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天瀬川さんと繋ぐ手指

 昼休み、学校の廊下でばったりと天瀬川さんに出会った。

 違うクラスとはいえ同学年だし、さほど巨大な学校でもない。移動中に姿を見ることだって当然よくあることだ。見かけるたびに幸せを感じる僕はとてもエコな男だと思う。


 天瀬川さんは登校時の常として長い髪を三つ編みにし、優等生然とした格好をしている。

 彼女が実際に優等生かは、各科目の教師ごとに著しく意見が分かれることだろうが。

 小脇に抱えた本は『生活の化学~カルメ焼きの論理的アプローチ、他~』と若干インテリっぽい。というか子供の科学とかそっち系っぽい。

 天瀬川さんは深々と折り目正しく一礼した。


「ごきげんよう。日々勉学に励んでいますか岩波君」

「久しぶりに会った親戚みたいな挨拶だね天瀬川さん」

「もう身内扱いとはさすがの私も照れてしまいます」

「扱ってないよ」


 照れたと言いながら表情も声音も至ってフラットなのはまったくどうかと思う。

 時計に目を落とせば、まだ昼休みは大分時間が残っている。

 ふむ、ここはひとつ校内でも天瀬川さんと親交を深めて心の充実を得るとしよう。

 幸いというかなんというか、付き合うにあたり色々あって僕と彼女の交際は友人知人には周知のものとなっている。校内で一緒にいたところでそうそうからかわれることもない。

 ま、気恥ずかしさはあるし、お昼をご一緒すらあまりしないけども。


「天瀬川さんはお弁当?」

「はい、母が作ってくれますので。お米の一粒一粒を岩波君だと思って、よく噛んで唾液と混ぜて甘くなるまで磨り潰しました」


 どうしよう、いきなりすごく絡みにくい方向から仕掛けてきた。

 よくよく愛情表現に唾液を用いる子だ。愛情表現だろうか。愛情表現だろう、多分。

 とても回りくどいけど情欲かもしれない。

 とりあえずの回避策として「美味しかった?」と聞くと、こっくりと頷いた。別に今のトークは誘ってから変態のレッテルを貼る天瀬川トラップではなかったようだ。


「歩きましょう。廊下で立ち止まってというのも何だか変な気分です」

「そうだね」


 特にあてもなく、ぶらりぶらりと歩き出す。グラウンドからは球技を楽しむ生徒の声が、教室からは校内では談笑する声が聞こえてくる。

 冬場は校舎内でもなかなか肌寒い。よく外で元気に遊べるなと思うが、運動している方がむしろ寒さ対策としては真っ当なのだろうか。

 こうして歩いているだけでも、立ち止まっているより多少なりマシに感じる。


「寒いですけど、今日は天気がいいですね」

「そうだね」

「人が渾身の絡みやすい話題を振ったのに何ですかその強制終了は」

「その気配りができるってことは、絡みにくい話題を振るのもわざとだね天瀬川さん」

「勿論です」


 威張られた。ちょっと得意げな天瀬川さんも可愛い。


 職員室の前をそそくさと通り過ぎ、渡り廊下。風が体を一撫でしていき、ますますもって体が冷える。天気がよくても気温の低さはどうしようもない。

 殊に体の末端、手指が特に寒い。皮膚が内へと引き絞られるような錯覚を覚え、痛いほどだ。

 天瀬川さんも両手を小さく揃えて口の前に持ってきて、はぁっと息を吐きかけては擦り合わせている。彼女にしては珍しく、なんというか素朴な姿だ。


 手を繋ぎたいな、と思った。

 冷えた手を繋いで温め合うというのは、想像してみるといかにも恋人らしく、心躍る光景だ。

 寒さを言い訳にするのも我ながら情けないが、きっかけとしては悪くない。

 よし、と覚悟を決めて隣の天瀬川さんに顔を向けると、彼女は両手を口元に添えたままじーっとこちらの顔を見上げていた。

 なんとなく出鼻を挫かれた気がして、どうかしたのかと首を傾げて見せた。


「手、繋ぎましょうか」


 おおっと完全に出鼻を挫かれたぞ。今の僕は結果的には絶好のチャンスに何も言い出せず、彼女に気を使わせたダメ男というわけだ。

 渡り廊下を抜け、再び校舎に入った。冷えてはいてもそこは屋内、指が外気の痛みから解放され、にわかに血が通い出すのを実感する。

 ちょっと心拍数が早くなったせいも、あるかもしれないけど。


「そりゃあ許可してくれるなら一日中でも繋いでいたいけど、どういう風の吹き回し?」

「一日中というのも面白いことになりそうですが、単に手が冷たかったので。私だって機嫌がドン底でなければ手ぐらい体を許しますよ」


 手を繋ぐことに対し体を許すと表現する人間を、僕は他に知らない。

 そういえば前に繋ごうと試みた時は月のものとか言っていた。かといってそれ以降モーションをかけても駄目だったので、結局気分が乗るかどうかなのだろう。

 そして今はOKな気分というわけだ。

 少なからず高揚感に包まれつつ、僕は片手を彼女の側に差し出した。


 天瀬川さんは考え込むように僕の手を少し眺めていたが、やがて僕の制服の袖を捲り、露出した手首を小さな手でそっと掴んだ。細い指先はひんやりと冷たい。


「天瀬川さん、手は手でも普通手首では手を繋ぐと言わない」

「そうでしょうね。いえ、これは単に脈拍の確認です。やや速いように感じますね、私と手を繋ぐことに対して興奮しているのでしたら光栄ですが」


 うん、全くその通りなんだけど。というか人の脈拍数を覚えるのはやめてほしい。

 天瀬川さんは血管をなぞるように手首をつぅっと指先で撫でると、一旦手を離してから改めて僕の手を握ってきた。


 正確には、僕の小指を。


 天瀬川さんの親指、人差し指、中指。その三本が三方向から僕の小指に添えられている。


「手ではあるけどさ」

「いきなり手の触覚全てを交わすのは私達にとってはいささか刺激が大きいかもと思いまして。大事ですよ、準備運動」


 なるほど、天瀬川さんはいつも正しいことを言う。

 正しすぎて意味がわからない。


 天瀬川さんは僕の小指を揉むように弄んでいたが、次第に指先に力を込め始めた。

 ごく弱い込め方で、痛くはない。ただ圧迫感は感じる。

 それが次第に、ごくごく緩やかな段階を踏んで強められていく。

 

 痛みすらないので積極的にやめてほしいわけではないけど、なにしろ小指なのでなんとなく危険な感じがじわじわと迫る。真綿で首を絞められるとはまさにこんな感じだろう。

 指がじわりと熱を持ち始めた頃、天瀬川さんは小指を解放した。


「手を繋ぐことに対してドキドキとかしましたか?」

「うんまぁドキドキという枠で括れはするのかなぁ」


 ハートフルというよりサスペンス寄りのそれだったけど。

 天瀬川さんはまた脈を取り、しかしさほど望み通りの結果が得られなかったのか、不満そうに眉根を寄せると、再び僕の指に触れた。

 今度は薬指だ。彼女の薬指と僕の薬指一本ずつが絡み合う。


「薬指の名は薬を塗るのに使ったことに由来するそうですね」

「まぁそんなとこだろうね」


 詳しくは知らないけど字面から想像はつく。


「岩波君のプレゼントのリップクリームを持ってきていれば塗って差し上げたのですが」

「それは唇に? 指に?」


 指だろうなぁ。この丹念に丁寧に一本一本弄り出したロックオンぶりを見るに。

 何か塗りたいのだろうか、天瀬川さんはまたも少し思案げに首をかしげていたが、やがてため息を一つつくと、素早く離した自身の薬指を真っ赤な舌で舐め上げてから、再び僕の薬指に絡ませた。

 指と指の間に、ぬるりとした粘液の感触と微かな生暖かさが横たわる。

 すぐ傍を下級生の女子が通り過ぎていったが、指切りか何かだと思ったのだろう、特にこちらを見てぎょっとしている様子はなかった。

 衆人環視の状況でなかなかやってくれるものである。


「失礼、学校内におけるTPOを考慮した結果、塗れるものが唾液ぐらいしかありませんでした」

「考慮してそれなの?」


 逆に考慮しなかったらどうなるのかの方が気になる。

 薬指は構造上、中指が連動してしまい、特に動かしにくい指だというのもあるのだろう。不器用な動きで苦心しながら絡みついてくる。それがくすぐったくも何だかいとおしい。

 関節と関節が触れ合い、湿り気が微かな引っ掛かりとなって指をその場に留めようとする。

 

 唾液はすぐに冷えて元以上に指は冷えたけど、全身の血行は随分と良くされたように感じる。

 もちろん、それも天瀬川さんにしっかり脈を取られて知られてしまう羽目になったが。

 天瀬川さんは少し満足げに頷くと、制服のポケットから袋入りのウェットティッシュを取り出して互いの汚れた薬指をサッと拭った。


「そこは拭くんだね」

「唾が付着したまま午後の授業を受けるつもりですか。まずは常識に則って考えるのが大事だと思いますよ」


 常識ある女の子は薬指だからって理由で唾を塗ってきたりはしないと思う。


 続いて中指。天瀬川さんは五本の指でもって中指をくすぐり始めた。

 感覚の鋭い指先とはいえ、脇腹や足の裏のようにくすぐったさに著しく弱い部分ではないので、笑い転げるほどではない。皮膚表面を触れるか触れないかぐらいの繊細さで掠める愛撫は、ひたすらにむず痒いものだ。


 僕の顔をじっと見て様子を伺いつつ、緩急つけて根元から関節を通り、指先へと抜けていく。

 気持ちいいけれどこれを見て手を繋ぐ行為だと誰が思うだろうか。微妙なところである。


「思ったほどの反応は頂けませんね」

「うんまぁ、天瀬川さん可愛いなとは思うけど足裏マッサージとかされた後だと軽くくすぐられるぐらいはね」

「学校の廊下で性的な行為について話すのはやめてください」


 うん、足裏マッサージが性的だと断じる君が好きだ。また部屋デートの機会があれば是非しよう。

 少し拗ねたのか、根元の膨らみをキュッと弱くつねられ、今度は人差し指が両手で挟み込まれた。

 すりすりと天瀬川さんが手をすり合わせる動きに巻き込まれ、冷えた人差し指が熱を持つ。さながら原始的な火起こしの棒のようだ。回転はしないけども。


 これは普通に温かいので気持ちいい。

 その旨伝えると気を良くしたのか、少し顔を近づけてはぁっと暖かな息を指に吐きかけてもくれた。

 暖かさ以上に、彼女の直の吐息というのがなかなか気恥ずかしくも嬉しい。

 というか、学校の廊下、人通りが極端に少ないわけでもない所で男子の指を両手で掴み顔を近づける女子。

 なかなか傍から見て疑問符しかつかない状態だと思うのだけど、どうなのだろう。


 ちょうど通りかかった天瀬川さんの友人がまさにこのシチュエーションについて尋ねてきたが、天瀬川さんはしれっと真顔で「岩波君の手相を見ています」と言ってのけた。

 友人さんは納得したのかしてないのか、首を傾げながら去っていった。天瀬川さんが友人関係にもこんな調子であるのなら、いつものことだと思っているのかもしれない。


「ちなみに天瀬川診断によると岩波君の手相は彼女に強く劣情を催すタイプですね。一体岩波君の妄想の中で、私は何度交際にあたっての契約を破られているのか恐ろしく思います」

「それもう手相関係ないし、診断っていうかレッテル貼りだよね?」


 数えたわけではないけど、三か月間で三桁は間違いなく超えてるので一切否定はできない。診断は正しい。

 脈はこの不思議な交わりを天瀬川さんの友達に見られたということで少し上がっていたが、それは彼女にも分かっていることなのだろう、やはり満足には至らなかったようだ。


「手を繋ぎたがっていたのに岩波君の肉体反応は冷ややかですね」

「それはまぁ、寒いからね」

「そういうことを言っているのではありません」

「ごめんなさい。……あれ、なんで僕説教されてるの?」


 偶発的遭遇からの思い付きでの行動は、彼女にとって十分に作戦を練られたものではなかったようだ。これまでの彼女の言うところの肉体的接触の中では至って心身に優しいものだ。

 強いて言うならたまに通りすがる知らない生徒がちらちら見てくるのが少し恥ずかしい。というかこんなことやってたら僕だってちらちら見る。彼らは悪くない。


「お昼休みももうそんなにありませんね。親指も済ませてしまいましょう」

「何だかノルマのように言ってるけど全然そういうことはないからね!?」


 まぁ天瀬川さんと触れ合えること自体は僕にとって多大な幸福ではあるのだけど。

 それでは、と彼女は僕の親指をとった。今度もまた全指、というより手全体を使って親指を包み込んだ形になる。今日やった中では一番手を繋いでいるっぽい。


 天瀬川さんの掌は柔らかく、ここまでの手指の運動のおかげか少し温かい。

 揉みほぐすように動かされ、包まれて見えない親指が四方八方から弾力と体温で攻め立てられていく。これがなかなか気持ちがいい。

 そう思ってしまったのは危機感の欠如だろうか。


 とはいえ、そこから突然動きが大きく変わったわけではない。最初から天瀬川さんは親指を一定の趣旨に基づいて握っていた。

 彼女が親指を握ったまま手を上下に振っている。

 それだけ見ればおかしなところはない。先程の両手で挟んだのと同じく、体温と摩擦で温めてくれるための行為だと言える。ただ、彼女の親指が僕の親指の末端に宛がい、指の腹で僕の爪の先の辺りを丹念に転がし始めたところで違和感に気づいた。

 強めに握った手が、親指の全体に均等かつランダムに刺激を与え、合間に指先が擦られる。最初はゆっくりと、次第に早く、僕の様子を窺いながら調整して。


「滑りが悪いですね」


 そう言って、彼女はさっと周囲を観察し、その瞬間に僕たちに注視している生徒がいないことを確認すると、手を自分の口許に導いて先程のように舌で舐め上げた。特に弄っていた指先に至っては唇で挟み、チュッと吸い上げてから、再び手での行為を再開した。

 突然の柔らかく濡れた粘膜での刺激に背筋が跳ねた。

 唾液という潤滑液にまみれた親指は、よくよく耳を澄ませないと気がつかないような小さな粘音を立て始める。


 天瀬川さんの親指への触り方、それはまさしく、何と言うか、男性自身に対する手つきとその動きだった


「あの……天瀬川さん、さすがにちょっと恥ずかしいんだけど……」

「手を繋ぐ行為のどこが恥ずかしいのですか? 岩波君の心根が汚れているのでは?」


 あ、この子すごい楽しそう。

 リズミカルに音を立てて親指をしごき、隙を見てはさらに舐める。

 ここまで来ると何かただならぬ雰囲気が出ているのか、こちらを見る通行人の姿も増えてきた。見咎められたところで指を手で揉んでいるだけなのだけれど。


 やがて手の速度が加速していき、見上げてくる天瀬川さんの目も一際悪戯っぽくじっとりと湿った雰囲気に包まれる。

 性的な感覚は一切ないのに、フィニッシュが近いことを感じて無闇に体が疼いてきた。

 とどめとばかりに親指の先が包み込まれ、ぐじゅりと気泡の潰れる濡れた音を立てて揉み込まれた。否応なしに連想する行為の想像の中で、僕は天瀬川さんに敗北した。


 糸すら引く手を離し、天瀬川さんは自分の手だけをまたティッシュで拭いてから、僕の手首をとった。

 測るまでもない。心臓は早鐘を打ち、うっすらと汗すらかいている。

 天瀬川さんは今日一番の、そして今日初めてのうっすらと満足げな微笑みを浮かべた。


「脈がとても早いですよ。寒さに対する体の自衛でしょうか?」

「うん、生理的反応ではあるね……」


 正直、この興奮を高められた状態で授業を受けるのはとてもつらい。眠ってしまう心配だけはなさそうだけど。

 僕の手を解放し、天瀬川さんはいかにももっともらしく頷いた。


「手を繋ぐ前の準備運動だけでこんなに昂ってしまうなんて、やはり私達のような恋愛初心者に手繋ぎはまだ時期尚早だったようですね」

「あ、そういう結論になるんだ」


 ひょっとして普通に繋ぐのが恥ずかしかっただけだろうか。

 そんなことを考えていると、天瀬川さんは時計を見て大層満足げな息を一つ吐き、ちょこんと頭を下げた。


「それではごきげんよう。放課後は一緒に帰りましょう」

「うん、どこか寄っていこうか」


 今のでどっと疲れたけど、元気が出るのもまた天瀬川さんとのデートだ。

 結果としてやたらと心が鍛えられる。いいことか悪いことかは分からないけど、退屈とは無縁だ。

 一礼して背を向けようとした天瀬川さんは、僕の手を指して小首を傾げた。お下げ髪がさらりと揺れる。


「その指、汚してしまいすいません。ちゃんと洗ってくださいね」

「う、うん。ちゃんと洗ってから戻るよ」


 親指は既に濡れ光るほどに唾を塗りたくられていた。





 天瀬川さんが立ち去ったのを見送ると、僕は外を見ながらごく自然に親指をくわえた。

 味はしない。天瀬川さんの昼食がカレーだったら味が微かにしただろうか。

 匂いは……いろいろ午後我慢できなくなるので自重した。


 その時、ポケットの中で携帯が振動した。今ちょっと下半身に振動は与えないでほしい。

 取り出すと、メールが一通届いていた。開く。


『赤ん坊ではないのですから指しゃぶりは程々に。 あませがわ』


 天瀬川さんは時々とても鋭い。




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