以上にはっきりと反応を見せた。
しかし拭くこと自体は彼女が希望したことであり、今果たすべき使命だ。
触覚を頼りに身体のラインに沿ってハンカチを滑らせていく。
今拭いているのは上腕の裏側、そこから下って特に窪んだ箇所。
一番汗をかきやすいであろうそこは、念入りに往復させて汗を吸い取り拭っていく。
天瀬川さんはくすぐったいのを堪えているのか、笑うまではいかないまでも口元をむずむずと動かし、鼻からは細い間隔で区切って息を吐いている。
なかなか見ることのない表情と仕草であり、とても可愛らしい。
「くすぐったい?」
「……多少は。ふっ……く……」
僕としては彼女を弄ぶ気はさらさらなく、シンプルに汗を拭いてあげてるだけなのだけど、どうやら思ったより天瀬川さんの腋は敏感らしい。
窪みから下へ、脇腹にも手を可能な限り伸ばす。
迂闊にうっかり前面に逸れて胸の側面に当たろうものなら、水着越しとはいえ僕もただでは済まないはずなので、極めて精密な動作を要求される。
でもこの暑さで服の下に水着って結構蒸れそうだけど……深く考えると取り返しのつかない好奇心に襲われそうだから、一旦置いておく。
「っ……ぅぅ……」
脇腹を拭かれた天瀬川さんはもう左手で口元を押さえ、身を捩って笑いを堪えている。
なんだか腋を拭かせることで羞恥を煽ろうとしたようだけど、思いの外僕が腋に積極的に関心があったことと、他人に触れられた時のくすぐったさが本人の予想を超えていたようで、完全に天瀬川さんが自爆した形だ。
天瀬川さんって友達から悪戯で脇腹突かれそうな感じでもないしなぁ。自分で触ってみて大丈夫だろうと慢心してたら駄目だったんだろう。自分か他人かでくすぐり耐性って全然違うし。
「はい、拭いたよ。ハンカチぐっしょりだね」
「……ありがとうございます」
要求どおりのことをしただけなので文句も言えないのだろう、天瀬川さんは憮然とした表情で右腕を下ろした。
物理的な刺激と恥ずかしさの両方だろうか、その頬はかつてないほど赤みが差している。
正直写真でも撮っておきたいが、そうすると即座に最大限の報復が返ってくるだろう。ここは命をかけるべき場面ではない。
なので許される範囲での限界を探っていく方向にした。
僕はもう拭く用途では役に立ちそうにない濡れたハンカチを左手に持ち直し、手を伸ばした。
彼女の背中側を通り越し、左の腋へ。
腕を上げていないので少し強引に、左の袖へと手を滑り込ませようとする。
さすがにすぐにバレ、一瞬天瀬川さんのお尻が跳ねて椅子から浮いた。
「……岩波君、どういうつもりですか」
「どういうというか……腋を拭いてと言われてまだ右側しか拭いてないから、反対側も、と。まさか左半身は汗をかかない体質とかじゃないでしょ?」
こちらに非がないことを説明した上で改めて袖口を狙う。
すると天瀬川さんはハンカチをサッと取り上げると、椅子から転がり落ちるようにして机の下に潜り込んだ。
くるりと反転し、キッとこっちを睨んでくる。
作戦も何もない咄嗟の行動だったみたいで、スカートも捲れて少し見えてしまっているが、水着なので問題は無い。多分。
彼女はあからさまに拗ねた様子で唇を尖らせてこう言った。
「……もう拭かないって約束するまで出ませんから」
「いや、頼んだの天瀬川さんだったよね」
「出ませんから」
スカートに気づいたのか、裾をさっと直した上で身を縮めて上目遣いに睨む。
引っ張り出そうと手を伸ばしたら、主に腋をガードするように腕を締めて拳を構え、完全に徹底抗戦の構えだ。
天瀬川さんは時々とても小動物っぽい。