第五話
喫茶『Luft Garten』が、にわかに水を打ったように静まり返った。
その原因は突如として店に響き渡った叫び声――もちろんイチローとポールのそれである。店中の客の胡乱げな視線を一手に集めながらも、当人たちはまるで気づかず、机上のブツを凝視して喚き続けている。
「お客様、騒音は他のお客様へのご迷惑となりますので、どうかお控えいただ……」
「ンな場合じゃねえ、停めろ、いますぐどっかに不時着して都市警察を呼べぇー!!」
頭のおかしなクレーマーだと思ったのだろう。苦々しい表情を隠そうともしない店員だったが、机上のそれを目にするなりぽっかりと口を開き、顔色を変えてカウンター奥の事務所へと駆け込んでいった。彼が地上本店部への緊急コールボタンを乱打すると、すぐに店内照明が白から赤へと切り替わり、けたたましい警報が響き始めた。それまで不審そうな面持ちで遠巻きに眺めていた一般客たちも、慌てふためきながら非常降乗口へと殺到し始める。
「俺たちもずらかるぞ!」
叫んで席を飛び出したイチローだが、二歩目を踏み出すより前に何かが足につっかえて転倒した。テーブルの支柱にしたたかにぶつけた鼻頭を押さえて振り向けば、なんとポールが両足に絡みついているではないか!?
「何やってんだおまえ!?」
「ひ……腰が抜けて立てないっす、先輩助けてぇ~!」
「アホかぁぁぁぁッ!!」
イチロー、思わず絶叫。
こんなことをやっている場合ではないのだ。一刻も早く爆弾から逃げねばならないのはもとより、こんな現場を警察に押さえられたらいったいどう釈明しろと言うのか? 鞄を置き引きすると人生が上手くいくと占われたんで試してみたら爆弾が入ってました? 間違いなく刑務所にご招待コースである。いまなら精神鑑定も無料でついてきてお得ですよ奥さん!
そのとき、机上で何かが外れる音がした。
イチローの全身から血の気が引いた。目を見開いたまま凍りつく。それを目にした瞬間、目が潰れるか、心臓が止まるか、果ては世界が滅びるかする確信があったが、それでも見ずにはいられない。イチローの視線がゆっくりと、机の上のそれに注がれる。
ケミカルライトもどきと繋がる配線の隙間から、真っ赤なカートリッジがお目見えしていた。おそらく、先ほどの音とともに爆ぜ割れたのだろう。中身が露出して、そこからきらきら光る数字が宙に浮かんでいる。それは《118》という形を取っており、こうして見守っている間にも、刻々とその値を切り替えていく。《117》《116》《115》……。
「じ、じ、時限爆弾ってやつかぁ!?」
「ぶくぶくぶく……」
ポールが泡を噴いて気絶した。両足にしがみつかれたままなので、迷惑なことこの上ない。
イチローは机上に散らばったコードの束を矢継ぎ早に手に取った。赤と青どころか、緑に黄に白に灰にピンクにオレンジに黒にetc……三十二色入りの色鉛筆もかくやといった配色でごった返している。とてもではないがここから当たりなど引ける自信はなく、というか当たったらまずいだろこの場合! などと焦りのあまり自分にツッコミまで入れ始めるが、もちろんこの間にも爆弾は無慈悲に時を刻み続けている。《101》《100》《99》……。
「くそ、普通こういうのは、赤と青のコードのどっちか切るって相場が決まってんだろーが! 誰だこんな不良品作ったのはぁぁぁぁ!!」
声を限りに叫んでみても返事はなし。イチローは大きく息を吸って、胸に手を当てた。
「落ちつけ! 落ちつけ、俺!! ここまでが占いのとおりなら、こっから先だって占いで繋がるはずだ! 何かヒントになるメッセージが……」
この窮地を脱出できるのなら、この際、自己暗示でも催眠術でも何でもよかった。この状況に我が身を落とし込んだ諸悪の根源、そして唯一の手がかりでもある占いの一幕を、必死になって脳の奥から引っ張り出す。
『……ま、人生なんてもんはなるようにしかならんて……』
「役に立たねええぇぇェェッ!!」
真っ先に出てきたのは死神の札の言葉。もはや頭を抱えて仰け反るしかない。
数値は刻々と減り続ける。《83》《82》《81》……。いまやイチローの顔のあちこちから汗が噴出して、顎を伝って地面へと滴り落ちていた。いますぐ時限爆弾を手近な窓から外に放り投げて、ポールを蹴倒して逃げ出すという誘惑に駆られたが、投げたショックで爆発されてもたまらない。八方ふさがりである。
「いちかばちか適当なコード切るか? いや、それならこの不気味な試験管もどきを、片っ端から外しちまえば……」
そう呟きケミカルライトのひとつを手に取った瞬間、なかの液体が揺れる音とともに――再びあの瞳が生じた。爬虫類の目を連想させる、奇妙に細長い瞳孔。やはり目の錯覚などではなかったのだ。『ぎょろり』という擬音語がぴったりの、見る者を総毛立たせる瞳。イチローを舌舐めずりするように睨め回して、ぱちりとウィンク――キィキィキィという鳴き声まで聞こえてくる気がする。
イチローは椅子にへたり込んだ。ダメだこりゃ、短い人生だったなぁ……。
緑色の瞳に根こそぎ気力を奪われ、深々と溜息をついた。ただの爆弾のほうが余程可愛げがある。こんな怪しい代物がまともなわけがない。そういえば、さっきのニュースキャスターも『炎蛇爆弾』とか言ってたっけ。なんか、いつぞやの遊園地のテロでも似たようなの使われてたな……。《57》《56》《55》……。
風通しのよくなった頭に、もうひとつの声が降りてきた。
『……ヒトの子よ、よく考えることだ。選択肢は汝が手にしているものだけなのか否か。一度でも答えを過てば、汝を待つのは破滅のみと知れ……!』
そんなこと言われてもな……。だいたい残り一分切ってんですが……。
どこか恐怖も麻痺した投げ遣りな気分で、イチローはカウントを表示しているカートリッジを手に取り眺めてみた。カートリッジを揺すると、浮かび上がっている文字も揺れる。映写機のような仕組みだろうか?
イチローはカートリッジを引っくり返してみて――そこに何やら、スロットのようなものが内蔵されているのを見つけた。何の気なしに直下の四角いボタンを押してみると、カシャッという音とともに『解除コードを入力してください』と記されたモニタが飛び出てくる。
「…………」
狸に化かされたような、あるいは狐に頬を抓まれたような気分にイチローは襲われた。
モニタのパスワードボックス下部には、PCキーボードを模した絵も表示されており、どうもタッチパネルの要領で英数字を打ち込めという話らしい。一抹の希望がイチローの顔を過ぎり……そしてそのまま全速力で通り過ぎて、五メートル先のお手洗い室から窓の外へと抜けていった。
「その解除コードとやらがわかんねえんじゃ、どうしようもねえだろっての」
諦めの境地も通り越して、とうとう笑いの衝動まで込みあげてきた。イチローは、薄ら笑いを浮かべながらカートリッジをもてあそび……そして今度こそ、目が点になった。カートリッジの底に妙な付箋が貼りつけられていて、そこに『ミンナニハナイショダヨ』という一文とともに、謎の英数字の羅列が並んでいるのである。《21》《20》《19》……。
瞬間、イチローの両腕は目にも止まらぬ速さで行動を開始した。
ゼロコンマ五秒でパスワードの記された付箋を目視できる位置に貼り換え、間を置かずモニタのキーボード上を跳ねるように十本の指が躍る。残り秒数よりも明らかに長かったパスワードの文字列が見る間に消化されていく。日々のスリは、まるでこの日のための予行演習であったのだと言わんばかりの指運び。余談ではあるが、この日イチローが期せずして行った爆発物無力化措置は、非公式ながらプライムシティ都市警察の爆発物処理班が誇る最速レコードを更新した。
数値が《3》に切り替わるのとイチローがエンターキーを叩いたのはまったく同時だった。
――ポンっ!
コルクの抜けるような軽い音が机上で炸裂し、顔面をかばったイチローの両手に何らかの飛沫が跳ねる。
怖々と指の隙間から音の正体を覗いてみると……ひとつの試験管型ケミカルライトのコードが外れて、中身が机上に漏れ出ていた。赤く発光していたはずの液は真っ白に濁っており、他のケミカルライトも次々と泡立って同様のプロセスを辿る。数秒後には、机上は白いジェル状の何かで埋め尽くされた。
「助かった……のか?」
気の抜けた炭酸水のような声で呟くイチロー。だが、その声に応える者はいない。相方のポールは幸せそうな顔で気絶していたし、わずかばかり残っていた逃げ遅れた他の客たちも、テーブルの下からみなイチローを見つめるばかり。一様に言葉を失っている。状況の主導権は、完全にイチローが握っていた。
予想外の成り行きに困惑――できるなら、このままとっととポールを叩き起こしてトンズラするに限るのだが、目撃者たちが全員こちらを向いている状況ではさすがに無理がある。まさか手を振って「それじゃ!」というわけにもいかない。どうしたものか……イチローは額に手をやったが、幸いにもその件で彼がそれ以上頭を悩ませる必要はなくなった。
突如として店中の窓が叩き割られ、そこからヘッドマスクやら防爆防護服等に身を包んだ、完全武装の怪しい人たちが転がり込んできたので。
「逃げ遅れた民間人たちは全員その場に伏せろ! 我々は都市警察爆発物処理班だ!」
隊長と思しきマスクマンの宣言に続き、続々と展開していく下っ端マスクマンたち。
イチローは彼らの言葉に従う代わりに、げっそりとした顔で天を仰いだ。
……結局、逃げ遅れてしまったのだった。
「先輩の与太話になんて付き合うんじゃありませんでしたよ!」
「俺だってあんな目に遭うなんざ夢にも思ってなかったわっ!」
陽も落ちた三番街アーケードに響き合う怒声。
げっそりとやつれ果てた顔を突き合わせたイチローとポールは、通りかかる人々のしらけた視線も無視して、往来で大喧嘩を始めていた。
喫茶『Luft Garten』での出来事から五時間――すでに日も落ちて空には真ん丸のお月様が方舟を見下ろしている。
あれからイチローたちは、都市警察のお歴々に署までご同行願われ、ボロ雑巾でもこんなにゃされまいってぐらいのキツい取調べを受けた。なにせニュース沙汰にまでなった爆弾の第一発見者である。古今、あらゆる犯罪の第一発見者は、容疑者と疑ってかかられるのが世の常。おまけにその第一発見者は、何を考えたのか爆弾を市街地に持ち出すという危険行為までやってのけているのだ。
落し物を届けるのは市民の義務だと思ったんです。そかそか、兄ちゃんちょっと腹割って喋ろか。落し物を届けるのは市民の義務だと思ったんです。そかそか、兄ちゃんちょっと腹割って喋ろか。落し物を届けるのは市民の義務だと思ったんです。そかそか、兄ちゃんちょっと腹割って喋ろか。落し物を……。
このような不毛なやり取りが数時間に渡って繰り広げられ、結局ミストカードのデータ採取、指紋まで取られてようやくの仮釈放と相成ったのである。現在、件の爆弾は鑑識に回されているが、この結果がクロと出ればさらなる事情聴取に呼び出されることは間違いない。絵に描いたような踏んだり蹴ったりである。
「はっ、目先の真新しさに釣られてホイホイ置き引きしちゃうような人の台詞なんて、まるで当てになりませんね!」
「ンだとこの野郎、人が下手に出ればつけあがりやがって!」
「あっ、暴力反対ー! お巡りさーん、ここに無辜の一般市民に手を上げようとしているバイオレンス盗人がもごもご」
ポールを羽交い絞めにして路地裏へと引きずっていくイチロー。生ゴミのはみ出たポリバケツを漁っていた黒猫が、迷惑そうに一声鳴いて人込みへと消えていく。割れた石畳に散乱したビールの空き缶、得体の知れない汚れに塗れた新聞紙。まったくもっていまのイチローたちの境遇に相応しい居場所である。小突き合っているうちに罵り合うエネルギーさえ枯れ果てたのか、荒く息を吐きながらふたり並んで壁にもたれた。
「……俺たち、何をやってるんだろな……」
「……こっちが聞きたいですよ、それ……」
馬鹿ふたりが、揃ってボヤいてその場にずり落ちる。
何かはあった。
その点で言うなら文句のつけようなどどこにもない。
慎ましやかな日常生活を送る上では絶対に味わえない危機、それを機転と直感で乗り越えて見事生還。高い授業料も払わされたが、今回のケースを考えたら命があっただけでも儲けものだろう。あの占いは約束したとおりの『何か』をイチローに与えてくれたわけで――それでも何やら満たされないような気持ちになってしまうのは、もはやイチローがイチローであることの業でしかないのだろう。
「結局、映画でも見て満足してなさいってことなのかね」
「高い授業料払って得た結論がそれですか」
「値段分の教訓にゃなったさ。味わわなきゃわからん馬鹿だったってことが自覚できただけでもよしとしたいね。……しばらく引き篭もるかな。ありったけの食料買い込んで部屋から一歩も出ねえ感じで。もうなんつーか……さすがに懲り懲りだ」
「先輩、明日バイトのシフト入ってるでしょーが」
「それもそうだ……まさか『死にそうな目に遭ったんでしばらく休暇ください』なんてあの鬼店長が判子くれるわけもねえしなあ」
青タンこさえた頬を歪めてイチローが苦笑すると、二段重ねのたんこぶを頭に乗せたポールもくつくつと笑ってそれに続いた。
「帰ろーぜ」
「ええ」
血湧き肉踊る冒険の旅は終わった。夢から醒めて現実へと戻る時間がやってきたのだ。
「はぁい、そこのお兄さん方。ちょっと顔貸してくれるぅ?」
そんなイチローの夢の終わりを出迎えたのは、タイトな上物のスーツとタイトスカートに身を包んだ、バリバリの企業戦士といった装いの女だった。
磨き抜かれた肢体からは溢れんばかりの自信を放射しており、かけたサングラス越しに浮かべた魅惑の微笑は、そのオーラとも相まってか肉食獣のようなイメージを見る者に抱かせる。背後に筋肉から生まれてきたようなサングラスの大男二名を侍らせて、女はイチローたちを通せんぼするように路地裏の入口に陣取っている。
「……知り合いか?」
ポールはふるふると首を横に振る。
「そこの胡乱げな顔のお兄さんの疑問に答えてあげる。あたしたち、こーいうものでっす」
女が胸元の内ポケットから取り出したのは、『管理局特別捜査室』という刻印が為された真っ黒な手帳だった。あんぐりと口を開けてそれを凝視するイチローとポールの両脇を、ずいっと進み出た筋肉ダルマ二名がしっかりと固める。
「昼間の一件について、ちょーっと大人のお話があるのよねえ」
「勘弁してくれぇえぇええ!」
雲の隙間から地上を眺めるお月様を背景に、哀れなイチローの悲鳴がこだまする。
奇妙な占いから始まった謎の深みにどっぷりと嵌り込んでいることを、このときイチローはようやく心の底から思い知ったのだった……。