第六話
柔らかさと弾力を兼ね備えたベッドに転がれば、高く奥行きのある天井が大写しになる。
周囲に目を向ければ、額縁に飾られた抽象画やら超高級家具の数々。広げた両手ほどもある大型スクリーン、ミニバーを開ければ各種ボトル・リキュール類が揃い踏み。窓の向こうには、プライムシティのオフィスビル群が夜景に煌々と明かりを灯しているのが見てとれる。
贅沢を極め尽くした感のある一室。
この部屋に居付くハメになってから、もう三日が経つ。
ドアベルを鳴らしてもフロントへ電話しても、現れるのはベルボーイ代わりの筋肉ダルマ。
各種ビデオグラフやコミック、小説の類は充実しており、暇を潰すには事欠かなかったが、外出は許されず窓を開けてテラスに出ることもできない。携帯端末はもちろん、ミストカードまで取り上げられている。
つまるところ、イチローは現在進行形で拉致監禁されているのだった。室内をうろつき回る自由だけは与えられているため、正確には軟禁だが。……何の慰めにもならない。
路地裏で出遭うなり、いきなり管理局の手帳を持ち出してきた謎の女と筋肉ダルマ二名。
あれよあれよという間に怪しげな高級乗用車に担ぎ込まれ、ここまで一本道。分岐もない。
人生がバッドエンドに向けて転がり始めている確信にうちひしがれながら、イチローはあのロクでもない『事情説明』の一幕を思い返してみた……。
「さて、どこから話したものかしらねー」
「何も話さずに俺を家に帰してくれ……」
自分が泣きそうになっているのを自覚しながら、イチローは懇願した。
雑誌でしか見たことがない黒塗りの高級車は、窓一面がびっしりと濃色のスモークガラスになっている。外からは人が乗っているのかどうかさえ判別できない。そんな道交法違反すれすれの車に、両脇を筋肉ダルマに固められたまま後部座席に詰め込まれた。早い話、この場で刺されでもしたら、イチローはそのまま人生を終えることとなる。
この状況では唯一の同士であるポールと引き離されたのも、いっそうイチローの不安を煽った。いまの彼は、言わば磔にされて銃殺を待つ死刑囚のようなものだ。
Ms.キャンベルと名乗った謎の女は、助手席からイチローに振り返ると、頬に人差し指を当ててこう言った。
「でもそれじゃ貴方、明日の今頃は死体になって新聞の三面記事飾っちゃうわよ?」
「……はあ!?」
ぎょっとするイチローを面白そうに眺めるMs.キャンベル。
「そうねえ、まずは管理局の一員として、貴方には感謝しなきゃいけないかしら。貴方があの爆弾を解除してくれたおかげで、何千もの市民の命が助かったんだものね」
「やっぱりあれ、いたずらじゃなかったのか」
鑑識での簡易鑑定で怪しい成分が出てこなかったため、ひとまず仮釈放されたイチローだが、彼自身そんな馬鹿なわけがあるかと内心で困惑していた。なにせイチローは、試験管型ケミカルライトの液体に生じたあの不気味な瞳を、実際に見ているのだ。
「そ。あ、鑑定結果については心配しなくてもいいわよ。こっちで手回してるから。ともあれ、あの爆弾の件でこっちも大騒ぎでねー。実は市外組織から『市民の命と引き換えに、獄中の同志たちを解放せよ』って要求が秘密裏に届いてたの。もちろんテロ含みの要求なんてこっちも呑めないから、できる限り交渉で時間を引き延ばして爆弾探して回ってたんだけど、モノは見つからずにタイムアップ寸前! ってところを貴方が横から掻っ攫ってったわけ」
キャンベル女史の発言を反芻し、それでも納得いかずに聞き返すイチロー。
「……それって、色々あったけど、結局すべて問題解決して俺もお役御免って話じゃ……」
「ノンノン。連中の執念深さを知らないわね、イチローくん。あいつら、自分たちの面子が潰されたら祈祷師雇って七代先まで祟ってくるような奴らよ? それに今回のテロの立役者こと爆弾魔氏にしてみたら、これからの仕事にも直接影響するし」
「……どういうことだ?」
「わからない? 彼ね、市外組織のエージェントって肩書きとは別に、フリーランスの殺し屋もやってるの。というよりこっちが本職ね。手がけた仕事がただの一般市民に潰されたとなったら、商売あがったりでしょ? そこにタイミングよく殺しの依頼が舞い込んで来たら、受けない理由がないわ」
軽い調子で告げられる空恐ろしい事実に、イチローは顔を引き攣らせながらかぶりを振った。いったいなんだって俺がこんな目に遭わねばならんのだ……そう嘆いているうちに、ふとある事実に気がついた。
「殺しの依頼ってどういうことだ? なんでその市外組織の連中とやら、俺が爆弾解除したこと知ってるんだよ」
「それは簡単。情報をリークして殺しが依頼されるように仕向けたの、わたしたちだから」
「……」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
「はああぁぁぁぁああ――――――――――――――――――――ッ?!」
イチローの絶叫が車内で爆発する。
「ちょ、待っ、あんたら何考えてんだァァァァ!!」
「何って……爆弾魔の捕縛かしら? 二年前のテロ事件以降、まったく姿を現さなかった彼がやっと尻尾を出したのよ。しかも貴方を始末しに相手のほうから顔出してくれる……こんなチャンス、逃すわけにはいかないわ」
「お、おおお、俺の人権とか生存権とかそういうのは!?」
「ないわよ。超法規的措置だもの」
「市民を守るのがあんたらの仕事じゃねえのかよッ?!」
「そうよ。だから多くの方舟市民を守るため、貴方に捕縛作戦に協力してもらうってわけ」
「ふざけんなぁぁああぁぁッ!!」
あっさりと言い切られ、ついにイチローの理性が弾け飛んだ。
「こんな馬鹿な話があるか! 降ろせ、俺は家に帰るぅぅぅ!!」
「あーもう、男のくせにウダウダうっさいわね! 乗りかかった船なんだから黙って最後まで乗ってきなさいよ!!」
「嫌だ、誰か助けてくれえええええッ!!」
――なんなんだよ、これ?
イチローは両手に顔を埋めて悲嘆に暮れた。
まるでパルプコミックか娯楽映画のように現実味が湧かない。天秤に乗っているのは自分の命だというのに。およそ理解不能の馬鹿げた展開が続いたせいか、どこか感覚が麻痺してしまって考えがまとまらない。漠然とした不安だけが重く圧しかかる。
謎の女はイチローを指してこう言った。「あんたは撒き餌なのよ!」と。
撒き餌。
魚や小鳥などを寄せ集めるために、餌をまくこと。また、その餌。寄せ餌。
そして当たり前の話だが――撒かれた餌は相手に食べられることで役目を終える。
もちろんそうはならないように、あの管理局の連中もしっかりバックアップするとは言っている。おかげでこんな場所に連れ込まれるハメに陥ったわけだが、民間人を餌にして犯罪者を捕まえようなんて時点で奴らもまともじゃない。あいつらにとって、俺の命は査定の係数ぐらいの認識でしかないのだ。
ダメだ、このまま状況に流されてたら、どう転んでも俺に未来はねえ。
埋めた手のひらの隙間から、イチローは自分を外界と隔てている部屋の扉を見据えた。
――となるとまずはこの部屋からの脱出だが……そもそもカードキーがないと扉のノブが回らねえ。金具でも叩きつければ無理やり抉じ開けられんこともないんだろうが、筋肉ダルマがすっ飛んできて即終了。軟禁が監禁に変わったら元も子もない。窓を何かで叩き割って脱出するのも同じく。つまるところ脱出がバレたらその時点でアウトってことか。ちくしょう、上等じゃねえか。
威勢よく啖呵を切ってはみるものの、見込みのありそうな脱出計画など欠片も浮かばない。イチローは顔面からベッドに突っ伏し……と、その瞬間ホテルに鳴り響いた轟音と震動によって、すぐさま跳ね起きるハメになった。
「なんだあ……ッ!?」
続いて銃声。
幾重にも重ねられた小銃、軽機関銃の掃射音。そしてそれらすべてを掻き消すような爆音。客と思しき者たちの悲鳴がイチローの耳にこだまする。
イチローはゾッとして窓へと駆け寄りカーテンを開けた。しかしそこから見える街並みには何の変化も見られない。警戒音を伴ったサイレンの赤い光に家屋が照らされることも、市外路が渋滞し始める様子も、編隊を組んだパトロール車両が空を飛んで急行してくる様子もない。
イチローはきびすを返してフロントへとコール。しかしそれまではツーコール以内に取られていた電話の向こうに反応がない。
「ちきしょう、いったいどうなってやがる!?」
頭を掻き毟ってイチローは吠える。
微かな逡巡を経て扉を蹴破る決意を固めたイチローだったが、ヤクザキックをぶちかまそうとしたその瞬間、ロックが外れて外から筋肉ダルマが雪崩れ込んできた。
「うおおっ!?」
「何をしている?」
バランスを崩して転倒したところにサングラス越しの不可解そうな視線を寄越されて、思わず顔が赤くなる。
「な、何でもねえよ! それよりこりゃあいったい何の騒ぎだ!」
「無論、爆弾魔が襲撃してきたのだ。君にはこれから安全な場所に避難してもらう」
筋肉ダルマの言葉が脳に染み込むまで数秒。イチローは顔面を喜色に染めて叫んだ。
「――ってことは、俺はもうこれでお役御免ってことか!?」
「そういうことだ。ここからは我々の出番だ」
「お、おっさん……!」
思いがけぬ相手に優しい言葉を受けてほろりときてしまうイチロー。筋肉ダルマは懐から携帯端末を取り出して交信を始めた。
「こちらG。ボーイを確保した。これより地点Kに護送を開始する……なに、不測の事態?」
筋肉ダルマの眉が寄って、ただでさえ強面な顔がまるで怒っているように歪む。イチローも聞こえてきた嫌な響きに「げっ」と小さく声をあげてしまう。筋肉ダルマは交信を終了すると、イチローに端的に事情を説明した。
「交戦中の爆弾魔を見失ったらしい」
「おいおい」
やっとこのふざけた話からおさらばできると思ったらすぐこれだ。まだ一悶着ありそうな予感がひしひしして、イチローは我知らず額を押さえた。
黄金色の照明が格調高さを演出する廊下。天井は高く、横幅も大人がふたり並んで手を広げられるぐらい広い。真紅の絨毯が敷かれたその道を小走りに移動しながら、イチローは立ち並ぶ部屋の扉に目を向ける。
「他の奴らは避難させなくていいのか?」
「爆弾魔はプロだ。依頼にない殺しはしない。そして今回の襲撃に備え、あらかじめこの階は我々が占有している。つまり避難すべきは君だけだ」
先を行く筋肉ダルマについていきながら、ふと湧いて出てきた次の疑問を口にした。
「で、俺たちゃどこに向かってるんだ? エレベータならさっきそっちに見かけたんだが」
「爆弾魔の襲撃直後から、エレベータへの電力供給は一時的にストップしている。あの曲がり角の先にある非常口から出る」
「なるほどね」
万が一手違いがあって、爆弾魔に使われるような状況に陥ってはまずいという判断だったのだろう。その用心がさっそく生きたわけだ。とはいえ――
「これでその非常口から爆弾魔が出てきたらギャグだな」
そんな台詞をイチローが呟いたのと同時、突如として曲がり角の向こうに破砕音が生じた。水面に立っているかのように床が大揺れし、鉄の扉が破片となって廊下の先にばら撒かれる。熱風がイチローたちのほうにまで吹きつけてくる。
筋肉ダルマが首の筋肉を軋ませながらイチローへと振り向いた。
「……迂闊だぞ、ボーイ」
「すいませんでしたぁぁああぁぁああああッ!!」
しっかりと聞き取っていたらしい筋肉ダルマの苦言に泣きながら謝る。しかし犯してしまった過ちは消えない。廊下の向こうから、防弾チョッキとフルフェイスヘルメットで身を固めた爆弾魔が姿を現した!
爆弾魔は廊下の端にいるイチローたちを認識すると、おもむろにホルダーから拳銃を取り出して構えた。とっさに筋肉ダルマに突き飛ばされて、角に隠れる形で転がされるイチロー。その一瞬後、脚を撃ち抜かれて床に倒れる筋肉ダルマがイチローの目に大写しになる。
「お、おっさんッ!」
「逃げろボーイ!」
「ンなこと言ったってあんたは!?」
「奴の狙いは君だ! いいから行け……『殺される』ぞッ!!」
筋肉ダルマのその一言で、この期に及んでもどこかぼんやりしていたイチローの危機意識が完全に覚醒した。束の間芽生えた仲間意識も何もかもを放り出して身を翻したその背中に、筋肉ダルマの決死の叫び声と拳銃のパンパンッという乾いた音が突き刺さる。
逃げる、逃げる、逃げる。
曲がり角にぶつかる度に右へ、左へ。もはや何を考える余裕もなく、イチローはただ『足を止めたら殺される』という恐怖に突き動かされていた。転げつまろびつ、迷宮のようなホテルの廊下を走り続ける。そうして息が切れて動けなくなるまで駆け続け、ついにイチローは床に膝をついた。
何もできずに壁際にもたれかかっていると、走っている間どこかへ消えていた思念の塵が一気に襲いかかってきた。
撃ちやがった! 本当に撃ちやがった!
洒落になんねえ、マジだ、マジで殺しにきやがった!
そもそもここフロアのどこだよ!? おっさんは!? 爆弾魔は!?
取り留めのない思いが頭のなかを堂々巡り。これがまずい流れだとはイチローも本能的に感じているが、いったんパニックに陥った精神を正常に戻すのは容易なことではない。それでも念仏のように落ちつけと唱え続けて多少は効果があったのか、イチローは激しく上下する胸に手を当てて、絡まった思考の糸をほぐしにかかった。
まずは状況整理だ。ひとつずつ行こう。ここはどこだ? 答え、わからない。非常口からはかなり離れただろうが、すぐにフロアの地図を見つけて確認しないとまずい。次、おっさんは無事か否か?
イチローの胸中が重苦しい沈黙で満たされた。爆弾魔が狙うのは標的の命だけと筋肉ダルマは言っていたが、その後に続いた銃声をイチローははっきりと耳にしている。苦々しさを堪えてイチローは結論した。……答え、どっちだろうと俺にはどうすることもできない。俺にできるのは、どうにか爆弾魔を出し抜いてこのホテルから逃げ出すことだけだ。
行動方針が決まった。まずは地図で現在地の確認だ。
イチローは呼吸を整えつつフロアの探索を開始した。爆弾魔に出くわすのだけはNG。慎重に足音を潜めて壁伝いに歩みを進めていく。廊下の角にきたら、いつでも逃げ出せる体勢を整えて次の通路の様子を窺う。ひとつ覗くごとに寿命が一年縮むようなそれを何回か繰り返すと、筋肉ダルマに先導されていくときに見かけたエレベータホールに出た。
「あった!」
イチローは喜びのあまり小声で快哉をあげた。停止しているエレベータ二台に挟まれるように、フロア内の地図が掲示されていた。どうやら現在地は、非常口から五ブロックほど離れた地点であるらしい。
フロア内の地理を頭に叩き込み、脱出プランを練り始めたイチローだったが、そこである不可解な事実に気がついた。
――爆弾魔の奴、なんで追ってこないんだ?
息を止めて耳を澄ましてみるが、廊下を歩く足音は聞こえてこない。あれほどの重装備に身を固めた人間が無音で移動するなど、イチローには到底ありえないことのように思えた。
爆弾魔が動かない理由とは? イチローは懸命に条件を繋ぎ合わせ、そこから手繰り寄せられる解を追う。そうして導き出された結論は、爆弾魔は『追ってこない』のではなく『追ってこれない』のだというものだった。
爆弾魔の勝利条件は、このフロアからイチローを逃がさずに始末すること。エレベータが停止している以上、イチローの脱出する先は非常口ただひとつ。そしてフロアの全貌を把握できていない以上、追い駆けっこを始めれば捕まえる前に非常口へ滑り込まれる公算が高いと見たのだろう。
つまり爆弾魔は非常口付近で張っていて、イチローがのこのこ姿を現すのを待伏せしていると予想される。
この待ちを掻い潜るにはどうすればいいか? 状況を打開する権利はイチローが握っているが、それを手持ちの材料では生かせない。必然、お互いに手番を投げ合うことになるのだが、この膠着状態はいったいどちらに利するのか――
その答えはすぐに出た。突然、フロアのどこかで爆発音が生じたのだ。
一瞬焦りを覚えたイチローだったが、すぐに慌てる必要はどこにもないと気づいた。待機が最善策だった爆弾魔が動いたということは、とりもなおさず彼にとって状況が悪化したことを意味する。いっこうに出てこないイチローに痺れを切らしたのか、それとも管理局からの増援が来たのか。どのみちイチローにとって好機であることに変わりはない。
イチローは続く爆発音に耳を澄ませた。断続的に鳴り響くそれは、非常口はもちろん彼のいる場所からもどんどん遠ざかっていく。
……動くなら、いまだ!
イチローは意を決して非常口へと向かい始めた。なるべく足音を立てぬよう、素早く、無駄なく、通路を小走りで駆けていく。そして最後の曲がり角、最初に爆弾魔と遭遇した廊下のひとつ手前まで来たとき、野太くも切迫した叫び声が聞こえてきた。
「来るなボーイ! 罠だ!!」
筋肉ダルマが生きていたことよりも、彼が発した不吉な単語のほうにより強い衝撃を受けてイチローの背筋は泡立った。悪寒が命じるままに振り向けば、筋肉ダルマの警告どおり、爆弾魔がぬっと角から姿を現したではないか!
「おわっ、うわあああ!!」
いったいどこに隠れてた!? 廊下に身を隠す場所なんてなかったのに! いや、それよりもなんでそこにいる? 爆発はいまも遠くで続いてるってのにッ?!
イチローのこれら理不尽な現実への疑問は、爆弾魔が指でもてあそぶカードキーを目にすることですべて氷解した。
筋肉ダルマから奪っただろうカードキーを使って部屋に潜み、廊下を走り抜けるイチローをやり過ごす。あとはタイミングを見計らって飛び出せば、忍法隠れ身の術の完成というわけだ。そして遠くで鳴っている爆弾も、イチローが喫茶店で解体したような時限式の爆弾を使えば再現可能。
つまり、イチローは引っかけられたのだ!
悠然と距離を詰めてくる爆弾魔。背後を取られては前進する他なく、イチローは息せき切って非常口の見える廊下へと転がり込んだ。
新たな絶望が彼を襲った。筋肉ダルマが蹲る廊下の向こう、鉄の瓦礫が散乱する非常口近くの床には、指向性地雷と思しきパチンコ玉大の物体がばら撒かれていたのだ。
「くそっ、どうしろってんだ……!」
「腹を括れ、ボーイ……」
肺腑の底から搾り出すようにして、筋肉ダルマが口を開いた。
「おっさん!」
「奴が君に銃口を向けた瞬間、私が飛びかかる。君は何とか、奴から銃を奪い取ってくれ」
「ばっ……できるわけねえだろ! だいたいあんた、そんな脚でどうしようってんだ!?」
筋肉ダルマの脚は、はたから見ても酷い有様だった。スーツの上着で縛って止血を試みてはいるものの、その切れ端からぽたぽたと雫になって血が滴り落ち、絨毯の赤をもっとどす黒い濡れた色に染め上げている。額には脂汗が浮き、激痛に歯を食い縛っている。一言喋るだけでも精神力を消耗しているのは明らかだった。
だが、煮え切らないイチローに渇を入れるように、厳しい調子で筋肉ダルマは囁いた。
「四の五の言ってる場合か!? もう逃げ道はない、覚悟を決めろ!」
その言葉は波涛のようにイチローの奥深くに浸透し、鷲掴み、そして激しく揺さぶった。
なぜいまさらになって、そんな単純な言葉に心動かされたのか理解する間もなく、爆弾魔が廊下の角から姿を現した。手にはすでに拳銃を握っており、イチローを確認すると、花に水でもやるかのようにスっと照準した。吸い込まれるように深く暗い銃口がイチローを覗き込む。トリガーにかかった爆弾魔の人差し指が、ゆっくりと引き絞られる。
筋肉ダルマが吼えて飛びかかった。己の命さえ一顧だにしない、職務に殉じる覚悟を決めた漢の突貫だった。
すぐ間近で鳴り響いた轟音は、イチローの身を怯ませる代わりに、スタートを告げる号砲として作用した。生まれて初めて感じる得体の知れぬ何か。突き動かされるように、イチローも地面を蹴った。
爆弾魔が筋肉ダルマを引き剥がし、突き飛ばす。その一瞬にすべてを賭けて右手を伸ばす。だが――奪えない! 爆弾魔の拳銃はグリップセーブが作動していた。銃把と右手が不可視の力場で連結されている!
振り払うように突き出された爆弾魔の左手が、イチローの横っ面を殴り飛ばす。視界に星が散る。体勢が崩れる。最後のチャンスが永遠に遠ざかっていく。
スローモーションで流れていく光景の片隅に、爆弾魔がベルトにぶらさげている黒光りする何かが映った。
ずっと疑問に思ってきた。
俺は何のために生きてるのか。
何のために生まれてきたのか。
霞がかかったように、まったく現実感のない日々。
くぐもっていて、重苦しくて、面白いことなど何もない日常。
無気力に、自堕落に、流されるがままに日々を過ごしてきた。
金はない、力もない、学もない、……外れクジの人生。
神様にもらった贈り物といったらスリの才能ぐらいのもの。
まるきり五里霧中、どこに向かって手を伸ばせばいいのかさえわからない。
だからせめて、生きることに厭いた振りをして自分を慰めてきた。
思えばこの一週間、無茶苦茶だと頭を抱える一方、初めてあの澱んだ空気から解放された。
生まれついてしまったから、という理由だけで続いてきた俺の人生に初めて光茫が射した。
いつか来る、と自分を騙して待ち続けたチャンスそのものだった。
生まれ変わるとしたら、ここだ。
何かを成し遂げるとしたら、いまだ。
この期に及んで逃げ出したら、もう後にゃ何も残らねえッ!
――イチローの右手が雷光の如く閃いた。
弾き飛ばされて地面に転がったイチローに、今度こそ誰の邪魔も許さずに拳銃を突きつけようとする爆弾魔。その動きが不自然に固まり、凍りついた。
地面に這い蹲ったイチローが、床から凄まじい形相で爆弾魔を睨みつけていた。まるでそれで人を射殺そうとでもいうような、死に物狂いの強い眼差し。だが対峙する爆弾魔の視線は、イチローの目ではなく、彼が握り締める卵のような物体へと注がれていた。
「動くなぁッ!」
イチローが叫び、両腕を爆弾魔に向けて突き出す。
彼の手に握られていたのは、爆弾魔のベルトに繋がれていたはずの手榴弾だった!
「動いたらこのピン引っこ抜くぞぉおおッ!!」
「カァーット!!」
突如としてフロアに、聞き覚えのある女の威勢のよい声が響き渡った。同時にそこかしこから、ばたばたとした物音が生じ始める。
「「おっつかれさまっしたー」」
あちこちの部屋の扉が開き、なかから撮影機材のようなものを抱えた男女たちが出てきた。彼らは互いの顔を見つけると、手を叩き合い、抱きしめ合い、はしゃぎ始めた。フロアは急に、雑多な喋り声に支配される喧騒な空間に早変わりした。
啖呵を切った姿勢もそのままに、イチローはぱしぱしと目を瞬く。
――なんだ? これ、いったいどういう……?
わけもわからず呆然としていると、ばしばしと誰かに肩を叩かれた。
「ナイスガッツ、ボーイ」
「いいねえ兄ちゃん、素人とは思えん迫真の演技だったぜ!」
大怪我をして床を這いずるのもしんどそうだった筋肉ダルマと、さきほどまで命の取り合いをしていた爆弾魔だった。管理局から来たとかほざいていたあの女も、偉そうに他の面々に撤収の指示を出している。
そんななか、ひょっこり機材の後片付け組に混ざっているポールをイチローの目は捉えた。ポールはイチローの視線に気づくと、申し訳ないとも苦笑ともつかぬ表情を浮かべた後、ぺこりと頭を下げた。
イチローの首がぐぎぎぎと傾いていく。手のなかの手榴弾が零れ落ちる。
「――――そういうオチかぁぁああぁぁッ!!」
ほろりと、涙がこぼれた。