9、ベベちゃん
9、ベベちゃん
あの子は不思議な子だった。金子みすゞの詩でたとえるなら「不思議」が似合うとビンテージくんは言っていた。飾り気はなくて、自分の世界を持っていて、独特な話し方をする。オノマトペの達人だった。
ベベちゃんは歌が大好きで、「どんな色がすき?」や「ミックスジュース」や、スキャットを歌って踊った。一人遊びも得意で、メグミ班以外でも一人寂しくしている子に提供していた。
けれどやっぱり一人よりも複数で遊ぶ方がベベちゃんは楽しくて、そんな時は電車ごっこが役に立った。一人でいる子をどんどん連結させて校内を巡ったり、メグミ先生駅やコトブキ先生駅を作って用がある所まで連れていったり。
いつもにこにこしていて、落ち着きがなくて、面白かったこと嬉しかったことを共感してほしくて、よく誰かの腕を引っ張った。かくれんぼも大好きだから、たまに授業が始まる直前に教壇の下に潜んだり、カーテンにくるまったり。わざと無視すれば大ヒントとばかりに顔をひょいっと見せるのだ。
それからベベちゃんにはいくつかこだわりがあった。例えば筆記用具は鉛筆派で、一センチくらいになるまで使い続けた。文字は丁寧に書く。メーカーによって漢字の「とめ・はね・はらい」が異なるのだけれど、彼女は教科書書体を忠実にしていた。
合いの手が必要な歌を歌う時は相手を選び、合いの手を入れてくれるまで続きを歌わない。相手が意固地になって合わせてくれなかったら歌は完結しない。二度とその歌は歌えないのだ。
一度ワガヤくんがいじわるをして「どんな色がすき?」なのか答えなかった。本当にベベちゃんは彼が降参するまで五日間歌わなかった。結局、全校生徒と教師に好きな色を尋ね終わると満足してこの歌を歌わなくなったのだけれど。
ひょっとしたら、生前は軽度の知的障害を持っていたのかもしれない。いや単に変わり者なだけだったかもしれない。線引きは難しいし、そこは深く考えない。
何かに夢中になって教室に来なかったりすることもあったものの、本当に毎日楽しそうに勉強して遊んでいたから、周囲は明るくなった。いたずらされても笑顔に免じて許してしまうのだ。
授業で作った詩が面白かった。例えばこれだ。
『キャベツ』
どうしてキャベツはむいてもキャベツ
玉ねぎもずっと玉ねぎ
はくさいも
『スイカ』
スイカはしまうまのなかま
トラはかみの毛はえてない ※1
先生もちょっとはえてない
お月さまもかみの毛はえてない ※2
※1 ライオンと比較している。トラもしま模様だからスイカの仲間という意味。
※2 ぼくの十円禿げが月みたいで、そういえば月も丸坊主だったという意味。
後日、ドーワくんに無理言って全員分の挿絵を描いてもらったのだけれど、その中でもこれらが気に入っている。クレヨンで描かれた絵本の世界のような詩だ。
ベベちゃんの夢だけ他と質が違っていた。優しいお母さんがいて、頼もしいお父さんがいて、姉思いの楽しい弟がいる。ドライブ中に歌を歌ったり、ハイキングに出かけたり。釣りに昆虫採集。バードウォッチングに雪合戦。
うらやましいほどに光にあふれて、あたたかくて、笑顔の絶えないとても幸せそうな夢だった。あの子にだって嫌な思い出はあったはずだ。けれどそれ以上にこの思い出がキラキラした宝物で、活発の源だった。
閻魔帳にはこの世の未練度をグラフにした資料がついていて、ベベちゃんの未練度はゼロに近かった。死んだことを悲観せず、まさしく無垢であり、MGSに通わせずに天に昇らせても構わないほどで、児童幽霊にしては珍しいパターンらしかった。教師の間では、もしあの子が保護されていなかったら座敷童にでもなっていたのではないかと噂されていた。
それくらい、ベベちゃんは他の子とは雰囲気が違っていた。あの子が笑うと、時々後光が差した。ぽっとタンポポが咲くような。あるいはフキノトウがぽっと雪の下から顔をのぞかせるような。心が洗われてストレスがまたたく間に消えるのだ。ようし、今夜もがんばるぞっていう気にさせてくれるのだ。
コトブキ先生はそんなもの見えないと言い張ったから、単なる疲れたぼくの幻覚だったのだろうと、初めは思っていた。でも本当はコトブキ先生も後光を見ていた。
コトブキ先生はベベちゃんが苦手だった。あの子は彼女のことが大好きだったから、よく電車ごっこを称してべったりとついて回っていた。コトブキ先生はうっとうしそうにしていて、ぼくはあの子に向かって二度と近づかないよう注意しているのを目撃した。
そんなきついことを言わなくてもいいじゃないかとぼくが言うと、コトブキ先生は反論した。「授業をするだけが教師の仕事じゃないでしょう? 前にも言いましたよね? 私は母親でも保母さんでもないんです。子どもの面倒をずっと見る気はありません」「ベベちゃんの方は幸せのままでも、残された家族は違うんです。娘が死んでずっと悲しんでるでしょう。それなのにこの子はのん気でへらへらしてて、見ていてイライラするんです」とか言われて、ぼくはカチンときた。
口論になった。結果、先生同士がケンカして子どもたちを不安がらせるなと、他の教師に注意を受けた。しばらく、ベベちゃんは口を尖らせて「ぷんぷん! ぷんぷんぷん!」とぼくの真似をして、ぜい肉をつんつんしたりつまんだり。ぼくがイライラするのをやめるまで続けるつもりだと思って反省した。可愛らしかったとはいえ、ベベちゃんがずっと怒っているのは忍びなかった。
コトブキ先生はというと、MGSに通わせる必要がないなら早くベベちゃんを成仏させてやってほしいと、本職員に頼んでいた。けれどベベちゃんに卒業の意志がはっきりとしていたから却下された。
コトブキ先生に娘がいたことを教えてくれたのは情報通の幽霊たちからだ。松方さん以外に耳を傾けてくれる相手がいることが嬉しくて、彼らはぼくが尋ねなくても、これが知りたいだろうとばかりにあれこれしゃべりに来た。
コトブキ先生には一人娘がいた。シングルマザーだったのだけれど、娘は交通事故で失った。事故原因は相手のブレーキとアクセルの踏み間違いだったという。運転席にいたコトブキ先生は重傷。助手席だった娘は重体で、二日後に亡くなった。だから彼女は毎月とある道路に花束と缶ジュースを供えていた。
もし娘が生きていたなら六年生。しかも雰囲気がベベちゃんにそっくり。だからあの子をみるたびに、思い出してしまっていたのだ。あの子が見せてくれる家族の幸せな夢も辛かったろう。見せつけられているようで腹立つと初めは言っていた。せっかく幽霊児童が見えるようになったのに、愛娘と対面できないもどかしさは本人にしかわからない。
「娘が小学生だったら、MGSに通えたのかもなあ。ぴかぴかのランドセルしょって」
「じゃあ名前はランドセルちゃんだな」
「ランドセルのランちゃんだ」
情報通の幽霊たちはみんな同情していた。誰しもが家族を残して幽霊になっているからだった。ランドセルを買った帰りの悲劇で、特に孫がいた老人幽霊は自分のことのように嘆いた。
きっと、ベベちゃんもコトブキ先生の心の傷に気づいていたのだと思う。幽霊児童たちは生きている人々の夢に接触することができる。コトブキ先生は夢にうなされるほど気が病んでいて、ベベちゃんは強い思いに触れて、一人立ち上がったのだ。
ぼくに子どもができると知ってからは、ベベちゃんもよく家に遊びに来た。「がらがらー。がらがらー」と、芽衣子の腹に向かっておもちゃのガラガラの真似をした。ベベちゃんがいる間は芽衣子の体調も良く、つわりもなかった。これなら臨月まで働けそうだと言われてぼくが慌てたくらいだ。
ベベちゃんは子どもが大好きだった。休日の昼間に、たまに公園で遊ぶ子どもたちに交じって駆け回っていたのを見かけた。ベビーカーでエンエンと泣く赤ちゃんがいれば、駆頬に鼻をくっつけてくすぐる仕草をした。そうすれば赤ちゃんは泣きやんだ。赤ちゃんはベベちゃんのことが見えるようだった。
転んで泣く子どもがいれば、「ちちんぷいぷい。痛い痛いの飛んでけえ」と呪文を唱えた。そうすれば傷口から周りには見えない蒸気が出てきて、子どもは泣きやんだ。蒸気の正体は痛みだろうか。
ベベちゃんの魔法は人を笑顔にした。唯一、コトブキ先生は晴れない顔をし続けたものだから、あの子はねばっていたのだろう。隙を突くようにして、ちちんぷいぷいと呪文を唱えていた。いつしかコトブキ先生の心の傷が癒えて、笑顔になることを信じて。
ドッジボール大会の後日、全校集会が行われた。最近、暴走族妖怪が街に出没して、地獄警察がネズミ捕り(交通速度の取り締まりのこと)をやっているとのことだった。
生き物が絶滅したり新種が現れたりするように、妖怪もまた時代を追うごとに変化している。近年急増しているらしいのが通称FT車(phantom transmission car)だ。ひき逃げ事故などを理由に、廃車に強い念が宿って生まれた妖怪で、夜間走り回ってはあの世への道連れを探す。この念というのは被害者だけではなく、遺族友人のものも含まれていて、恨みや悲しみ、時に疾走に対する爽快感さえもエネルギーとなるというのだ。
FT車は生身の人間のみならず、幽霊すらもはねて魂を傷つける。最悪、車体にひっついて一体化してしまう。だから、摘発されるまでは登下校には細心の注意を払うようにとのことだった。
以降、コトブキ先生はFT車の件でより緊張しているように見えた。それから、ベベちゃんとワガヤくんが内緒話をしている場を二度三度見かけた。ブタメダルが信頼の証らしく、ベベちゃんは身ぶり手ぶりで何かを訴えて、それをワガヤくんは理解しようとしていた。
ピュアちゃんはのけ者にされたと思って不満顔が続いた。ワガヤくんを追い払って、ベベちゃんとの行動を強めた。ワガヤくんはそのイライラをぼくにぶつけた。
ワガヤくんはワガヤくんでコトブキ先生を気にかけていた。それは彼の死も車と関連していたからだと思う。
「ベベちゃんはな、コトブキ先生の子どものこともすっげえ気にしてる。どこに行っちゃったんだろうって」
寺の幽霊たちも首を横に振った。GBEに聞いても管轄外でわからなかったろうし、知っていたとしても、赤の他人に故人情報を漏らさないだろう。既にコトブキ先生も問いただそうとしていたかもしれない。無事、その子が天国にいるのか確かめるすべはなかった。あの世の人口はこの世よりも多いのだ。
ベベちゃんはずっともやもやしていたに違いない。授業中そわそわしている頻度が増え、ノートもプリントも手つかず状態だった。
そして、ベベちゃんは思った。もしも、コトブキ先生の子が保護されずにまだ街をさまよっていて、FT車にひかれでもしたら。彼女は毎日、朝から夕方まで街を捜索した。ワガヤくんも付き合っていた。そうじゃないと、ベベちゃんは満足できずに一晩中街をうろつきかねなかったからだった。車は怖いやつだとワガヤくんは言っていた。
子どもは見つからなくて、ワガヤくんの予感はとうとう的中。FT車が路上で騒いでいた男女四人組を跳ね飛ばし逃走したとわかった次の日、ベベちゃんは学校に来なかった。
真っ先に慌てたのがコトブキ先生だ。授業は自習にして、ぼくと彼女は本職員に事情を説明してから探しに向かった。
閻魔帳は様々な機能を持つ秘密道具だ。今更ながらいくつか教えよう。まず、悪霊をガードすることができる。ぼくら臨時教師は期間限定として顕著に霊感が強まっていて、それで幽霊が寄りつきやすくなっている。それで憑かれたり、呪われたりすることを防ぐのだ。子どもたちの夢や金縛りに関しては、ご愛嬌のレベルだけれど。
次に遅刻を防いでくれる。普段、閻魔帳はリュックに入れていたのだけれど、寝過ごしそうな時に頭上に出現して落ちてきた。いや、あれはもしかしたらワガヤくんかベベちゃんだったのかもしれない。
そして、欠席した幽霊児童の行方がわかる。時間内に登校しないと出席簿に「欠」が表示され、「人」の部分が歩いているように動いてその子の方向を示してくれるのだ。近くにいれば「欠」は前のめりに走った。
ぼくとコトブキ先生も走った。ビルの集まりの向こうから、うおんうおん、と響いてきた。ずんずん、とドラムかベースらしき音も混ざっていた。暴走族なのかFT車なのか、考えている間に謎のうなりはどんどん近づいてきて、それに合わせて点滅するネオンサインと文字化けを起こした電光掲示板がかなり不気味だった。
ベベちゃんが先にぼくらを発見した。大通りの反対側にいたベベちゃんは手を振りながら車道を飛び出した。同時にタイヤのホイールが紫の炎をまとう頭蓋骨となっている大型FTトラックが、ヘビーメタルを大音量で流し、イエエエエイと奇声を上げながら現れた。
あっという間の出来事だった。コトブキ先生が叫びながらベベちゃんに駆け寄って、なんと抱きかかえながら転がったのだ。ベベちゃんが抱きついてくれたおかげだったのか、コトブキ先生自身の力だったのかわからない。とにかく間一髪だった。これは奇跡だった。
コトブキ先生はものすごい形相のまま息絶え絶えで、泣いていた。
「馬鹿! 車道を飛び出したら危ないでしょ! 死んだらどうするの!」
と、ベベちゃんをずっと抱きしめていた。人目があったけれど、ぼくが壁になった。ベベちゃんはぼくの方を見てニコリと笑った。きっともう大丈夫だよ、という意味だ。コトブキ先生は擦り傷を負っていて、ベベちゃんはいつもの呪文を唱えた。蒸気がコトブキ先生の全身から高々と昇った。
ぼくらは勝手に街に行ったことを咎めなかった。代わりにワガヤくんがプンプン怒った。ピュアちゃんがプリプリ怒った。ベベちゃんは肩を揺らしてウへヘと笑っていた。
FT車が通った所は焦げていて、怪しい煙が火の粉と一緒に昇っていた。レーウンさんによれば翌朝までには専門の清掃業者がきれいに消したとのこと。肝心のFT車は、数日後にとある高速道路で捕獲されたらしい。
ベベちゃんを助けた時、コトブキ先生は彼女の生前の記憶を見た。ベベちゃんは、低学年を引きつれて通学している時に、歩道に突っ込んできた車に当たって死んでしまった。彼女はそばにいた弟と女の子を覆いかぶさるようにして抱きしめて、その子たちは助かった。
みっちゃん、みっちゃん、起きて、と泣きながら呼んでいる大勢の声が、自分と重なる思いだったとコトブキ先生は語った。
「ベベちゃんも悲しかったと思います。死んでしまったとこを見せて。でもあの子はネガティブなことが嫌いだから、二人を助けられたことを喜ぶことにしたんだと思います。だって、死は乗り越えなきゃいけないものだもの」
事件を機に、娘の行方を調査することをレーウンさんが約束してくださったけれど、コトブキ先生は丁重に断った。こんな事態になってしまった負い目もあっただろう。
「あの子は天国に行ったんです。ええ、そうです。そういうことにしておきます。その方がいいんです。家事を毎日手伝ってくれてお利口さんだったから、天国でも神様のお手伝いをしているんですよ、きっと」
以来、コトブキ先生はベベちゃんを受け入れ、他の子たちに対しても母性あふれる笑みを向けた。吹っ切れた訳ではなく、物事をごちゃ混ぜにしないで別々に捉えるようにしたのだと彼女は言った。
コトブキ先生はずっと不眠症で悩まされて薬を処方してもらっていることを明かした。それで時々、いっぺんに飲もうとしたことも。そんな時に限って、ピンポンダッシュをされたり、近所の大人しいラブラドールレトリバーが吠えたりして気が散ったという。それらは臨時教師になる前の出来事。
もしかしたら、JSYに行った日まで娘はそばにいてくれたのかもしれない。バスに乗った時に通路側に座っていたから、もしかしたら窓側に座っていたのかもしれない。それでもう大丈夫だと思って、JSYに残ったのかもしれない。コトブキ先生はそう思うことにしたのだ。
ますますコトブキ先生は人気者になって、女子たちは「コトブキ先生の新しい恋人候補を探し隊」を結成し、昼間に候補を見つけては彼女に報告した。ありがた迷惑のようにぼくは思えたけれど、当の本人は楽しんでいる様子だった。親戚にお見合いを強く勧められて、踏ん切りがつかずにいた頃だったらしい。
ベベちゃんは顧問役で、コトブキ先生に彼はどうかと尋ねられるたびに腕を組んでうなって、ブーブー言って首を横に振った。幽霊の前では生きている人々の情報はだだ漏れ。どんなに外面が良くても、幽霊は死角を見ているのだ。
ベベちゃんの笑顔はますます輝かしくなって、昼間にはどこからともなく歌声が聞こえた。雨の日には雨の歌をカエルと歌って、どんよりとした気持ちを晴れやかにさせた。雨が上がって、雲間から光が差し込んだ時には、大きな虹が出て喜ぶ彼女の姿を見つけることができた。
彼女はもう天使そのものだった。あの子のおかげでぼくの心が最後まで潰れなかったと言っても過言ではない。虹に向かって駆けていく後ろ姿に翼を見た時、ぼくはやがて訪れる別れを意識した。
公園で泣いていた赤ちゃんや、怪我した子どもたちはベベちゃんのことを忘れてしまうだろうけれど、あの子が与えた愛は心の奥に刻まれて、いつまでも受け継がれていく。ベベちゃんが助けた弟と女の子だって、突然の死への悲しみは次第に薄れて、あの子の笑顔と笑い声だけが残る。きっとあの子は保護されるまで、涙が止まる魔法をかけ続けていたはずだから。
長女はよく歌を歌った。弟が泣いているとそうやってあやしてくれた。好きな曲はぼくが聞かせていた「どんな色がすき?」だ。歌を聞くたびにぼくはベベちゃんのことを思い出す。
雨上がりに光が差した時には、きっとあの子が天から降りてきて、立派な虹が校舎から見えた時には、あの子が七色の魔法の呪文を唱えたのだと思ってしまう。あの子にとって、この世界そのものが絵本なのだ。