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幻代群像 -MystArk-  作者: 水沫ゆらぎ
Lost Memory
32/46

第二話

 プライムシティ一番街。

 螺旋軌道を描いて空に上る風精翼艇から方舟を見下ろせば、ちょっとしたゴルフ場ほどもある馬鹿でかい敷地が嫌でも目に入るだろう。周りのせせこましい集合住宅に生きる庶民に喧嘩売ってんのかと思わせるその土地は、プライムシティの創成期から災害時の緊急避難所として指定されており、有事の際は広く被災者たちに開放されることになっている。

 ともあれ、その広大な敷地に点在する建物のひとつ『来栖館道場』という看板がかけられたあずまやのなかで、カエデはいまひとりの男と対峙している。

 感情の窺い知れぬ、仮面のような無表情。

 墨で染め抜いたような色の剣道着と袴に身を包んだ、幽鬼のような男だ。

 それほどの偉丈夫とは見えない。背もせいぜいがカエデより頭ひとつ高い程度(といっても、カエデのほうは女子一般よりかなり高いが)だろう。しかし男と幾度となくまみえたことのあるカエデは、彼の肉体は極限まで引き締められた最上質の筋繊維の塊だということを知っている。たとえるなら、限界まで絞り切った弓の弦といったところか。

 男の名はセツナ・クルス――カエデの剣の師である。

 道場で向かい合うふたり以外には人っ子ひとりいない。黒塗りの木刀を正眼に構えて機を窺うカエデに対し、セツナは半身で小太刀の木刀を両手に構えたまま微動だにしない。あと半歩、間合いを詰めればカエデの制空圏にセツナが触れる。


 セツナとの稽古は常に実戦形式だ。木刀とはいえまともに入れば骨のひとつやふたつ簡単に砕ける。その凶器をカエデは本気で当てに行き、セツナは寸止めすることで技量の釣り合いを取っている……のだが、それでもカエデは数百を数えるこれまでの稽古で一度も師から一本取れた試しがない。いま彼が動かないのは、『カエデが三手動くまでセツナは攻撃に移らない』というこの稽古の取り決めがあるからに過ぎない。

 静かな眼差し――目の前にいるというのに気配もおぼろ。呼吸すらほとんど読み取れない。ともすれば時間さえも静止しているような錯覚に陥りかねない。

 ……空調の動く音だけが微かに響く。

 つ……とカエデの頬を汗の玉が一滴滑り落ちていく。どこから攻めても撃墜される未来図しか脳裏に描けない。それゆえカエデも剣を構えたまま微動だにできない。しかし動かねば永遠に師から一本取ることができぬのも道理。覚悟を決めて、カエデは最初の一手に移る。

 諸手突き。セツナの喉元へと延びる、正眼の構えで放てる最速の攻め手。

 だが、セツナはそれを予見していたかのようにわずかに身体を傾けた。――ただそれだけの動作で、的を失ったカエデの木刀はむなしく宙を彷徨う。

「2」とセツナが小さく呟いた。残り手の宣告。その感情の見えぬ眼差しがカエデを射抜く。これが戦場なら、体が崩れたカエデの胴を薙いでそれで終わりだ。受けの小太刀さえ使わず、体捌きだけで最速の一手をいなされたことに戦慄を禁じ得ない。


 動揺を押し殺し、カエデは足を使い始めた。前知不能な静止状態からの突きさえ躱す相手に攻撃の予兆を見せることになるが、単独の技で勝機を見いだせない以上、初手を犠牲に布石を打つしかない。

 周囲を目まぐるしく移動するカエデに対しセツナは不動。背面に回ってすら床に根を生やしたように動かない。カエデの一撃など目を瞑っていても対処できるという自負の表れか。カエデとて歯噛みする思いだが、事実その通りなのだから文句のつけようもない。

 何度目かの周回の後、セツナの背後を取ったタイミングでカエデは強く道場の床を蹴った。師へ……ではなく真横への跳躍。タイミングをずらすことで、わずかでもセツナから迷いを引き出せればという一手だが――しかしこのフェイントにセツナぴくりとも動かず。

 破れかぶれの特攻を強く意識させられながら、カエデは気勢を上げてセツナに斬りかかる。「1」袈裟斬りの一撃を後方へ飛んでやり過ごしたセツナに、ぴったりと張りついたまま木刀を握る手首を返す。渾身の燕返しだ。

 しかし――カエデの最後の一撃はセツナの左の小太刀に流され、同時に右の小太刀が首筋に添えられていた。

「――参り、ました」

 辛うじてそれだけ呟くと、セツナはぐっと小太刀をカエデの首筋に押しつけてきた。


「覚悟がまるで成っていない」

 口にされた言葉の響きに、カエデは歯を食い縛って押し黙る。

「俺を殺す覚悟も、俺に殺される覚悟も。……だから小細工に成り下がる」

 返す言葉もない。

 師に殺される覚悟はもとより、己の握る刀がまかり間違ってでも師の真芯を抉ることへの恐怖がなかったかと問われれば……カエデにはそれを否定することができない。

 それを甘えだと、セツナは断じる。

「答えろカエデ。おまえ、何のために俺に師事している?」

「……父の遺志を継ぎ、『朱雀』を継承するためです」

「ならば抜身となれ。命を懸けろ。でなければ、おまえの如き未熟者があれを継承するなど笑い話にもならん。ましてホムラの仇を討つなど、夢のまた夢というもの」

 それだけ言うと、セツナは小太刀を引いて一礼。踵を返して道場から退出しようとする。

「師父、何処へ……?」

「管理局だ。召喚された」

「件の怪人事件の定例報告ですか?」

 あの愚にもつかない合コンで出てきた話題。カエデにとってまったく他人事ではなかった。というのも――眼前のセツナこそ、噂話に出てきた怪人を追う『バケモノ退治の専門家』その人なのだから。


 セツナは管理局が誇る二大幻想種対策組織のひとつ、聖櫃騎士団の最高峰『円卓』の一席を占める特殊エージェントだ。彼らは方舟の治安を脅かすテロリストや非公認幻想種の捜査・根絶を使命とし、それゆえ人員のほとんどが超人的な戦闘力・特殊能力を備えた者たちで構成されている。セツナもまた、剣の道を極めたサムライとして管理局より下される任務に日々従事しており、今回の怪人ブラッドアイの一件を担当することになったというわけだ。

「いや、それとは別件だ。しばらく戻らん」

「な、またですか!? 先月も事件の調査でずっと帰らなかったではありませんか!」

「敵はこちらの都合を斟酌してはくれん」

「お待ちください! ならばせめて、管理局に出向く前にコウに顔を」

「そんな時間はない」

「しかし師父――」

「カエデよ。俺に意見したいなら、せめて俺から一本でも取ってからにしろ。それすらできぬ不肖の弟子の戯言など聞く耳持たん」

 時間の無駄だとばかりに切って捨て、セツナは今度こそ足早に道場から出ていった。

 カエデはひとりうなだれて道場に立ち尽くすしかなかった……。


        *       *       *


「そっか、とうさんまた仕事行っちゃったんだ……」

 呟くコウの横顔に浮かぶ寂しげな色。カエデは思わず目を伏せてしまう。

 食卓に灯された柔らかな明かりの下、並ぶ豪勢な食事とは裏腹に心にあるのは苦い悔恨。

 そう、本当なら師父もこの場で食卓を囲っているはずだったのだ。管理局の任務に日々従事するセツナではあるが、その任務には『後進の指導』という項目も存在する。今日のカエデとの稽古もその一環――常ならば、稽古を終えて迎えるこの時間は、カエデ、セツナ、コウの三名が夕餉を共にする貴重なひとときとなるのだ。しかしカエデに師父を納得させるだけの技量がないために、それが叶わない。

「すまない……わたしが不甲斐ないばかりに……」

「え? そんなことないよ。おねーちゃんが頑張ってるの、ぼく知ってるもん」

 カエデが謝ると、コウはすぐ「寂しくなんてないよ」とでもいうふうににっこり微笑む。

 このとおり、優しい子なのだ。まだ十歳にも満たぬというのに、自分の想いはいつも後回しで他人のことばかり気遣っている。もっと歳相応に誰かに甘えてもいいのに、とカエデはいつも思う。そして甘えさせてやれない自分の未熟を痛感する。

 カエデにとってコウは歳離れた弟のような存在だが――しかしそこに血の繋がりはない。

 実のところ、カエデはこのお屋敷に居候させてもらっている身に過ぎない。けれどコウが赤子の頃からともに暮らしてきた彼女にとって、血の繋がりなどというものはまるで取るに足らぬ代物でしかなかった。生来コウは足が不自由で、何くれと面倒を見てあげる必要があったのもその一因かもしれない。


 実の家族ではないけれど、それでも長い時間をともに過ごしてきたから。

 だからカエデは知っている。夕食のひととき、セツナはいつも無口で、カエデたちの他愛もない話に黙って耳を傾けているのが常だったが、それでもコウは嬉しそうだった。なんといっても父親なのだ。父親の背が手の届く場所にある、その単純な事実が嬉しくない子供などいない。……いるわけがない。特に母親とは言葉も喋れぬ内から死別した身の上とあっては。

「ね、アルもそう思うでしょ?」

《もちろんデス坊ちゃん。カエデサンは自分に厳し過ぎるのデス》

 カエデがひとり内省に沈んでいると、コウが背後に向かって呼びかけ、その声に応えて銀色のハリボテがぴかぴかと目を光らせた。

 内蔵された空気圧アクチュエータから伸びる無数のチューブ、コウに同意する際に発せられた合成音声、そのどちらもがカエデの目の前にいる存在を人間ではないと規定する。

 アルケマトロニクス社製、汎用全自動家事ドロイド『AL-7-74-38551-A.D.2180-11』。

 通称、アル。それがこのハリボテの正体だ。

《ワタクシのデータベースにこんなことわざ、アリマス――急げば回る洗濯機》

「……そんなことわざはない」

《ム、これはシツレイ。洗濯機ではなくメリーゴーランドデシたか。回路の不調デシょうか、最近ワタクシ物忘れが激しいものデシて……》

「…………」


 カエデはアルと喋るときは決まって虫歯を我慢するような、どことなく不機嫌な顔になってしまう。この胡散臭さがどうにも肌に合わないのだ。

 アルがこのお屋敷に来てからそろそろ一年になる。以前はコウの日中の面倒を見てくれる家政婦さんがいたのだが、結婚を機に退職するという話になり、その後釜を探さなくてはならなくなった。セツナは管理局の任務で屋敷を開けている日のほうが多く、カエデも勉学の徒である以上そうそう自由には動けない。かくて苦手なコンピュータを何台も破壊しつつ、やっとの思いで家政婦募集の電子広告をカエデが作り上げた頃……セツナがこのたわけたポンコツを屋敷に連れてきたのだ。

「師父、それはいったい?」と問うカエデに、セツナは一言「新しい家政婦だ」と答えた。

 セツナに師事して以来、その意に初めて真っ向から反論したカエデだが、師はいつもどおりの無表情で「ドロイドは男の浪漫だ」と言い切り、おまけにコウまでもがアルを気に入ってしまった。かくてアルは家事ドロイドとして屋敷に迎えられ、カエデは男の浪漫とは何ぞやという命題にしばらく頭を悩ませることとなった。

 後から聞いたところによると、アルは管理局から供された『自立学習が可能な情動モデル型パートナードロイド(最新型)』とかいう、それなりに大層な代物なのだそうだ。セツナも家の留守とコウを預ける相手としてよく考えての決断だったのだろうが、それでもカエデにとってアルは得体の知れぬ奴であり、その妙な人間臭さを不気味に思わずにはいられない。


《つまりデスね、適度な休憩は作業効率を高メルと統計学的にも証明されてイルと、ワタクシは申したいのデス》

「……常識的な修練で師父と同じ高みに立てるなら苦労はないさ。前に木刀と鉄棒の話、しなかったか?」

《いえ、存じアゲマセンね》

「ぼくも知らないや。ねえねえ、どんな話?」

 アルに聞かれただけなら問答無用で黙殺するところだが、コウにまでせがまれたとあっては無下にもできない。カエデはどう話したものかと頭のなかで筋を組み立てる。

「何年ぐらい前だったかな……。目隠ししたまま飛んでくる林檎を躱す修行を命じられたことがあるんだ。気配を感じ取る訓練のひとつ――制空圏を展開するための基礎だな」

《オゥ、センサーを閉ざしたら何も見えまセン。回避行動は不可能デス、非論理的デス》

「論理がどうとか、稼働から一年で物忘れし始めるドロイドにだけは言われたくないな」

《ノンノン! この物忘れは、最新型パートナードロイドに組み込まれた『機能』なのデス! 人類のパートナーとして開発されたワタクシたちは、人の不完全さを模すことで『個性』の獲得に役立てているのデス! きっと! 仕様書にもそう書かれているのデス! たぶん! 信じる者は救われるので疑ってはいけまセン。アーメン!》


 明日の朝にでも燃えないゴミ捨て場に放り込んでこようか迷っていると、コウが何か言いたげにこちらを見つめているのに気づいた。カエデが無言で促すと、コウは恐る恐るといった調子で自分の意見を口にした。

「でも……アルの言ってること、間違ってないと思うんだけど……?」

「もちろんわたしもそう思った。だから『そんなの木刀で鉄を斬るようなものです』って師父に言ったんだ」

「そしたら?」

「師父はわたしを敷地内の鉄棒のところまで引っ張っていった。それで『よく見ていろ』って一言呟いて、腰に下げた木刀でスパっと」

「斬っちゃったの!?」

「ああ、真っ二つだ」

 カエデは畏怖とともに頷く。実際、あれは秘技と言う他ない。強度で劣る木刀を以って鉄を斬り裂く――それはもはや奇跡の範疇だ。だが、それをいとも容易く実現してみせた師は、目を見開き言葉を失うカエデにこう教えた。


 この世のあらゆる物質には、存在限界を定めた『線』が縦横に走っている。サムライの極意のひとつは、その線の見極めだ。たとえどれほどの強度を誇ろうと、線を斬られれば物質はたちまちのうちに崩壊する。おまえは『木刀で鉄を斬ることはできない』という常識に囚われて、線へと至る可能性に自ら蓋をしていた。そんなものに縛られるな。おまえの常識など、しょせんはおまえのなかでしか働かぬものだ。真にサムライたらんとするなら、魚をさばくように、布に鋏を入れるように、それができて当たり前なのだと五体の隅々にまで刻み込め!


 結局、修行の甲斐あってか人の気配や殺気は感じ取れるようになったが、それでもあのとき師父がやってみせた『鉄斬り』はいまだにできない。足りないのは努力か、才気か、それともその両方か。至らぬ自分。成果の見えぬ時を重ねれば重ねるほどに、焦り、苛立ち、どうにもならない無力感に囚われる。

 ……と、そのときカエデの耳にコウのハミングが届いた。

 水面を跳ねるような軽快なメロディが、揺り籠じみた三連譜の調べの上をくるりくるりと舞い踊る。旋回する旋律がカエデを縛る戒めの手を取った。それらは重なり合い、混ざり合い、螺旋を描きながらカエデを遡っていき……やがてその身をいくつもの飛沫へと変えて、シャボン玉のように儚く弾けて消えた。

 カエデは面を上げてコウの顔を見る。

 心が驚くほどに清冽だった。文字通り『毒の気』を抜かれたのだ。

「コウ……」

「ごめんなさい。……おねーちゃん、ホントに苦しそうだったから」

 決まり悪げに視線を逸らすコウ。


 いつの頃からだっただろう――コウの歌声には天使が宿っていた。

 それは決して大仰な物言いではない。事実、コウの紡ぐ調べは聞く者の魂を揺さぶらずにはおかないのだから。雪が溶けて地面に染みを残すように、その旋律は聞き手のもっとも奥深いところに浸透し、共鳴し、幾重にも反響し――心の壁の内側に眠るあらゆる感情を引き出さずにはおかないのだ。

 もしかしたら不自由な足と引き換えに、神様がコウに与えた贈り物なのかもしれない。そんな奇跡と呼ぶに何ら差支えのないその力を……しかしコウは酷く恐れていた。かつてセツナに対して無自覚に歌いかけたとき、その横っ面を思い切り張り飛ばされたことがあるからだ。

 セツナがコウを叩いたのは、あれが最初で最後だったはずだとカエデは思い返す。あの怒りは明らかに尋常ではなかった。自他ともに厳しい人とはいえ、その厳しさは常に完全なる調和のもとに存在していた。そんな師父の節制が、あの一瞬完全に崩壊した。いったい何がその引き金となったのか、カエデにはわからない。ただ、コウが哀れだった。コウはただ、セツナに愛を歌いかけたかっただけなのに……。

「いや、いいんだ。おかげで気分が晴れた」

「……ホント?」

「嘘を言う理由がないだろう?」


 せめてわたしぐらいはこの子の想いを認めてあげよう。

 そう思っておどけてみせると、見る見る内にコウの顔が喜びの色に染まった。他の誰かの幸せを、自分のモノとして享受することのできる者だけが浮かべ得る、悪意などひとかけらも存在しない笑顔。この世はきっと、コウが思うほどに綺麗なものばかりじゃないのだろうけど。でもそんな現実に負けずに、この子がいつまでも笑顔でいられるといい……そんなことをカエデは思わずにはいられない。

 ――と、そのとき。

《グゥレイト! 思い出しマシた!》

 ネジでも飛んだかのような勢いでアルが叫んだ。空気圧アクチュエータがくそやかましく唸りを上げ、目のランプは激しく点滅――大当たりでござい、とでも言わんばかりだ。さながらパチンコ屋の筐体である。

 呆気にとられて言葉を失ったカエデに代わり、コウが手を上げて質問。

「思い出した……ってことは、アル何か忘れてたの?」

《ハイ、坊ちゃん。ワタクシ、坊ちゃんにお見せしたいものがあったのデス!》

 言うなりガシャンガシャンとけたたましい音を立てて今から出ていくアル。取り残されたカエデとコウは、互いに顔を見合わせて首を傾けるばかり。やがて戻ってきたアルは、マニピュレータに見慣れぬハンディタイプの楽器を抱えていた。


「……電子ピアノ?」

《イエス! 先月、旦那様に倉庫の片付けを命じられマシて、そのとき見つけたのデス。これがあれば坊ちゃんの歌に伴奏をつけられマス!》

「へえ、おまえにしては珍しく粋な思いつきだな」

 思わず感心してしまうカエデ。コウも目を輝かせてアルを見つめている。

「アルはどんなの弾けるの?」

《この本に載っている曲ならどちらでも! 付属のデータディスクを読み込みマシた!》

 そう言ってアルがコウに渡したのは、表紙にピアノの絵が描かれた楽譜だった。電子ピアノと一緒に倉庫で見つけてきたのだろう。それにしてもなんでこんなものが屋敷に……?

「凄いやー! それじゃあねえ……あ、これ知ってる! アル、この『約束の日』っていうの、弾いて!」

《お任せくだサイ、坊ちゃん!》

 そんなこんなで張り切って演奏を始めたアルだったが……居間に広がったのは、脳を廃油で洗浄するが如き不協和音。技術の巧拙がどうとかそういう次元ではない、そもそも曲になっていないのだ。聞いていて酩酊感すら覚えてくる。

《どうデス、坊ちゃん! カエデサン!》

 演奏を終えたアルは誇らしげにアピールするが、もちろん褒めてやれるわけもない。


「う、う~ん……」

「どうデスも何も……全然ダメだ。論外」

《オゥ、そんな馬鹿な!? データどおりにマニピュレータを動かしたのデスが……》

 出来を否定されたのがショックだったのか、排気口から盛大に湯気を噴き出して屈伸運動をするアル。しばらく何やらぶつぶつ呟いていたのだけど、やおら楽譜からデータディスクを取り出して、その表面にマニピュレータを走らせ始めた。どうやらスキャンしているらしい。

 見守ること数十秒、アルが急にデータディスクをぶんぶん振り回し始めた。

《わかりマシた! 原因はこれデス! 領域の一部にデータの破損を確認……これではワタクシ、演奏できマセん……!》

「わぁ、アル落ち着いて! 危ないってば!」

 カエデは無言で腰の得物をアルに向かって投擲――陽電子頭脳入りの丸い頭に木刀が直撃すると、「ゴィン!」という鈍い音とともにアルの動きが止まった。

「まったく……壊れたディスクに八つ当たりしたってどうしようもないだろう」

《申し訳ありまセン……坊ちゃんの伴奏をできないと思うとワタクシ悲しくて……》

 どうして師父はこんなのを屋敷に置いてるんだろう? げっそりするカエデだったが、本気で意気消沈しているアルを見ているうちに、なぜかまた別の苛立ちを覚えて、気づけばこんな言葉を口にしていた。


「別にできなくはないだろ」

《……ハイ? どういうことデス?》

「おまえ、自立学習型って自分で言ってたじゃないか。だったら、弾けるようになるまで練習すればいいだけだろ? 楽譜はあるんだし。そもそもを言うなら、そんな借り物の力で楽しようなんて考え自体が……」

 たるんだ性根を叩き直してやるとばかりに説教を始めるカエデだったが、アルはもう全然聞いていなかった。座っていたコウを抱え上げ、消えた夢の懸け橋をもう一度見つけた喜びにがしゃがしゃ嬉しそうに踊っている。最初はびっくりしていたコウも、肩に乗せられた途端一緒になってはしゃぎ始め、ひとり取り残されたカエデの言葉は喉の奥へと溶ける。

「まったく、人の話も聞かないで……」

 渋い顔でボヤきながらも、まあこれはこれで平和な日々かと、楽しそうなふたりの姿を眺めながら思うのだった。

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