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天瀬川さんと謎のマスクド天瀬川

 今日は商店に用があるということで、ショッピングデートとなった。

 僕は待ち合わせ場所にした商店街入口の時計前で手を擦り合わせる。


 時間は正午二分前、もうそろそろ来るはずだ。

 天瀬川さんは待ち合わせに早めに来ることも遅れることもない。別に一秒単位までとは言わないが、正確な到着を重んじる子だ。

 僕もそう早め早めに待つタイプでもないので、相性はいい。

 震えているのは待ち続けたからでなく、単に今日がとても寒いというだけだ。


「お待たせしました」


 おっと、来たようだ。

 見ると白いマスクを着けた天瀬川さんがもこもこしたコートとマフラーのフル装備で立っていた。スカートから伸びた脚には厚手のタイツ。撫でたい。

 と、欲望はとりあえず置いておくとして。


「風邪でも引いたの? 天瀬川さん」

「私は天瀬川月子ではありません。マスクド天瀬川です」


 また何を言い出すのかなこの子は。

 バッグから覗く本は『昭和の特撮ヒーロー百選』。これのせいか。

 たまに読んでる本に影響されることがあるのが彼女の可愛いとこだ。


「それで、マスクド天瀬川さんは風邪でも引いたの?」

「いいえ」


 ふるふると首を振ると、マスクド天瀬川さんは段々の立体構造になっているマスクの口の部分を指差した。


「私、寒いと唇が割れて出血してしまうタイプなので。保湿と喉の保護のために少し」


 ああなるほど。

 あれって物食べる時痛いし歯に血がついててびっくりするし、いいことないよなぁ。

 めっきり冷え込んできたし、そういう供えも大事だ。

 唇の皮治りかけがピリッと剥がれるとまたひどいし。


「岩波君も着けますか? 私予備いくつか持ってますので」

「僕はいいかな、マスクってどうも苦手だし」

「でも口づけをするとき唇が荒れていたらがっかりしますよ」

「していいの!?」


 なんと、いつの間に僕はそんなにも彼女の鉄壁を貫くほどの好感を得ていたのか。

 足を超褒めたのが良かったんだろうか。

 しかし、マスクド天瀬川さんは目をスッと細めて逸らした。


「いえ、それは当然駄目なので岩波君が他の女性と口づけする場合を想定しました」

「天瀬川さんはたまに結構ひどいこと言うよね」


 まぁ、うっかり口を滑らせて照れ隠しなのだと思っておこう。

 愛想を尽かして浮気推奨ではないだろう。ないよね? 足褒めたし。


 マスクド天瀬川さんは耳にかけた耳紐を取ると、マスクを口元から取り外した。

 保湿効果でつやつやした唇が寒空の下とても美しい。

 でもあれ、これから外歩くのに外したら着けてきた意味がないような。

 疑問に思っていると、天瀬川さんは無表情に口元を指差した。


「何を隠そう、マスクド天瀬川の正体は天瀬川月子です」

「あーうん、驚いた驚いた」


 続いてたんだそれ。


 特に反応は期待してなかったのか、雑な返事にも気にした様子はなく、天瀬川さんはバッグからもう一枚マスクを取り出して片方を僕に渡した。

 ついさっきまで、彼女が着けていた方を、である。


「……えっ」

「最近の岩波君との肉体関係を顧みて思ったのですが」


 天瀬川さんは新しいマスクを着けながら目を閉じて言った。

 間接キスとか足のマッサージとかをそういう言い方するのはやめてほしい。


「私は岩波君の唾液とか爪先で臭い思いをしたのに、岩波君はそういった被害を被っていないのは大変不公平だと思います」

「全部天瀬川さんの提案と強行だよね」

「なので」


 無視された。

 渡してきたマスクを指して、天瀬川さんは目だけで少し微笑んだ。


「私の呼気の染み付いたマスクとか着けて嫌がるといいです」


 確かに着けっぱなしにしたマスクって呼吸や咳や喋った時の飛沫で否応無しに唾が付いてたまに臭いけど。咳してるわけじゃないからそうでもないのかな。

 まぁむしろ望むところではある。着けましょう。


 少し湿り気を感じる不織布を思い切って口に被せ、紐を耳にかける。

 直に口と鼻が密着する。さすがに少し吐息の香りというか、唾液臭が微かにする。

 併せてミントの香りも。女の子の呼吸器はミントの力をも宿すのか。

 なんてことはもちろんなく、単に息爽やか系のキャンディか何かを舐めてたのだろう。

 結構自分から過激なことを要求してくる割に羞恥はあるのが天瀬川さんだ。

 いじらしい。


「いかがですか?」


 面白がるような不安がるような期待するような、なんとも言い難い感じの無表情で天瀬川さんは尋ねてきた。

 そりゃあ少しは唾臭さはあるけど天瀬川さんが予め舐めてたミントキャンディのおかげでいい香りがするよ、という気持ちを込めて、僕はこう言った。


「いい匂いだよ」


 おや、天瀬川さんが黙り込んだ。

 まぁちょっと意地悪で言った自覚はあるけど。

 

「……なんて、ミントの香りがするからですよね。変な言い方しないでください」

「いや、天瀬川さんのお口の香りが」


 今度こそ天瀬川さんが黙り込んだ。

 先のチョコレートストッキングもそうだけど、いい匂いと微かに天瀬川さん自身の匂いが混じるとこう、かなり直接的に本能に訴える感じになって危ない。

 そこらへんを刺激してスリルを楽しんでる感があるから何とも言えないけど、天瀬川さんは少し考えて欲しい。


 それはそれとしてされたことは楽しむ。

 これみよがしに深呼吸とかすると天瀬川さんは憮然としてそっぽを向いた。


「岩波君側には初めての間接キスです。そのあたりに感想はないですか」


 ……言われてみればそうだ。あまりにも舌弄りとか足弄りとかで麻痺してたのでそういう比較的ノーマルな感動を忘れてた。いけないいけない。

 確かに、ずっと天瀬川さんの唇がこのマスクの裏に触れ続けてたことになる。

 うん、これは結構嬉しい。


「これでお相子になるのかな。ちょっと照れるかも」

「……それだけですか」


 とても不満そうだ。

 二度目の間接キスで思いきり照れまくった天瀬川さん的には、もっと羞恥に悶えて欲しかったのかもしれない。

 でもさすがに色々とした後だと、嬉しくても刺激としては柔らかくなるというか。


 と思っていると、唇にごわごわした感触がした。


 前に回り込んだ天瀬川さんが少し背伸びして、マスクの口元同士を触れさせたのだ。

 マスクとマスクを隔ててほとんど感触なんか分からないけど、少なくとも触れた。

 ……つまり、マスク越しだけどこれはキス、と言っていいのでは。


「勘違いしないでください。唇同士は間接的にも触れてませんし布二枚越しです。何もやましいことはしていません」


 天瀬川さんとしては苦肉の反撃だったのか、ちょっと早口だ。

 ……うん、僕も今のは、結構効いた。

 遅れて顔が熱くなるのを感じ、目を逸らす。

 それに満足したのか、天瀬川さんは得意げな目付きで僕の裾を引っ張った。


「……行きますよ、今日は茶葉とか乾物とか色々買うんですから」

「また女子高生にしては随分渋いチョイスだね」

「嗜好品にはお金を掛けたい質なので」


 しかもおつかいじゃなくて自分用なのか。渋い。


「……でも、よく考えたらさ」

「どうしました?」


 うん、いや、さっきまでの話と天瀬川さん理論を合わせると。


「天瀬川さんの唇とはマスクの裏で間接キスして、口の香りまで感じて、顔を密着させて。ここまで同時に条件重なればもう直接キスって言ってもいいんじゃないかな?」

「……」


 僕の説を検証しているのか、天瀬川さんは長考モードに入った。

 少し体が震えているのは寒いからだろうか。

 やがて考え終わると、キッと鋭く睨まれた。怖い。可愛い。


「……なし、なしです。天瀬川診断によるとただの衣服越しの接触です。判定外です」

「判定外ってそれってアウトなのかなセーフなのかな」

「どっちでもいいです、今のは本当に何でもないです」

 

 ぐいぐいと裾を引っ張って天瀬川さんは商店街の奥へと向かう。

 仕方なく、それに引きずられて僕も後を追った。


 天瀬川さんは時々とても墓穴を掘る。



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