天瀬川さんと間接ディープキス
「岩波君、そろそろ私達も肉体的な接触をしてもいい頃ではないでしょうか」
休日、仲睦まじく会話するわけでもなく僕の部屋で読書をしていた天瀬川さんは、ふと顔を上げてそんなことを言った。
読んでいる本は『直撃! 世界の違法建築』。本の内容に影響を受けてどうという発言ではないようだった。
天瀬川月子さん。
歳は十七、華の女子高校生。容姿は整っているが性格は金属質。
僕、岩波林太郎の恋人にあたる女の子だ。
なので提案自体におかしいところはない。健康な高校生のカップルであれば、ついに起こるべきイベントが起きたと思うのが正常な反応だ。
ただ、幸か不幸か、天瀬川さんはあまりノーマルな女の子ではない。
「ええと」
読書に耽るふりをしながらずっと天瀬川さんを見ていた僕は、下半身的に喜ぶより前に戸惑いを感じた。
現実感がないからというより、何の罠だろうというのが正直な感想だ。
「付き合うにあたって、婚前交渉は避けるタイプだからそれだけは絶対に守れって、当の天瀬川さんが言っていなかったかな」
「言いましたね。多少自意識過剰かとも思いましたが、男女の仲ですので」
「どころか、キスすらする気はないので悪しからずとも言っていなかったかな」
「岩波君には大変気の毒なことですが、ポリシーですので」
一緒にいるだけでいいから、なんて前振りでアタックした僕にも原因はあるが、それがなくともこの子に性欲的なものがあるかは甚だ疑問だ。
それ故、先の発言の意図がまるで見えない。
「それで、肉体的接触をしたいというのはそういう意味だと思ってもいいの?」
「今しがたご自分で確認したばかりでしょう。自室に二人きりだからといって何を不埒なことを考えているんですか。警察を呼びますよ」
天瀬川さんは時々頭がおかしいのではないかと思うことがある。
本を閉じた彼女はスッと淀みない動きで椅子から立ち上がると、座布団に座る僕の前に立って見下ろしてきた。
身長は155cmと、女の子としては平均的なものだが、姿勢の良さと脚の長さから時々威圧感を感じるほど大きく見えることがある。
今が、まさにそうだ。
腕組みをして小首を傾げると、長い黒髪が水のようにさらりと流れる。
平素、学校では三つ編みにしているが、二人の時間には下ろしているのは、多少なり彼氏として意識してくれているのだろうと自負している。
そんな彼女が特に怒るでも笑うでもなく淡々と告げてきた。
「付き合って二ヶ月が経ちます。その間、手を握ることすらしてこない岩波君の我慢強さと意気地の無さはよく分かりました」
「一度握ろうとしたらひどく機嫌を損ねたよね」
「失礼を。大変重い生理中で、隙あらば誰でも殴ってしまいそうでしたので」
そういえば手を握るまでもなくあの日は最初から最後まで、元からつり目気味の彼女の目がさらにつり上がってた気がする。
間の悪い男だなと己の察しの悪さを反省すると同時、生理とかもろに言ってくる彼女には割と圧倒される。
「驚くほど正直だね天瀬川さんは」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ」
どうも話が逸れてしまう。僕のヘタレさについての話だったはずである。
本を置き、気分的になんとなく正座して天瀬川さんを見上げる。
仰ぎ見ると胸が殊更に大きく見えてちょっと嬉しい。
「何もいきなり全裸で体を重ねようと言っているのではありませんが」
「じゃあ服を着たまま?」
「破廉恥な冗談で話を遮らないでください」
「すいません」
さすがに悪ノリが過ぎた。
しかしあの天瀬川さんの唇から全裸なんて単語が飛び出そうとは。
録音しておけば良かったと強く後悔する。
「付き合って二ヶ月、口約束と精神論だけでなく、何かしら肉体的にもお互いの関係を繋ぎ止める行為を欲したりはしないのですか?」
「性欲なら年相応にすごくあるけど、天瀬川さん嫌がるでしょ」
「先も申し上げたとおり、交際契約の範囲外ですから」
どうしろというのか。
元々こういう子だと分かってはいたが、今日は特に話の終着点が見えない。
「ですから譲歩といいますか、私の方から許容できる範囲の肉体的接触を提案しようと思った次第です。ご理解頂けましたか?」
「天瀬川さんは涼しい顔していつも僕の理解を超えていくよね」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ」
無視し、天瀬川さんは一つ頷いてこう言った。
「まず間接キスというものをしてみましょう」
いきなり直球が来た。
間接キス。
同じコップで飲み物を飲んだり、同じものを回し食べたり、衛生的な観点はさておき初心な恋心にはズンと来る素敵な行為だ。
とはいえ、平素意識しない範囲では友人知人や家族とも事実上実行してることがあったり、直接体が触れることもないため、ハードルはとても低い。
なるほど、天瀬川さんも初心なところがある。
「じゃあお茶のお替わりでも注ごうか? それで……」
「不要です」
即座に断じて、天瀬川さんは僕の目の前に左手を差し出した。
白く綺麗な掌を上向きに。指は細く、爪は綺麗に整えられている。
「ええっと、僕は手を乗せればいいのかな?」
「犬ですかあなたは。どれでもいいので好きな指をくわえて舐めてください」
「そっちの方が犬っぽくはないかな。っていやそうでなく!」
「お嫌ですか?」
心なしか悲しそうな声で天瀬川さんが問う。
嫌かどうかで言えば、嫌なわけはない。
性欲を置いておいても恋人に触れたいという思いは持ち合わせている。が、いきなり手指を舐めろというのは少し、背徳を感じる。
というか、間接キスで何故指舐めなのか。
指関節へのキスという駄洒落でもないだろう。
「怒ったりしない?」
「提案したのは私です、それで怒ったら変人ではないですか」
変人でもなければ、手も握ったことないのにいきなり指を舐めろとは言わない。
そんな真っ当な指摘をしても僕の得にはならないので黙っておくけど。
しかし、据え膳と言うのだろうかこれ。
天瀬川さんがよく分からないけど何かしらの使命感と衝動で要求しているのだ、あまり待たせるのも男として申し訳ない。
指を舐めたいか? イエス、舐めたい。
結論はすぐに出た。
「だったらその……いただきます」
「齧って食しては駄目ですよ」
「食べないよ」
くわえた。
根本にワンポイント薄いほくろのある薬指を、歯を立てないように慎重に。
すぐ目の前に天瀬川さんの手相が見え、口の中に小さな薬指がある。
不思議な感覚だ。ただ、少しドキドキはする。
「……天瀬川診断によると薬指を選ぶのは変態性の高い男性なのですが」
そう言われてもなぁ。
「いえ、いいです。そのまま舌で触れて、唾液を塗布してください」
医師か何かの指示のように冷静に、天瀬川さんは言う。
ただ、舌先が触れると僅かに、触れてなければ分からない程度にピクッとした。
それが反射的なものなのか、少し照れたのか。
後者であれば僕は少し嬉しい。
指先、第一関節、第二関節、裏に回って爪。
舌を慎重に動かす。粘ついた唾液が指に移り、そして舌が離れる瞬間にピチャリと小さく水音がする。
唇は根本のほくろを挟むようにし、敏感な感覚で天瀬川さんの指のしなやかさを実感させて頂く。
「美味しいですか?」
頷くと歯が当たりそうだったので、代わりに親指を立ててみせた。
天瀬川さんの反応は淡々としていたが苛烈だった。
「嘘を言いなさい。人間の皮膚表面は人間の味覚にとって美味なるものではないはずです。お世辞でなければ幻想です。目を覚ましてください」
ああ、僕の彼女は概ねこんな子だよなぁ。
苦笑し、最後に大きく舐めてから口を離す。
気をつけたつもりだったが、彼女の指先から僕の口にかけて細く長い糸が引き、雫となってズボンの膝に垂れた。
天瀬川さんの左薬指を濡らす唾液が光を反射してぬらりと光る。
言われるがままに大分盛大に汚してしまった。
その指を彼女は無表情に眺めていたが、やがて確かめるように左親指で薬指に触れた。親指先にも唾液が付着し、また小さな糸が引いた。
そのまま、天瀬川さんは指を自分の顔に近づけ、止める間もなく鼻を寄せ、くんと嗅いだ。眉の間に小さく皺が寄る。
「唾臭いです」
「唾だからね」
そう言いながらも、天瀬川さんは嗅いだまま親指で薬指を弄り回している。
動くたびに小さく粘ついた音がし、親指の先もぬめりを帯びていく。
「粘性は高いですし、臭いですし、食事に必要とは言えよくもこんなに不快感を伴う体液を分泌するものだと、人類の神秘に驚きます。……あと、愛情に酔ってこんなものを交換する世の男女関係にも」
キスすら嫌がるのは貞操観念よりそのあたりが原因だろうか。
天瀬川さんの唇、絶対柔らかいだろうなってのは、それはもう付き合う前から思い続けているんだけど。
そんなことを考えて見上げていると、天瀬川さんは目を細め、口を小さく開いた。言葉は発しない。代わりに、真っ赤な舌先がちらりと覗き、細めたその先端に透明な珠が浮かび、次第に大きく膨らんでいく。
やがて珠は自らの重みに負け、ねっとりと太い線となって宙へと滑り落ちる。
落ちる先は顔に近づけていた左手、薬指だ。
天瀬川さんの涎が自身の手指に絡みつき、既に汚染していた僕の唾液の上を覆っていく。それを、再び親指でかき混ぜ始めた。
「見えますか? 岩波君。あなたに汚されて臭くなった指がもっと汚くなりました。女の子の唾液だからって甘かったり爽やかだったりはしませんよ。あなたのと相乗してすごく不快な匂いです」
にちゃ、にちゃ、と部屋に響くほどの音がする。雫が垂れないように、指を曲げ、手を返し、天瀬川さんは器用に混ざり合う唾液を弄ぶ。
――なんだか、背筋が粟立つ。
恐怖なんかじゃなく、目の前で彼女が行っている不潔で、背徳的で、でもどこか子供の泥遊びのような無邪気さすら感じる行為がとても卑猥なものに感じたからだ。
「ディープキスとかいう行為はこういうものですよ。お互いの不衛生なぬるぬるした体液を口の中でぐちゃぐちゃに混ぜ合って、挙句飲ませる」
言葉の割に、言い方には嫌悪感は感じない。
淡々と、思う事実を述べているだけというような感じがする。
それでいて、指の動きは次第に大胆に、緩急がついて大きく強くなっていく。まるでその、親指と薬指が愛し合っているかのようにすら見える。
それを見ているだけの僕だけども、指の動きに合わせて心臓の鼓動が加速し、呼吸も早まってくる。
興奮していた。
僕と自身の体液で自らの指を辱める彼女の姿に。
「正気とは思えません。考えるだけでさすがの私もゾッとします。だから」
彼女はゆっくりと顔を歪ませた。
今日初めて見る、笑顔の形に。
「だからこうして、間接キスで我慢してください」
既に掌や手の甲まで滴り汚していた唾液を、彼女は舌を伸ばして舐め取った。
見せつけるように、ゆっくりした動きで。
赤い舌を何度も手指に這わせ、愛撫するように。
何度も何度も粘ついた音を聞かせて。
やがてさっき僕がしたように薬指をくわえ込むと、天瀬川さんは膝を折って僕の前に屈み込んだ。
近くで視線を合わせ、気圧される僕の前で、二人分の唾液を口の中で混ぜ、
ごくり、と大きく喉を鳴らした。
僕の喉も釣られるように鳴った。
……気がつくと笑顔は既に消え、どこか危うい気配も失せ、そこにいるのはつまらなそうな目をしたいつもの天瀬川さんだった。
指を抜くと、彼女は再び立ち上がってポケットから出したハンカチでよく指を拭った。匂いは落ちなかったみたいで、少し嗅いでは嫌そうにしている。
嗅がなきゃいいのにとは思うけど、絆創膏剥がした時とか臭いのに嗅いじゃう気持ちはなんとなく分かる。
「……さて、いかがでしたか岩波君。私達初めて口づけをしてしまいましたが」
「あれをキスって言っていいものかどうか困ってるんだけど」
「コップ経由で唇が触れただけで間接キスなんですから、あれがキスでない道理などありません。もっと理性的にものを考えてください」
いやぁ、あんなどう考えても頭のおかしいことをした人間の言葉とは思えない。
体は許さない、キスは許さない、それで何をどう筋道立てればあんな行為に行き着くのか彼氏的にはまったく分からなかった。
僕の彼女は難しい。
ただ、その、敢えてどうかと言われれば。
「……うん、ちょっと見てて、興奮は、した」
「なら良かったです。今後は、こういう方向性で行きましょう」
にこりともせずに彼女はそう言った。
……なんだかとんでもないことを口走ってる気がする。
彼女に触れさせてくれるのは大変に嬉しいけど、方向性が分からない。
まったく、分からない。
今後何をされるのか戦々恐々とする僕の前で、天瀬川さんは小首を傾げた。
「ちなみに、当初はこの後逆のパターンでの間接キスも執り行う計画も考えてはいたのですが」
逆というと、天瀬川さんが僕の指を舐め回して、彼女の唾にまみれた指を僕が嗅いだり舐めたりする、ということだろうか。
……それは色々理性が危ういけど、したいという気持ちは否定できない。
というか、したい。すごくしたい。
が、彼女はゆるゆると首を横に振った。
「少なくとも今日は駄目です。許可しません」
「なんでさ。僕は天瀬川さんの唾が多少臭くても多分幻滅とかはしないけど」
興奮……まで行くかはちょっと保証しないけど。そこまで変態ではないと思う。
というかしたら先の天瀬川診断がピタリと正解になってしまう。それは嫌だ。
しかし天瀬川さんはより激しく、ぶんぶんというほどの勢いで首を振った。
そのまま俯き、ほんの僅かに拗ねたような感情を滲ませ、こう言った。
「私、朝に納豆、お昼に餃子を食べてきましたので」
天瀬川さんは時々とてもかわいい。