8、ピュアちゃん
8、ピュアちゃん
ピュアちゃん。彼女のことを多く語るのは難しい。
はっきりしているのは、あの子はぼくを嫌っていたということ。ぼくだけじゃなく、世の大人の男性全員を恐れ、憎んでいた。それだけピュアちゃんの心は深く傷ついていた。
だからあの子はぼくを極力避けていたし、汚物を見るような目でにらんでいたし、休み時間は同性であるコトブキ先生やベベちゃんのそばにいた。
月に三日から一週間、ピュアちゃんは保健室で下腹部を抑えてうずくまっていた。幽霊もこの世の感覚を引きずって痛みを感じてしまうことがあって、生前痛と呼ばれている。寺の酔っ払い幽霊とかもそういうカテゴリーに入るだろう。この場合は生前酔いだ。魂に刻まれるほどのアルコール量という訳だ。
幽霊用の鎮痛薬があって、ピュアちゃんはよく服用していた。それでも授業の障りになるほど、重い痛みだったようだ。まさかこれが悪霊の卵を生み出すきっかけになっていたとは。
いや、十分に予測できたはずだった。辛いことを理解するだけで、ぼくは女の子への配慮というのが足りていなかった。他の班の男子に生理かとからかわれ、ピュアちゃんは泣きながら教室の椅子を投げつけた。女子たちは「セクハラだ、差別だ」と騒ぎ、「差別だ言う奴が差別だ」と反論されても数の多さで黙らせた。ピュアちゃんはとっくにいなくなっていた。
ぼくは何度も子どもたちの夢を見てきたけれど、ピュアちゃんの夢が一番きつかった。幽霊児童の夢は、至近距離にその子がいなければ見ることはないものだったのだけれど、ピュアちゃんは特別だった。ぼくに強い不快感を示したなら、ベッドで金縛りにあわせ、強制的に夢の恐るべき世界へ落とした。
どんな内容だったかはここに連ねる気にはなれない。喉の圧迫に苦しみ、限界に達したら目覚めることができた。
幽霊は自分の感情、苦しみを共有させようとする。愛に飢えて、愛をもらえないなら不幸を分け与え、他人が苦しむ様子を見ることで気を紛らわせようとする。それでは問題解決にはならないから、永遠に苦痛にとらわれたまま。発狂ものだ。魂が歪んでしまう。
きっとあの子はこのまま本当に死んでしまえと思っていたのかもしれない。八頭身のハンサムだったら多少は手加減してくれただろうか。生理的に受け付けられないというのはなかなか精神的ダメージが大きい。
芽衣子がこんなぼくを受け入れてくれたというのも奇跡だ。俗に言うブス専というかデブ専というか。本人はぽっちゃり専だと言い張っているが、いっそのことブタ専と言ってくれた方が清々しい気がする。
その日は喉と下腹部の不快感と痛みを我慢しながら学校へ行った。毛もたくさん抜けて、芽衣子に心配された。
臨時教師たちの疲労は目に見えていた。くまはファンデーションでごまかせても、やつれ具合はごまかせない。栄養ドリンクは職員室に常備してみんなで飲む。
カウンセラーも待機だ。自分は選ばれたのだ、この子を救ってやれるのは自分だけだ、理解してやれるのは自分だけだ、それなのに空回りで歯がゆくて。教育を怠って大きな問題を起こしたら地獄行きかもしれない。強い責任感と正義感、憐れみは時に心の毒となる。誰がうつ病になってもおかしくなかった。
このままじゃいけないという思いとは裏腹に、ぼくはピュアちゃんを避けるようになっていた。彼女のことはコトブキ先生に任せようとしていた。少しでも心に余裕を持ちたい、せっかく六人に対して二人も先生がいるのだから分担したって構わないさ、女同士でしか明かせない悩みだってあるさ、と逃げ腰の考えだった。
コトブキ先生もあの子と深く関わりを持とうとはしなかった。本意ではないのはよくわかったし、ぼく自身の愚かさもよくわかった。副担任に嫌われるのはかなりの痛手だったから、気が済むまで殴っていいとまで言った。
一発ビンタを食らった。単なるライバルチームのマネージャーだったとは今でも考えられない、学生時代の芽衣子のドロップキックよりはマシだったけど、二日間ガーゼを貼って虫歯が悪化したと周りに嘘をついた。
けれど芽衣子の目は騙されなかった。自称直感だけで生きてきた女なだけあって、勘が超人並みに鋭い。女を泣かせただろうとこっぴどく叱られた。身長が縮んだ気分だ。
コトブキ先生は人気者だ。その分、トラウマの夢を受ける量も多かった。ずっとパリコレのモデルさながらに気丈に振る舞っていたのは、本当はものすごく大変なことだった。
ぼくがピュアちゃんを避けていることに気づいたのが、いつも周りを気にして観察していたパジ山くんだった。ぼくは挙手してない子にも当てる。だけどピュアちゃんだけはそうしなかったことを彼は見抜いた。
そのことを非難する訳でもなく、ずばり「ピュアちゃんのこと怖いん?」と的を射た。ぼくは夢を見るのが怖いだけで彼女のことが怖い訳じゃないと言った。これは真実だ。悪いのは断じて彼女ではない。
ピュアちゃんが怖い、怖くてかわいそうだとパジ山くんは明かした。
「なんとかしてやれへんかなあ。うまく言われへんのやけど、おにいちゃんがな、もうおなかいっぱいやねんて」
「何がお腹一杯なんだい?」
「わからへん。ぼくもおなか重たて気持ち悪いねん」
パジ山くんの腹はパンパンになっていた。彼は幽霊用の胃薬をもらって、吐き気を抑えていた。後になって発覚したことだけれど、「おにいちゃん」は月に三日から一週間にかけて学校に現れていた悪霊の卵「きたない」を食べちゃっていたのだ。しかも松方さんが察知するより一足早く。
この「きたない」は白いドロドロで異臭を放つやつだ。怖がりで、ピュアちゃんが心配な弟のためだったとはいえ、事件を未然に防げなかった原因の一つになってしまった。
犬や猫、鳥の変死が立て続けに起きていると報道され、学校でも問題視された。レーウンさん直々に注意を呼びかけていた。というのも、動物の変死は幽霊の強い怨念によるもので、犯人は未成年だという地獄警察の鑑識結果だったからだ。
犯人はピュアちゃんじゃないかって、子どもたちの間では噂になっていたけど、先生たちを前にすると知らんぷりした。
ビンテージくんだけは、理由が何であれ生き物を殺すなんて悪いことだって、本当にピュアちゃんがやったのか本人に問いただそうとした。けれど女子たちが彼女をかくまって、あんたは鬼だ、最低だと一斉に彼を咎めた。
「こういう時は感情的になっちゃだめさ。まずは証拠を見つけて、それから論理的に詰めて、相手の嘘を崩していかなきゃ」
エイゴくんはへこんでいたビンテージくんを励ましていた。ビンテージくんだって、とっとと犯人を捕まえてもらいたくてピュアちゃんを問い詰めた訳じゃない。もしもピュアちゃんが悪霊になったら大変だし、クラスメイトとして心配していたからだ。
その後、全校生徒の緊急身体検査が行われたものの、悪霊の陽性反応は出なかった。時期によって結果は変わることがあるといって、日を改めて再検査が行なわれることとなった。これも陰性だった。女子たちはビンテージくんを責めたけれど、もしも三度目の正直でやっていたなら、結果は変わっていただろう。結局その前に事件は起こってしまったのだけれど。
とても寒い日、ピュアちゃんの辛そうな様子には女子たちも同情して、中には同じ腹痛を訴えるまでに至った。けれどピュアちゃんの自分が感じている痛みはそんなもんじゃないとばかりに、保健室を独占した。中で「きたない」が充満し、あふれた。
その頃に、動物の霊が上空で集合して、三体のガシャドクロになった。人口が爆発的に増加したことも一因である、二十世紀に出現するようになった巨大な妖怪で、人間の骸骨の姿の方がよく知られていると思う。
ぼくらの前に現れたのは犬、猫、鳥のガシャドクロだった。霊感が強い人なら見ることができたかもしれないけれど、あいにくの真夜中でこの時は降雪で視界が悪かった。
ガシャドクロは建物の上をまたいで、自分たちを殺した犯人を嗅ぎ分けるようにして学校の方にやってきた。
松方さんが張っていた結界によって、ガシャドクロの侵入はまず防がれた。けれどMGS本職員が常備してあったGS(ゴーストバスターズの略かな?)社製の幽霊吸引機を用意している間に、校内にいた「きたない」が騒ぎに紛れて外に出て、結界を突き破ってガシャドクロに覆いかぶさってしまった。恨みが強烈だった「きたない」に負けて、白いドロドロで肉付けされたガシャドクロはドクロじゃなくなった。
全幽霊児童は避難を始めた。ピュアちゃんはまだ保健室にいた。三体の「きたない」はそっちに向かって、ぼくとコトブキ先生は急いだ。猫型の「きたない」が窓を器用に開けてピュアちゃんを手招きしていた。
ぼくは最大のミスを犯した。こんな時こそコトブキ先生の出番だったのに、ぼくが先に保健室に入って彼女に接近した。
途端に亡くなる直前の記憶が頭に入り込んできた。ピュアちゃんは絶叫した。
「助けてお母さん! お母さん!」
ぼくとコトブキ先生は金縛りにあって、呼吸困難になった。机やベッドはがたがたと小刻みにはねて、棚は倒れた。下敷きになろうとした時、「おにいちゃん」が支えになってくれた。ベベちゃんも避難せずにやってきてコトブキ先生に寄り添った。
金縛りも呼吸困難もなくなったけれど、ピュアちゃんはぼくから逃げるようにして、猫型の「きたない」の手にしがみつき、外に飛び出した。犬型の方は既に松方さんがやっつけたと「おにいちゃん」が報告してくれた。
猫型も幽霊吸引機によって白いドロドロがはがれてガシャドクロに戻り、松方さんが封印してくれた。全ての吸引機は白いドロドロで満タンになってしまった。
ピュアちゃんは鳥型の方に乗り移っていた。鳥型の「きたない」は足の長いペリカンみたいな形をしていて、ピュアちゃんを宙に放り出して飲み込んでしまった。
大股で歩き、街中に潜んでいた悪霊の卵をついばんで、どんどんいびつな怪獣に成長した。体中に顔がついていて、苦しそうな表情でうなっていた。松方さんの技術でも食い止めるのは難しく、専門家が派遣されるのを待つしかない状況に陥った。
そんな時、「おにいちゃん」が勝手に吸引機の封を開けた。
「おにいちゃんは強い子なんやから、みんなを守らなアカンねん」と、なんと白いドロドロを飲み始めた。そんなことをしたらまた悪霊になりかけてしまう。慌てて止めようにもコトブキ先生が切羽詰まった表情で周囲を押し退けた。
「女の子が大変なんだから! 邪魔しないでッ!」
ぼくに限ってはまたビンタだ。彼女は残りの吸引機の封を開け、「おにいちゃん」に差し出した。ベベちゃんが「ひゅーどろどろ、ひゅーどろどろ」と唱える中で全部飲み干してしまった。
彼は悪霊にはならずに、むくむくと「きたない」の二分の一くらいの大きさにまでなって空を飛んだ。ハングライダーのような三角形をかたどって、ジェット噴射した。「きたない」の前に立ちはだかると、特撮の怪獣映画みたいな構図になった。
ぼくらも「おにいちゃん」を追いかけて、見晴らしがマシなマンションの屋上に出た。
「ピュアちゃん助けて、先生にほめてもらうねん」
屋根の積雪をかき集めて雪玉を作り、怪獣に投げつけた。炎の雪玉だ。
「助けて! おかあさーん! 怖いよーッ!」
雪合戦とはいかず、怪獣「きたない」が体中から紫のおどろおどろしい怨念光線を吐いた。「おにいちゃん」は光線すら飲み込んで、ぼこんぼこんぶくりと腹を膨らませるともたつき、光線を吐き返した。「きたない」は後ろへ押されて滑って転んだ。電線に接触して、中のガシャドクロのシルエットがアニメみたいに見え隠れした。
「おうちに帰りたいよーッ! こころ、おうちに帰るーッ!」
立ち上がると、そっちにあるかもわからない方向へ逃げようとしたから、「おにいちゃん」は尻尾を掴んで飛びかかった。
「おうちはもうどこにもあらへんよ。もうそこの子ちゃうねんから」
「やだもんやだーッ!」
「駄々こねたらアカン」
じたばたする「きたない」を押さえつけながら、「おにいちゃん」はかぶりついた。白い肉をかみちぎり、引きちぎった。ピュアちゃんをもぎ取ることに成功するとそっとコトブキ先生に預けた。コトブキ先生は優しく彼女の頭をなでる素振りをしていた。
ピュアちゃんを失った「きたない」は、骨をむき出しながらウオンウオンと悶え泣いて、「おにいちゃん」の頭に噛みついた。
「先生! ほめて! ほめて! 先生!」
ぼくに向かって、破れた頭部から赤黒い液体を噴出させながら「おにいちゃん」はせがんだ。
「ああ、おにいちゃんは偉い! よくやった! だから早く逃げるんだ!」
残りのメグミ班もやってきた。あと十分したら捕霊員が駆けつけてくれるらしかったけど、「おにいちゃん」の大ピンチだ。松方さんは老体のこともあって疲れ切っていたし、ぼくができることといったら、あの子を応援することだけだった。あと十分だけ持ちこたえてくれさえすればよかった。
光線を浴びた「おにいちゃん」のブランケットが燃えた。それでも「おにいちゃん」は必死にしがみついていた。燃え盛るブランケットで「きたない」を包み込み、押さえつけた。
もう駄目だと思った。「おにいちゃん」は風船のように膨らんで破裂してしまった。「きたない」とは泡のように小さく分散し、ガシャドクロも粉砕した。
途方に暮れていると、パジ山くんがブランケットをパラシュート代わりにして降りてきた。本当に一時はどうなるかと思った。
路上に出て彼を抱きしめようとしたら拒否された。理由はテストでいい点数を取ったらぎゅうっとしてもらう予定だからだった。
数名の捕霊員が来て、「きたない」も動物の霊も回収された。「きたない」の方は燃える悪霊の日に地獄へ提出されるらしかった。
一連の出来事は翌朝のニュースになることはなかった。レーウンさんが手を回してくださったおかげで、ピュアちゃんが退学になることもなかった。
ずっと落ち込んでいるピュアちゃんを元気づけるために、エイゴくんが提案したのは妖精を作る実験の授業。再びエイゴ先生の登場だ。助手はコトブキ先生で、ぼくは生徒役に回った。二人とも白衣がよく似合っていた。
エイゴ先生曰く、精霊はどこにでもいる。八百万の神という概念があるように、八百万の精がある。自然界の精神、心と魂がパワーとなって、強ければ強いほど形作られ視覚化されるのだ。妖怪もまたしかり。
彼は黒板に自然と精神エネルギーの動きを図にして書いた。このエネルギーは人の目には見えないものだから、普通は神様も妖精も目に見えない。でも時々、ラジオのチューニングのように、姿や声を偶然見聞きすることだってあるのだ。
授業で作り出すのは花の妖精の姿だった。コトブキ先生が用意したのはエンゼルランプだ。下向きに咲く鐘形の赤い花で、天使の可愛らしいランプのような小さい花だ。
理科室の実験台に鉢植えを置いて、実験が始まった。残念ながら何をどんな手順で行なわれたか曖昧になっている。確か子どもたちが霊的エネルギーを使って、妖精のイメージをエンゼルランプに送ってはいたはず。霊的エネルギーが一時的に妖精の姿をかたどらせてくれると。
エンゼルランプは六人のイメージに反応して光がともり、六匹の小さな妖精が出てきて飛び回った。一匹がピュアちゃんの頬にキスをして、光の粒になって消えた。他の四匹も笑い声を残しながら消えた。ベベちゃんの作りだした妖精はだけはいつまでも消えずにいた。実験は大成功だ。
ピュアちゃんに笑顔が戻って、六人の絆が深まった。あの子の生前痛は完治されなかったけれど、体内の「きたない」を分解させる薬を服用して症状を和らげていた。妖精がそばにいることも、気を紛らわせる要因になっていたようだ。妖精と仲良くなって、エンゼルランプの世話をしていた。保健室に行く回数もだいぶ減った。
その後も、ぼくが声をかけてもにらむだけ。悪夢は減ったけれど一度もぼくに笑顔を向けなかったし、最後まで心を開いてはくれなかった。だからちょっぴり心残りになっている。