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天瀬川さんとリップクリーム

 自宅デートでキャッキャウフフと無言で読書をしていると、天瀬川さんは突然立ち上がった。お花摘みだろうか。いや天瀬川さんは普通にトイレですとか言うけど。

 ところが、その柔らかそうな唇から放たれた言葉は実に意外なものだった。


「交際中の男女が部屋でダラダラするなど不健全です、外に出ましょう」

「今更だね天瀬川さん」


 二人の時間の八割が互いの部屋で読書や映画鑑賞に終始するインドアカップルが僕らだ。

 今日手に持っている本は『週刊世界のトマト料理』。さて、果たして週刊ペースで何号まで発行できるか見物だ。

 どうやら今日は本に影響されての行動でなく単に衝動的なもののようだ。

 しかし、デート自体は僕も望むところだ。別段部屋にいるのが特に好きというわけではなく、天瀬川さんと一緒にいられれば割となんでもいい。


「ま、いいや。どこに行きたい?」


 とかっこよく言ってみたところで、車を出すわけではないので二人で自転車を並走・縦走、ないしは仲良く手も繋がず徒歩で歩くことになる。

 天瀬川さんは少し考えたようだが、すぐに肩をすくめた。

 

「特にどこと指定したい所もありませんから、強いて言うなら散歩……ですかね。まぁ、商店街に出ればトマト料理ぐらい何か見つかるでしょう」


 しまった、しっかり本に影響されてた。よっぽど食べたかったのか。

 トマトスープ、スパゲッティ、卵とトマトの中華炒め、チーズを添えたサラダ。色々浮かぶが、確かに思い浮かべるとなかなか空腹には求心力のある絵面なのがトマトの赤だ。

 僕もちょっと食べたくなってきた。個人的には生より加熱して甘味が出たのが好きだ。


 ちょうどお昼時ということもあり、時間も悪くない。どのみちお昼にはそのあたりに食べに行こうとは漠然と思っていたんだ。

 ……と、そこまで考えたところでお昼前に渡そうと思っていたものがあったのを思い出した。


「あ、そうだ。出かけるならちょうどいいや、プレゼントがあるんだ」

「クリスマスには多少早いですね」

「いやそんな大層なものではなく」


 なのでラッピングもしていない。

 机の上段から取り出したのは一本の、軟膏などが入っている感じのチューブ容器だ。


「リップクリーム……ですか?」

「そ。天瀬川さん唇割れやすいって言ってたしいいかなって」


 風邪でもないのにマスクをつけると気が滅入るものだ。この前天瀬川さんのマスクをつけたときは滅入るどころか目一杯テンション上がったけど。

 かといって唇が割れるのは確かに辛い。だったらこっちの方がまだしも気分的にはマシだろう。

 もしかしたらこの前は僕を弄るためにマスクしただけで、普段はリップクリームを使っているのかもしれないけど、それならそれで予備にでもすれば無駄にはならない。

 容器を受け取った天瀬川さんは嬉しいのか迷惑なのか判別のつかない無表情だったが、やがて深々と頭を下げてきた。

 

「ありがとう御座います。大変に嬉しく思います」


 丁寧すぎて事務的に見えるのが彼女の難儀なところだ。たまに本当に事務的に言うし。

 とはいえ、早速使おうとしてくれたようで、外装のビニールを破いてしげしげと効能などの表示を眺めている。


「スティックタイプではないんですね」

「ああうん。使ったこと無いから唇に直接塗るってのはなんか抵抗あって」


 あまり衛生とか気にするタイプでもないというか天瀬川さんには衛生的にどうかと思うことを色々されている身だけど、気分の問題だ。


「男性は口紅も使いませんからね。でも保湿には良さそうです、今から使わせてもらいます」


 キャップを外し、少しチューブを押すと乳白色のクリームが押し出されて僅かに顔を出す。

 指にとって唇に塗れば乾燥から大事な唇を守ってくれるという便利な代物だ。


 が、天瀬川さんはそこで停止し、クリームを指にとることはなかった。

 何か考えているようだ。じーっと押し出されたクリームを見つめている。これは、なんとなく非常によくないパターンな気がする。


「岩波君」

「はい」

「……何を警戒しているのですか。少しリップクリームを塗るのを手伝って欲しいだけです」


 塗るのを手伝うと言う時点でもはや警戒心しか湧いてきません。

 ああでももしかして僕の指で塗らせてもらえるんだろうか。だとしたら二重マスク越しでしか触れたことのない天瀬川さんの唇に触れるチャンスだ。これは見逃せない。

 果たして天瀬川さんはチューブを僕に手渡してきた。さすがにアドリブでの思いつきともなれば予想の範囲内での行動に収まるようで少し安心した。


「では岩波君、ご自分の体の好きな部位にクリームをとってください。私がそこに顔を近づけて自分で唇に塗ります」


 前言撤回。天瀬川さんはおかしい。




 さて、体に塗れと言われても非常に参ってしまう。

 言ってしまえばどこを天瀬川さんに唇でなぞってほしいかということだ。

 どこを、というと。


「……」

「あ、唇は駄目ですよ。そこは慎みを持ちましょう」

「え、あ、うん。そうだよね」


 股とか考えたのは僕の胸の中だけにしまっておこう。

 危ない危ない。


 とはいえ、あまり変な部位に塗るのも天瀬川さんに申し訳ない。僕は手を広げると、掌の中心にクリームを少量押し出した。

 少しドキドキしながら、それを彼女の前に差し出す。


「天瀬川診断によると、掌を選ぶのは裏で相当いやらしいことを考えた上で保身に走った卑怯な男性なのですが」


 バレてる。

 いや、カマかけかもしれない。僕は努めて平静を装い、何のことか分からないという風に首を傾げたりなどしてみた。


「まぁ、いいでしょう。敏感な部位に違いはないですからね」


 そう言って天瀬川さんは肩にかかった長い髪を両手で背中に流すと、僕の手に顔を近づけた。

 ……逆のパターンでやらされたことはあるけど、これ結構視覚的に来るものがあるな。

 唇が近づき、吐息が皮膚を撫でる。

 そして彼女の唇が、掌の中央に押し付けられた。


 柔らかい。

 少し厚みのある唇は、思った以上の弾力をもって皮膚感覚を刺激してくる。

 それが啄むようにクリームを絡め取り、自ら顔を揺らして塗り広げていく。

 クリームのぬめりと唇の柔らかさが円状に掌を撫で回し、加えて時々上目遣いに見上げてこちらの様子を窺ってくる。

 ……またこれがアレのようで見た目的に大変つらい。


「……何をニヤニヤしているんです」

「うわくすぐったい」


 喋るともにょもにょと唇が掌をくすぐってくる。声は籠もって若干間抜けだけど。

 十分に唇をクリームで覆った天瀬川さんはスッと軽く顔を上げた。

 もっと弄んでくるかと思ったけどお出かけ前だからか意外と簡素だ。


「はい、では次はどこですか?」


 なわけがなかった。

 あれだけ徹底して羞恥責めしてくる彼女がこの程度で済ませるはずがない。

 視線でリップクリームを示して早く早くと促している。


 仕方ない、ここは無難に……


「手の甲とか指とかつまらない所を選んだらさすがの私も失望してしまうかもしれません」


 駄目だった。

 えー……でも皮膚で露出していて許されそうなところって……

 困り、なんとなく首を掻く。

 ……あ、ここだ。


 少し迷ったけど、僕はチューブを首に当てるとまたクリームを押し出した。

 なんか首に注射してパワーアップする悪役的な感じだ。

 しかし天瀬川さんはその部位には満足したのか、やや嬉しそうな無表情でまた顔を寄せた。

 肩に彼女の顎が乗せられる。少しの重みと、また温かな吐息が首の血管を這う。


「いいですね、吸血鬼にでもなった気分で悪くないです」

「……噛まないでね」

「どうでしょう」


 小さな笑みの気配と共に、天瀬川さんはまた唇を押し付けた。

 なかなか他人に触れられる機会のない首筋は、太い血管の何本も通った弱点だ。

 そこを唇でなぞられると、生殺与奪でも握られたような神妙な気分になる。

 舌をホールドされた時も似たようなものではあったけど。


 一応クリームを塗り広げ、しかしそのまま関係ない前面まで唇が愛撫してくる。

 ふわりと、視界の端で揺れる髪の毛からいい香りが広がる。

 体勢上、どうしたって彼女からは見えない。ここぞとばかり思いきり息を吸い込む。

 

「……やっぱり岩波君は私の匂いが好きなんですね。いいですけど」


 バレた。至近距離であれだけ吸う音がすればそりゃそうだ。

 でもいいんだ。じゃあお言葉に甘えてもう少し。


「気分的に悪くないという意味では言いましたが開き直れとは言っていません」


 首に声が直に伝えられ、威嚇とばかりに歯の感触がそっと押し付けられた。

 ヒヤリとした悪寒がむしろ心地よかった。




 その後たっぷりと時間を掛けて、二の腕に手首、せっかくだからと手の甲や指先も使って天瀬川さんの唇の保湿を手伝わされた。

 手伝うというか、天瀬川さんが満足するまであちこちを唇でくすぐられた。

 もうすっかり体中クリームでべとべとだ。行為自体は大変に嬉しく楽しいものだったけど、油脂独特の感触が少し気持ち悪い。


 天瀬川さんはと見ると、さすがに器用な彼女でも顔の動きだけで上手くやれるわけもなく、口周りどころか頬も鼻も伸びたクリームまみれだった。ちょっとやらしい。

 それをウェットティッシュで拭き取りながら、天瀬川さんは満足したという風に穏やかな息を吐いた。なんだか、ここ最近天瀬川さんといるとティッシュを使う機会が増えすぎてる気がする。

 初回から大分消費してしまったクリームを改めて彼女に渡すと、彼女はそれを丁寧にバッグに収めてから小首を傾げた。


「私個人としては股間に塗るなどしたら当然セクハラで通報するつもりでしたが、岩波君の性質から考えて足の裏や耳ぐらいには塗るものかと思っていました」

「いやいやいや」


 さすがにそれは恥ずかしいというか無理だ。

 股間はまぁ、提案されたときにちょっと、ほんのちょっとだけ想像したけど。いや、あんなこと言われたら誰だって想像する。僕は悪くない。

 でも足や耳というのもなかなか退廃的な感じがして、やろうと思えばやってくれたというのならちょっと惜しいかな、という気持ちはある。見抜かれてるなぁ性質。


「でも耳とかどんな感じになったかちょっと想像もつかないよ」

「意外と岩波君も想像力の欠如した若者なのですね。そうですね――」


 スッと、天瀬川さんが身を寄せてきた。

 僕の肩に手を置き、少しだけ悪戯っぽく笑った顔が横を通り過ぎ、耳たぶから耳の穴の縁にかけて、とてつもなく柔らかい感触がぬるりとなぞってきた。

 全身がゾクリと粟立つ。


「――こうなります」


 息遣いと、ごく至近での天瀬川さんの楽しそうな囁き声が耳朶を打った。

 たっぷりのクリームに覆われた唇が開き閉じる音すら淫靡に聞こえる。

 唇を舐めたのだろうか、ぺちゃりと粘ついた水音がまたも至近距離で聴覚を揺さぶってくる。

 さらに追い打ちをかけるように、唇を細めてのひんやりした息、口を開いての温かく湿った吐息、緩急織り交ぜて音と息遣いで攻め立ててくる。

 その度にくすぐったさと恥ずかしさに体が跳ね、思わず声が漏れそうになる。


「悪くはないでしょう? こういうの、好きそうですから」


 笑い混じりの、耳に触れていなければ聞こえないようなごく小さな囁き声が直に脳へと注ぎ込まれていく。まるで催眠術のように、彼女の声と音以外が何も聞こえなくなっていく。

 僕はというと情けなくも不意打ちに屈してその場で固まるばかりだ。


 やがて天瀬川さんは体を離し、自分の唇に余分すぎるほどについたクリームを指で少しだけ拭った。その指で、硬直している僕の唇を撫でた。


「お裾分けです」


 ぬるりと指が唇を這う。僕の唇の端から端まで、彼女手ずからクリームが塗り広げられていく。

 たしかに保湿性はありそうな感触だけど、慣れない身としては少しむずむずする。


 ……いや待て、今さっき天瀬川さんが自分で舐めた唇からとったクリームということはだ、先のマスクと同じぐらいこれって間接というか直接キス的な行為では。

 興奮と混乱で若干頭の回らない僕を、彼女はどこか試すように上目遣いに伺っている。


 少し、ここ最近の色々もあって天瀬川さんの鉄壁の保守性にも隙があるように思える。

 もしかして僕が心から望めば唇を交わすぐらいはできるのではないか。

 大分、彼女自らハードルは下げてくれている気がする。


 目を合わせると、こちらの心が分かるわけはない以上肯定も否定もないのだろうが、彼女は目元を少し綻ばせた。

 行けるかもしれない。

 日頃の退廃的行為とはまた別の、告白した時のような緊張と胸の高鳴りが襲ってくる。


「あのさ、もし」


 と言いかけたところだった。

 ぐぅ、と天瀬川さんのお腹がなった。

 それで別段照れるというわけでもなく、あらあらとばかりに自分の薄いお腹を見下ろして手でさすった。


「ところで岩波君。お腹が空いたのでそろそろ体を拭いてトマト料理を食べに行きましょう」


 天瀬川さんは時々とてもムードを読まない。



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