第四話
ブルーのロングシートにイチローが腰を降ろしてから、その風精翼艇はすでに沿線を二周して、三周目の半ばに差しかかろうとしていた。
風精翼艇は、プライムシティを始めとする、方舟五大都市――水に没した世界を回遊する、超大型浮体式構造物『方舟』、その遥か高みを浮遊する小世界群――における、もっともポピュラーな都市内移動手段として普及している。都市内の街区間を環状に接続しているエアラインを、円軌道を描いてぐるぐると巡り続けるのだ。
――こういうの、なんて言うんだったっけな……?
彼が最初に乗り込んだときは中天に位置していたお日様も、いまや気だるそうに寝そべって、向かいのウィンドウの彼方から翼艇内を覗いている。ブラインドの隙間から直射する日差しに目を刺激される度、イチローは顔を顰めるのだが、そこに座っている小集団はまったく気づかずに、先日封切された新作映画についての批評を交わし合っている。男三人、女ふたり。耳障りな会話の内容から察するに、大学のサークルか何かのようだ。
「僕が思うに、最近のエディは唯一の持ち味であるとぼけた2枚目半ってコンセプトを敬遠してるきらいがあるね。ジョージが張ってたバラエティ枠の代役でたまたま声がかかっただけなのに、きっと神さまが与えた千載一遇のチャンスとか勘違いしてるんだぜ? おまえからボケを取ったら何が残るんだっての。彼に足りてないのは自省の心だね」
(俺が思うに、てめえに足りてねえのは、背後のブラインドを下ろす他人への気遣いってやつだよ糞野郎)
自分に足りていないカルシウムを棚に上げ、イチローはわなわなと指を震わせる。
いったい何をやっているのか? イチローは手のひらに顔を埋めて自問する。平日の真昼間から、鞄のひとつも持たずにブルーシートを占有して、行く先もわからない。有体に言って最悪だ。
――ああ、思い出した。迷走だ。
答えを見つけたというのに、イチローが覚えたのは爽快感とは程遠い無糖の苦さ。
彼が迷走している原因は、先日の奇妙な占いにあった。
教会の煙突から転げ落ちた先で出会った不思議な少女。その子の指と言葉に導かれるようにして、小冊子から飛び出してきたイラストのキャラクター。愚者、車輪、塔、――そして死神。圧巻の演出は、カードに刻印された秘術文字の効果だと翌日ネットで調べてわかったが、それでもあの宴はイチローに鮮烈な印象を残した。もともとイチローは、占いの類を信じる性質ではなかったが、いまや彼の信奉してきた常識は決壊寸前――こうして当て所なく風精翼艇に揺られているのが、何よりの証拠だろう。
何かが起こるのだという。
その言葉に導かれるようにして家を飛び出して、しかしいまだ何も起こらない。
もうあれから、三日も過ぎているというのに。
……自分でも病気だと思うが、それでもどうにもならない。
やがて、風精翼艇が停車して、目的地に着いた乗客たちが次々に降り始めた。くだらない話に花を咲かせていた連中も流れていき、イチローは上半身を捻って筋肉をほぐした。ずっと同じ姿勢でいるものだから、身体が凝って仕方ないのだ。
首を捻ってこきこきと音を鳴らしたそのとき、網棚の上に誰かのバッグがぽつんと置きっ放しにされていることにイチローは気がついた。
黒無地のシンプルなボストンバッグ。取っ手のすぐ下には日用雑貨品メーカー『ウィリー』社の、星を乗せた帆船のロゴマーク。確証はないが、確かさっきのうるさい連中のひとりが、そのバッグを網棚に乗せるのを見た気がする。
お喋りに夢中で置き忘れたのか。間抜けな奴らめ。
初めのうちは、そんなぐらいにしか思っていなかったのだが。しかしイチローはふと、自分でも知らぬ間に視線がバッグへと吸い寄せられていることに気がついた。意識しなければ気づかない程度のさりげない強制力が、最後にはそれを目にするようイチローの関心を縫い止めている。まるでそこから、天使の囁き声が聴こえてでもいるかのように。
そしてこれも、視線を吸い寄せられるのに気づいたのと同じぐらい、唐突に思い当たった。
すなわち――。
『忘れ物はきちんと届けてやるのが社会の常識だぜー! Hey! Hey!』
まさかとは思いつつも、イチローの心臓は明らかに鼓動を打つ速さを増している。
馬鹿げた話だ……イチローは俯いて口元を歪めた。考えてもみろ、ンな上手い話がどこに転がってるってんだ? そうそう都合よく話が進んだ試しがこれまでにあったか? なかったから、こんなところで波止場ルンペンよろしく黄昏てるんじゃねえか。
しかし、それが待ち望んだ『何か』の始まりでないという確証もなく。
網棚の上に置かれたバッグは、黙したまま何も語らない。
静寂。口内の唾を嚥下する音までも聞こえてきそうな……。
結局――。
風精翼艇が駅を離れていく風を背中で感じながら、イチローは件のバッグを抱いて、ひとりホームの端で立ち尽くしていた。
腕のなかのバッグが重い。もちろん、それは主観的な意味においてだが。初めて他人の懐から財布をスったときですら、こんな緊張を感じたことはなかった。
さて、これからいったいどうすればいいのか? イチローは天を仰いで黙想する。
あの占いに従うなら、忘れ物はきちんと届けなければならない。そしてバッグの持ち主の住所などイチローは知らないから、当然お届け先は都市警察となるが……どうにも気が進まない。警察のご厄介になったことはなかったが、それでもスリを副業にしている人間の選びたい駆け込み先では断じてない。幸いにして、降りたのは三番街の内環状駅。多少歩くが、いったん自宅に持ち帰って、それからどうするかじっくり考え――
そのとき、イチローは肩を叩かれて、文字どおり飛び上がった。
「うわあああっ!?」
「わあ! なんですか先輩!?」
聞き覚えのある声に振り返ってみれば、びっくりした様子のポールと目が合った。
「お、おま……どっから湧いて出てきやがったっ」
「どこからって、普通にさっきの風精翼艇からですよ。先輩も乗ってたんですね。さっきから、そこでぐるぐる回ったり、上向いたり……何やってるんです?」
イチローは返事に困って言葉を濁した。
「べ、別に俺のことはどうでも……それよりおまえ、今日はシフト入ってなかったっけ?」
「入ってたんですけど。ちょっと私用が舞い込んできて、そっちの仕事に右往左往してました。鬼店長カンカンですよ。やだなーもう」
「だったらドタキャンしなきゃよかったじゃねえか」
「そりゃそーですけど。うちの部長ってば、いっつも強引なんですもん」
深々と嘆息するポールを眺めているうちに、イチローはいくらか余裕を取り戻した。
まるで計ったように湧いてきたポールだが、これは『ここで会ったのも何かの縁』というやつかもしれない。
正直、拾ってしまったバッグをひとりで抱えるのはいささか辛いものがあったし、それにこんな馬鹿げた話の共有相手として、ポールは申し分のない相手――というよりほとんど唯一の相手と言えた。
「まあいいや、じゃあおまえ暇だな? ちょっと付き合えよ」
「はあ」
あまり気乗りしなそうなポールの呟きを無視して、イチローは改札を出てビジネス街から少し外れた路地へと足を向けた。
呆れ果てたような、深い、深い、溜息をついて……ポールがぼそりと言った。
「……先輩って、ときどきワケわかんないですよね」
突き刺さるジト目が痛い。イチローはその視線から逃れたくて、窓のほうへと顔を背けた。間奏曲めいた音楽が流れる店のウィンドウには、喫茶『Luft Garten』という、流麗な金文字のステッカーが貼りつけられている。
「まず前提がありえないですよ。普通の人は、他人の家に煙突から忍び込んだりしません」
「そりゃごもっともだが……」
「言っときますけどね、先輩のそれって立派な犯罪ですよ? 住居侵入罪ってやつです。三年以下の懲役、または一○万クレジット以下の罰金刑」
「ぐっ……だったらサンタクロースなんざ、みんな犯罪者じゃねえか」
「そーですよ。結果的に逮捕されないってだけです。本物は、先輩みたいに家の人に顔見られるようなドジ踏みませんからね」
さすがにムッと来たので言い返してみる。
「じゃあなんで俺たちは、そんな犯罪者の格好して書店で売り子せにゃならんのだっ」
「子連れの親の財布の紐緩めさせて、商品を売りつけるのに最も適した格好だからですよっ」
イチローらの押し殺した怒声が店内に響き渡ると、他の客が迷惑そうに視線を向けてきた。根が小心者のポールは、慌てて声を潜める。
「まとめると、先輩はサンタクロースよろしく教会に忍び込み、見事に家主のお子さんに気づかれたらなぜか人生を占われ、毒食わば皿までの勢いでそのバッグを拾ってきた――そういうことで間違いないですね?」
「おうよ」
「なんだって毒だってわかってるのにアクセル踏んじゃうかな~!」
ポールが頭を抱えて机に突っ伏す。
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この看板をご覧のあなた、いますぐ大空高く羽ばたいてみませんか?
心行くまで眺めを堪能できる、空の旅をご用意してお待ちしております。
まずは当店自慢の、オールド・アイリッシュ・コーヒーを飲んでから……。
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イチローがこの喫茶店を選んだ理由は、店の壁に立てかけられた黒板のそんな挨拶だった。洒落っ気のある文面に心をくすぐられたのだ。このご時勢、空飛ぶ乗り物など珍しくもないが、コーヒー片手に優雅に地上の眺めを楽しむというシチュエーションはあまり聞かない。
責める視線がなくなったので、イチローはお勧めになっていたコーヒーを口元に運んだ。ハーブの匂いと蜂蜜の甘さが、疲労感に満ち満ちた全身に染み込んでいく……と、そのとき向かい側の席を立って、こちらへ歩いてくる女が視界に入った。
薄茶色のカーディガンにライトグレーのインナー、同系色のレギンスにロングスカートとシンプルにまとめた服装。手にはなぜか鳩籠など提げている。通り過ぎる姿を観察しているうちに、女は長いストレートをたなびかせてEXITの角――喫茶店から出たくなった場合は、席の精算器にミストカードを通して会計を済ませ、シルフとウンディーネの作るシャボン玉に包まれて、地上へと降りていくのだ――へと消えていった。
「すっごい美人ですねいまの。清楚な感じで……あんな彼女がいたら最高なんですけどねえ」
いつの間にか復活していたポールが目聡く言ってきた。イチローが生返事をすると、不思議そうな顔で小首を傾げる。
「あれ、先輩あんまり興味なしです?」
「いや……なんかよくわからんが……なんだ? 背筋にゾクッと来たんだが……」
「はあ?」
なんてことのない一幕。見知らぬ美人とすれ違ったというただそれだけのことなのに、その女にイチローはなぜか悪寒を覚えた。しかしその理由がわからない。イチローは少しだけ頭を捻ってみたが、原因を突き止めても、何の意味もないことに気づいて止めた。
「ま、名前も知らない美人なんざどうでもいい。それよりこっちの話だ」
「ええと……なんでしたっけ?」
「占い」
そうそう、それですよとばかりにポールが頷いた。
「そもそも先輩って、占いとか信じてる人でしたっけ? あんなの番組変われば結果も変わるだろーがってぼやいてたの、先輩だった気がするんですけど」
「おまけに血液型混ぜたって四八通り――あのテの情報を本気で信じてる奴の気が知れんよ」
「だったらなんだって今回に限ってそんな」
「……なんでだろうなあ」
イチローは自嘲めいた笑みを浮かべて、カップに残っていたコーヒーを呑み干す。
――嘘だった。
イチローは自身の取った行動の意味を、明確に理解していた。
浅ましくも彼は期待していたのだ。それを信じてはいなくとも、信じてはみたかったのだ。
どこまでも続いていく不毛な日々。凪のような日常に神経を擦り減らされて、斜に構えた生き方を強いられながらも……本当は、誰よりも強く願っていたのだ。すなわち『冒険』を。
何か起きると期待していたわけじゃなかった――そんな保険じみた台詞を張り巡らせる人生から、脱却したかった。そのためになら、どんな荒唐無稽な目に遭ったって構わなかった。『日常でないもの』を心待ちにしていたのだ。
だからこそ、あの不思議な指輪を嵌めた少女との一幕は、イチローに鮮烈な印象を残した。鬱屈した毎日を耐え続けてきたのは、この日のためだった。タロットカードから飛び出す奇跡の数々に圧倒されながらも、その実、心の奥底では歓喜の叫びさえあげていたのだ。
だがその興奮にも、一日、二日と時が流れるにつれ疑念が混じり始めた。『何も起きない』という無情な現実。それはのたくる蛸のようにイチローを絡め取り、物凄い速度でありがたみのない正気へと導いていく。はいはい、期待した俺が悪ぅございました。そんなことだろうと思ってたんだよ。頭に浮かぶのは、そんな言い訳めいた言葉ばかり。
……やめろ、もうたくさんだ!!
机に突っ伏しかけたイチローだが、そのときポールがテーブルの上のバッグを見て言った。
「ともあれ、まずはそれの中身を検分してみません? ここまで持ってきたら、開けなきゃ消化不良でしょうし」
「……これで金塊でも入ってたら、拍手喝采ものなんだがなあ」
「あるわけないでしょ、ファンタジーじゃないんだから」
手厳しいポールのツッコミに苦笑いしつつ、イチローはバッグのファスナーを下ろした。
「なんだこりゃ?」
「物入れ……いや、時計ですかね?」
出てきたのは肉厚の黒いプラスチックケースだった。中央に小さな時計がくっついている。
わけがわからない。手に取って引っくり返してみるものの、他は上部の取っ手と留め具ぐらいのもの。
留め具を外して外蓋を開いてみた。すると、ケース内に押し込められていたうじゃうじゃした配線の束と、それに繋がっている特大の『試験管型ケミカルライトのようなもの』の姿が露わになる。
「……ますますわからん」
視線を上げてポールに問いかけたが、彼も眉根を寄せて首を傾げるばかり。
試験管もどきの内部の液は赤く発色しており、その不気味な輝きに少女の嵌めた指輪を思い出して、イチローはぶるりと怖気を振るった。表面には 打ち消し線を引かれた『或る冬の日のクリスマス・ホーリー』という題字と、その下に小さく『試験体No.666 パイロヒドラ・八岐大蛇種』とタイプされた紙が貼られている。
配線が切れないよう、そっとケミカルライトもどきを持ち上げてみると……いきなり、液内に一六の緑色の瞳が生じた。
「うおっ!?」
思わず取り落としかけるが、ぎょっと目を瞬いている間に、それらは何の痕跡も残さず消えてしまった。
「な、なんだこれ……」
「どうしたんです?」
「おまえ見なかったか? 目みたいなの」
「…………?」
角度が悪かったのか、ポールは何も見ていないようだった。いや、もしかすると俺の見間違いの可能性も……?
だが、気味の悪さは消えない。首を竦めて、ケミカルライトもどきをケース内に戻そうとすると、店内を静かに満たしていた有線音楽がぷっつりと途絶え、次いで映画の予告を流していた大画面モニタのチャンネルが切り替わった。シャープな印象の女性ニュースキャスターが映し出される。
《番組を中断して、臨時ニュースをお伝えします》
突然の報道特番に、店内中の客・店員の視線が大画面モニタに集まった。イチローもケミカルライトもどきを摘まんだまま、ニュースキャスターの緊迫した面持ちを眺める。
《方舟管理局および民放各社に向けて、プライムシティに時限解呪式の炎蛇爆弾を仕掛けたとの犯行声明が、市外組織『アウトサイド』より通達されました。秘術師機関の呪物判読技能者による犯行声明文判読の結果、爆弾は以下のような黒いプラスチックケースに覆われて、風精翼艇内に仕掛けられている可能性が濃厚であるとの結論が出ました』
ニュースキャスターの読み上げと同時に、別ウィンドウが立ち上がって、そこに手書きの黒いシルエットが表示された。四角四面のプラスチックケースで、真ん中に小さな時計がくっついているスケッチである。思わずイチローは、机上のプラスチックケースに視線を落としてしまう。
《防衛計画115―02に基づき、第四次警報が発令されました。現在、各風精翼艇ステーションに立ち入っている市民の皆様方は、都市警察の誘導に従い安全地帯へ避難してください。繰り返します、方舟管理局および――》
ニュースキャスターが二度目の読み上げを始める。
イチローとポールは、互いに青褪めた顔で見つめ合った。固まっているのだ。ポールが引き攣った顔で、イチローが持っているケミカルライトもどきを指し示す。イチローもまた、似たような表情で頷き返す。
間。
血も凍るような間。
ふたりは同時に息を吸い込み、そして吐き出した。
「「爆弾だァァァァァァァ――――――ッ!!」」