第八話(下)
――ここ、どこだろう?
コウは途方に暮れて呟いた。なんだか、すごく変な場所に迷い込んでしまったようなのだ。
端的に言って、この世とも思えぬ場所だった。物音ひとつない静寂の世界。あたりは自分の手足もロクに見えないほど薄暗く、かろうじて視認できるのはぼんやりと燐光を放つ世界の輪郭線のみ。それが鬼火のように揺らめいていて、見つめていると乗り物酔いめいた気持ち悪さを覚えてくる。
ふと気がつくと、コウはこの不思議な空間にひとり俯せていたのだ。
初め、コウはてっきり部屋の明かりがついていないのかと思ったが、しかし手のひらに伝わる感触は、いつもアルが用意してくれるふかふかのベッドではあり得なかった。それでここがまったく見覚えのない場所であることに気づいたのだが……
――そもそもぼく、なんでこんなとこにいるんだろ?
記憶がぷっつりと断絶している。確か、ついさっきまでアルとお喋りしていたのだ。それで窓の外を花火みたいに龍が昇っていったと思ったら……いきなりこれである。
何もかもがわからない。傍らにいたはずのアルもどこかに消えて、いまやコウはこの薄気味悪い場所にひとりぼっちだった。その事実を自覚すると、心細いを通り越して一気に怖くなってきた。
「アルー! どこー―――っ!!」
空間に反響する自分の声。まるで悲鳴みたいだ。肺の空気を絞り尽くす勢いで呼びかけるも、アルどころか誰の応えも――
「よかった、気がついたのね」
返ってきた。
おんなの子の声だった。聞き覚えのあるような、ないような……?
コウは驚きつつもホッとして、涙ぐんでいたのを誤魔化すように二度三度目を拭った。もう少しで泣いちゃうとこだった。声の主はたぶん自分と同じぐらいの歳の子で、しかもおんなの子だ。めそめそ泣いてるところを見つかったりしたら、やっぱりちょっと恥ずかしい。
「それじゃさっそくだけど、こっちに来て。もう時間がないの」
声の少女は、そんなコウの胸の内などまるきり無視してぴしゃりと言った。有無を言わさぬその口調に少しだけムッとして「ぼく、歩けないんだ」と答えると、
「翼があるでしょ」
「翼?」
不意に世界が明るくなった。輪郭線から生じる明かりが光量を増したのだ。
少女が電気でもつけてくれたのだろうか? ともかくも「背中を見て」という少女の言葉に言われるがまま振り返ったコウは、己が瞳に映る見慣れぬ異物にあんぐりと口を開けることとなった。……樹の枝と思しき何かが背中から突き出しているのだ。
翼と聞いてコウが連想したのは鳥のそれだったが、実際に生えていたのは予想とは似ても似つかぬ代物だった。羽根の代わりに葉が生い茂り、枝の先端には色取り取りの宝石がじゃらじゃらと揺れている。奇妙極まりないオブジェだったが、確かにそれを言い表す語は『翼』以外になさそうだ。
コウは口をぱくぱくするばかりだったが、さらに身体中から根やら茎やらも生え出していることに気づき、とうとう悲鳴をあげた。
「わああ!? な、な……な、何これっ!?」
「心配いらないわ。それがわたしたち本来の姿なの」
何を言ってるのかさっぱりだが、少女の声は正しさを感じさせる確信に満ちていた。恐れはもちろん消えなかったが、それでも声の響きに幾分か勇気づけられ、コウはもう一度己の身体と翼をしげしげと眺め直した。……ちょっと見方を変えれば、TVドラマとかに出てくる変身ヒーローみたいかも。けど……
「でも、これどうやって飛ぶの?」
「念じるの。そうすれば、あなたを運んでくれるわ」
「念じる……」
コウは言われたとおり目を閉じて意識を集中。背中の翼でぱたぱた羽ばたいて、自分が空を飛んでいる姿を想像した。すると、翼は羽ばたかなかったものの、代わりに付属の宝石群が発光し始めた。
ふわり。
その、えもいわれぬ感覚。コウは恐る恐る目を開き――そして何度も瞬いた。本当に信じられない。けれど、何度瞬きしても変わらないその光景。動かない両脚が、いまや完全に地面から離れてぷらぷら宙を漂っている!
「わ、わわ、ホントに飛んでる! うわぁ!!」
「ね、簡単でしょ? さあ、早くこっちに……」
少女の声に手を引かれるようにして、コウはおっかなびっくり不思議な空間を進み始めた。彼女の言うとおり、翼はコウを意のままに運んでくれた。世界がさざ波を立てながら背後へと流れていく。そうしてしばらく飛んでいく内に、コウは己を取り巻く情景の変化に気づいた。無軌道に広がるばかりだった世界の輪郭線が、進路に沿って段々収束しつつあるのだ。
やがて、世界の完全収束地点ともいうべき場所に辿り着いたコウは、そこに寄り合わさった輪郭線が形作る奇妙な『台座』を見た。屋敷の居間ぐらいの大きさはありそうだ。
――きっと、ここがこの世界の中心なんだ。
コウはそう直感して、翼に念じて台座の上へ移動した。けれど、予想に反してここまでコウを誘導した少女の姿が見えない。
「ねえ、どこにいるのー?」
「あなたの目の前にいるわ」
「……?」
「見えていないだけ。見るのではなく、視るの。いまやあなたは昨日までの存在とはまったくの別物。その姿を取り戻したあなたは、人の目には映らないモノも視えるし、人の耳では聞き取れない獣や植物の言葉も聴こえる。……さあ、もうやり方はわかるでしょ?」
少女の言葉に促され、コウはそこにあるはずの彼女の姿を捉えるべく意識を集中した。
すでに翼でコツを掴んでいたため、その新たな感覚に気づくのに苦労はなかった。誰にも見えない魔法の眼鏡をかけているような、そんなイメージ。その眼鏡のレンズを通して世界を見つめると、コウの視界にぼんやりと人の像が浮かび上がってきた。やはり声の主はコウとほとんど変わらぬ年頃の女の子だ。ウェーブがかった銀の髪と、ぱっちりした赤い瞳が印象的かもしれない。しかし――
少女の姿を見たコウは、雷に打たれたように硬直し絶句した。
「う、あ」
「初めまして。ええと、コウくん? わたしはキリエ」
少女はまるで気にする素振りもなく挨拶してくる。それがコウには信じられない。
「なんで!? 痛くないの!? 大変だよ、早く……お医者さん呼ばなきゃ!!」
ありのままを述べるなら――少女の身体は壊れていた。
腹部から下がごっそりと油圧ショベルか何かで抉り取られたように『ない』のだ。背中からはコウのものとよく似た翼が生えているが、それも葉は枯れ、枝も朽ち、宝石の大半に亀裂が走っていて、ふよふよとその場に漂っているので精一杯といった有様だ。左腕も半ばから千切れて力なく垂れ下がっており、無残に引き裂かれた白いワンピースの切れ端が虚しく風に揺れていた。
「わかってる。だからあなたを呼んだの」
「ぼく、お医者さんじゃないよ!」
狼狽して叫ぶコウに、キリエと名乗った少女はどこか寂しげに頷いた。
「聞いて、コウ。わたしの怪我はどんなお医者様にも治せないの。滅びに触れてしまったから、あとは消えてなくなるだけ。だから……消えちゃう前に、あなたに渡さないと……。これからはあなたが方舟のオラトリオだから」
「オラトリオ……?」
「祈りを束ねる者って意味。わたしたちは一なるアニマから分かたれた愛の種子。星に根差す生命の苗木にして祈りの受け皿。それが星海に撒かれたわたしたちの役目……」
「む、むずかしくてわかんないよぅ」
「大丈夫。わたしもちんぷんかんぷんだったけど、記憶はそのまま引き継がれるから」
どうにも要領を得ない。コウは困り果てて押し黙った。
本当はこんなとこでゆっくりしている場合ではないのだ。おねーちゃん、絶対心配してる。アルといまごろ大騒ぎしてるんじゃないかしらん? そこまでを思って、コウは面差しを暗くした。
……でも、とうさんは。
きっと僕が迷子になってることも知らない。
なんでこんなに遠くなっちゃったんだろう。いつからこんな……。
束の間、コウはこの数年ずっと自身を苛み続けてきた思考へと陥りかけたが、そのときアルの力強い言葉が脳裏に蘇った。
――そうだ。こんなことで挫けちゃいけない。アルが教えてくれたんだ、まだ何も決まってなんかいないって。ぼくは弱虫じゃない、何もしないで諦めてなんかやるもんか!
そう心のなかで宣言すると、ふつふつと力が湧いてきた。そうと決まればやることはひとつ――この変な世界からとっととサヨナラするのだ。それにこの子も一緒に連れて行かないと。お医者さんはいらないって言ってるけど、消えちゃうなんて言ってるし、なおさら。
「あのさ……よくわかんないけど、その……ぼく、お家に帰らなくちゃいけないんだ」
コウは少女の目をじっと見据えて言った。
「それでね、きみも『もう治らない』って言うけど、そんなの試してみなきゃわかんないって。アルも……あ、ぼくんちのドロイドだけど。言ってた。だからさ、ぼくと一緒にここから出ようよ。ね?」
コウが手を差し出すと、少女はそれを不思議なものを見るような眼差しで見つめた。そして泣き笑いのような表情を浮かべて言った。
「優しいのね。もっと早く、あなたと出会えればよかった。そうすれば、わたしたち、きっと友達になれたのに……」
わたしたち、きっと友達になれたのに。
なんでさ。いまからだってなれる……そう言おうとしたコウだが、その機会はついぞ訪れず仕舞いになった。寂しそうに微笑む少女の翼から宝石の輝きが失われ、崩れ落ちた彼女を支えるために喋るよりも先に手を動かさねばならなかったから。
下半身のない少女の身体は嘘のように軽かった。腕のなかの感触は儚く、頼りなく、彼女に残された時間はもうないのだとコウも悟らざるを得なかった。
「ごめんね、もうホントに、消えちゃいそう……。お願い……わたしの手……握って……」
彼女の身体を床に横たえ、弱々しく持ち上げられた右手を両手で包み込んだ。「ありがと」少女は安心したように頬を緩めた。
「これで、わたしのお仕事……おしまい」
そして変化が始まった。呪われた奇跡。かつて人であったモノが、人でないナニカへと変異していく、その光景。少女の身体が光の泡と化していく有様を、コウは呻き声ひとつ漏らせずにただ見ていた。少女の瞳に浮いた涙、頬を伝い落ちる滴までもが光の残滓となって、溶けて、解けて……霧散していく!
「最期って……こうなんだ……ジグソーパズル……ぽろぽろ零れて……」
コウは確かに耳にした。少女の呟きに宿る、不安の響きを。
「ねぇ……コウは、生まれ変わりって……信じる?」
けれどコウは、一瞬だけ答えるのを躊躇してしまった。怖かったのだ。彼女の死を恐れるあまり、彼女の心に触れること、それ自体を拒絶してしまったのだ。
「あったら……いいな。そしたら、わたし……今度は……普通、の……」
それがコウの聞いた少女の最後の言葉となった。
最後まで言い終えることなく少女は消えてしまった。コウは彼女へ送る最後の言葉を伝えられず、ショックで瞬きひとつできない。季節外れの雪のように淡く溶け消えてしまった少女。その消失の瞬間がありありと目に焼きついて離れない。
ぼくは馬鹿だ……自分のことばっかりで、あんなに怯えていた子に、言葉ひとつかけてあげられなかった……!
後悔に打ち震えるコウだったが、ふと手のひらに温かな感触が残っていることに気づいた。両手をそっと広げると、そこには変わり果ててしまった彼女が――虹色の燐光を放つ光輝の薔薇があった。
呆然と見つめるコウの目の前で、そっと薔薇の花弁が開いていく。
ハミングが零れ始める。花弁の内側に閉じ込められていた、どこかで聞いた懐かしい歌声。ワケもなく涙が溢れてくる。止まらない。
その歌声には魔力があった。失われた歴史を蘇らせる、そんな魔力が。その力の筋道を論理立てて説明することはできない。ただ、厳然としてそう在るということだけ。薔薇の花弁が閉じ込めていたのは、これを引き継いできた者たちの記憶そのもので、歌声を耳にした瞬間から、彼らの記憶がコウの意識に流れ込んできたのだ。
それは他者との意識の融合ともいうべき神秘の御業だった。人類にとってまったく未知なる精神的知覚であり、それを在りのままに受け入れた事実こそがコウが彼らと同種であることの何よりの証だった。
あえてコウが受信した情報を人が認識できる形に翻訳すると、以下のようになる――
――素晴らしい。
旧き時代。怒涛のように降り注ぐ灼熱の雨を観測しながら『母』は思った。
足元には赤く罅割れた不毛の大地。そこかしこから噴き出すマグマが、大気中に種々のガスや水蒸気を放っている。これが星海に触れて形を取り戻し、地表へと降り注いでいるのだ。
そう遠からず、この星には海が生まれるだろう。大気に満ちる二酸化炭素もそのなかに溶け込んで薄れゆくはず。この星の進化過程は、星海でもっともポピュラーな酸素呼吸型種族が発生・生育し得る条件とことごとく一致している。命を育むための素地としては申し分ない。
……この星に決めた。いまこそアニマより賜りし使命を果たさん。
彼女は溶鉱炉の中のようなマグマの海へとダイブすると、そこから星の核へと遡り始めた。
それから長い長い歳月を経て。
かつて煮え滾る炎とマグマの坩堝だった惑星は、いまやその大部分を海に覆われた青き星と化していた。陸には母より芽吹きし草木が生い茂り、恐竜たちが我が物顔で闊歩していた。咆哮し、威嚇し合い、貪り合う地上の支配者たち。小さき者たちは、彼らの繁栄の陰に隠れて生きることを余儀なくされていたが、やがてその時代も空から降り注いだ巨大隕石によって終わりを告げた。荒れ狂う自然災害の前に旧支配者たちは母へと還り、ついに現生人類に繋がる太古のヒトザルたちの時代が始まったのだ。
そう、ここからは人の歴史。
採集と狩猟から始まった彼らの生活は、やがて道具の発明により農耕と牧畜へと発展。さらに言葉によって次の世代に技術を伝える術を得た人類は、それまでの進化の道程を思えば明らかに異常極まりない速度で進化していった。
初め、生存のためにイボイノシシやシマウマに粗末な棍棒で打ちかかっていた彼らは、やがて所有欲や自己顕示欲を満たすために鉄の武器で相争い始めた。それが過ぎると火薬を用い始め、ついには母さえ傷つけかねぬキノコ雲の兵器へと至り――そして廃棄種を生み出した。
コウの意識に視覚映像が浮かび上がった。スーツを着て忙しく通りを駆けていくビジネスマン。立ち並ぶビル群。風精翼艇ではないけれど、それによく似た大きな箱型の乗り物。コウの暮らしている世界ではないけれど、それとほとんど瓜二つといっていいぐらいに近しい世界。映像の端に、一九九九という数字が映っている。
数字は末尾にも続いていて、それがせわしなく切り替わっていくと、映像のなかの日が沈んで夜が訪れ――そしてそいつが現れた。夜空の一点に浮かび上がる、星々の煌めきを圧するように光り輝く長大な龍。それを見た瞬間、コウはすべてを思い出した。この世界で目覚める直前に目撃した龍、そして少女の悲鳴。……あれは彼女の声だったんだ!
それにしても、とコウは思う。一目でいま映っている龍が、気絶する前に見た龍と同じ存在だとわかったけれど、それにしてもサイズが段違いだ。月の何十倍もの大きさで、しかも近づいてきてるのかどんどん大きくなってくる。いまに夜空を埋め尽くしてしまうんじゃないかと気が気でない。
――これが廃棄種だ。我らの敵、零へと還ろうとする虚無の化身だ。
コウは意識のなかで頷いて、映像の続きを食い入るように見つめた。クローズアップ。ホロムービーに出てくるような宇宙戦艦が、夜空の一点から無数に飛び出してきて龍を取り囲む。ビーム斉射。赤と黄色の雷みたいな線が次々に龍に刺さるけれど、龍はまるで意に介さない。やがて龍が大きく口を開くと、その先にまるで嵐の海を凝縮したような水球が生じた。それは見る間に目を灼くほどの強力な閃光を伴い、映像を見ているコウ目掛けて――
暗転。映像が途切れ、コウは呆然と意識の波に取り残される。
――これが、かつてこの星を襲った終焉だ。呼称『リヴァイアサン』の攻撃で星は発狂し、時間と記憶の撓んだ幾億もの複製世界が生じた。……この、地上すべてが水に沈んだ方舟世界も然り。我らが再統合を果たすためには、また気の遠くなるような歳月が必要となろう。
廃棄種を生み出すこととなったこの種は、精神的に未成熟な失敗作とも見える。
実際、惑星の成立から見れば爪の先ほどでしかない極々短い時の流れのなかで、どれほど多くの不和と裏切り、破壊と流血の惨事を繰り広げてきたことか。その野蛮な性質はアニマに寄与するどころか、早晩自らの手で歴史に幕を下ろしかねない危うさすら秘めている。
だがその一方で、彼らは『平和』の未完成品であるとも言える。本当に些細で何気ない生の営み、その積み重ね――たとえば子供が道に落ちていた財布を拾って交番に届けたり、若者が転んだ老婆の手を取り立ち上がるのを助けるといった――それら一つひとつは他愛のない出来事でも、その小さな愛は無数に積み重なって星を巡る。重要なのはそこなのだ。かつて飢えたる隣人を殴り獲物を横取りしていた心に、いまやパンを分け与える無私の余裕が生まれた。それは突然の不幸に見舞われた名も知らぬ人々の悲しみを、己が痛みとして受け止めることのできる資質。他者を傷つけ滅ぼすのではなく、手を差し伸べ融和することのできる資質なのだ。技術的な文化の成熟具合に比べ、限りなく遅々とした歩みではあるものの、彼らは星海を担う一種族に相応しい性質と自覚を備えつつある。
――我が子よ。
母がコウの意識に呼びかけた。
約束の刻は来た。いまこそ使命を果たすべし。
――使命?
そうだ。オラトリオたる汝の使命を。汝は彼らの姿を借りて星に生まれ、ともに暮らし、その愛に触れ、そしていま本来の姿を取り戻した。いまこそ汝の受け取った愛を彼らに還すのだ。彼らの積み重ねた平和への道標――一千の出逢いを、一万の正しい決断を、十万の正しい答え、百万の無償な親切を――すなわち愛を、この星に循環させるのだ。




