エピローグ
「イチローくんが主役ぅ?」
それまで黙ってグラスを磨いていたオーナーが、そこで初めて素っ頓狂な声をあげた。
「そりゃまた驚きだね。でも、いつから映画の撮影なんて始めてたんだい? イチローくん、ちょっと前に顔見せたときなんか、カウンターに突っ伏して人生の袋小路にどっぷり嵌まり込んでたのに」
「あ、それって先輩がお子さんを中央公園にエスコートする話が出た日のことですよね?」
「おお、よく知ってるね」
感心したようなオーナーの呟きに、ポールはビール片手に得意げに人差し指を立てる。
「撮影始めたのはちょうどその頃からです。うちの部長ってちょっと特殊なんです。いきなりミーティングで『リアリティが足りないわ!』なんて言い出して、それまで撮った分全部破棄しちゃって……。で、どうするのか聞いたら、『役者が台本読んじゃってるからリアリティが出ないのよ。だったら逆に、何も知らない一般人を撮影に巻き込むしかないわ!!』って」
「それでイチローくんに白羽の矢が立ったわけかい。ハハ、こりゃ傑作だ!」
大笑いするオーナーの声は、店内に広がることなくもっと大きな騒音に掻き消される。
店内にはポールだけでなく、映画研究会の面々も押し寄せて大騒ぎしていた。部長のMs.キャンベル――ハルカ・キャンベル女史など、どこから持ち込んだのかマイマイクでカラオケまで始めている始末。伴奏に付き合わされるナナシも、どこか疲れた様子でマニピュレータを鍵盤に走らせている。
まがりなりにもオーセンティックバーを気取る店がこんなんでいいのかという話ではあるが、オーナーはあまり細かいことに頓着しない性質だった。というわけで、本日は満員御礼の貸切状態。ポールの所属する映画研究会の面々による打ち上げで、『SHOT BAR Rainy Day』は大盛況なのだ。
「いやー、でも苦労したんですよ。ホント。先輩に事情を説明するわけにもいかないですし。どうシナリオに入ってもらおうか頭捻ってたら、そこでまた部長が『夢で妖精からお告げがあったわ!』とかわけのわかんないこと言い出して――」
そこでポールは一息つき、苦笑して肩を竦めた。
「結局、風精翼艇の網棚にハリボテ爆弾のセット置き忘れたふりってのを、気づいてもらえるまで延々繰り返しですよ。同じセット何個も用意して、回収班と設置班とに分かれてぐるぐる。他に尾行班と撮影班ってのもありまして、結局人手が足りなくなったんで、最後には部員の友人知人にまでセットの回収頼んだりとか、凄いことになってました」
ポールが話を締め括ると、彼のお喋りに聞き入っていたオーナーは、腹の底から搾り出すような深い感嘆の吐息を漏らした。そして「何とも壮大な仕掛けだったんだねえ」としみじみ頷いていたのだが、ふと何かに気づいたのか眉根を潜めた。
「しかし……よく面倒なことにならなかったねえ。三日前っていったら、確かニュース速報が流れた頃じゃないか。ほら、爆弾魔のいたずら予告」
オーナーの発言にポールの目が面白そうに輝いた。「そうなんですよ!」と勢い込んで話に食いついてくる。
「あれは僕もびびっちゃいましたよ。喫茶店で先輩がバッグに手つけるの待ってたら、ちょうどそのニュースが流れて。しかも仕掛けられた爆弾ってのが、驚くほど目の前のハリボテにそっくりじゃないですか! いやー偶然ってあるもんですねー」
あっはっはと笑うふたりを尻目に、オーナーの愛娘アマネ嬢が、カウンターに突っ伏している生ける屍をつんつんしている。
動き出す気配は全然見えない。
「映画のタイトルはもう決まってるのかい?」
注文で使い切ったクラッシュアイスを補充すべく、オーナーが氷塊に布を当てながら訊ねる。ポールは頷いて、
「その日暮らしのプータローが、たまたま置き引きしたバッグのなかに爆弾が入ってててんやわんやって話なので、『盗人クエスト!』ってタイトルになりそうです」
途端に吹き出して大爆笑するオーナー。アマネ嬢が不思議そうな顔になって声をあげる。
「父上ー、イチローぴくぴくするけど起きないのじゃ」
「きっと辛いことがあったんだよ……そっとしておいてあげなさい」
オーナーは涙を拭いて娘の頭を撫でた。それからカウンターに突っ伏しているイチローを眺めて、にやにやしながら言った。
「映画が完成したら、うちにも映像データ回しておくれよ。イチローくんの迫真の演技ってやつは、是非この目で確かめておかないとねぇ」