第一話
緩やかに気息を整え、そして潜めていく。
誰にも気づかれないようにひっそりと。小川の流れが徐々に狭まり、いつしか砂礫の隙間へと染み込み、消えていくように。気配という気配を空気に紛れ込ませる。
やがてイチロー・カツラギを、世界から切り離されるあの感覚が襲った。世界は水飴じみた様相を見せ、風精翼艇の窓に映る景色もスローモーションで流れ始める。エアブレーキの鳴く音が周囲の喧騒と混じり合い、さらに幾重ものエコーをまとわりつかせた車内アナウンスがそれを掻き分けていく。
音も、においも、確かにそこに存在するのだけど。しかしそれらは切り離された向こう側の世界に属するものとなり、異様にくっきりした視覚だけがイチローに残された。イチローは右隣に立つくそ喧しいチンピラAの気配を掌握する作業に全神経を尖らせる。
チンピラは二人組だった。他の乗客の迷惑を顧みず、壊れたスピーカーよろしく騒音を撒き散らしているビア樽をチンピラA。その隣、チンピラAを挟んだ向こう側でへこへこしている鶏冠みたいな頭のをチンピラBとする。
たぶん、ロンシャオあたりから出てきたのだろう。一方的にまくし立てるチンピラAの喋りのなかに「一発当てれば」や「俺の店」といった言葉が頻出している。
今夜の標的としてこいつを選んだ理由は明快――八つ当たりだ。人間誰しも機嫌の悪いときというのはあるもので、そこにうるさく喚く馬鹿の手やら肘やらが飛んでくるのだから、多少の怒りがイチローの心中に湧きあがったとて彼を責められる者はいるまい。
おまけにチンピラAは、喋りに夢中になるあまり実に隙だらけだった。そしてイチローは右利きで、仕事をするのに邪魔になる鞄はすでに網棚の上に乗っていて、たまたま左手で吊革を掴んでおり、特に身じろぎすることなく仕事に移れる絶好のポジションを確保していた。……これで見逃してやれというほうが無理だった。
いまやすべての準備は整った。時間は粘性を帯び、周囲の乗客のまばたく瞬間さえ容易に捉えられる。
イチローの身体がぐっとチンピラAのほうに寄ったかと思うと、静止した空間を切り裂くようにその右手がひるがえった。チンピラAの上着の内ポケットに吸い込まれる指。二つ折りの財布に触れるや否や、そいつは水が流れ落ちるようにイチロー自身の安物のスーツへと滑り落ちた。
一○○点満点だ。イチローは口許をほころばせた。風精翼艇の減速に負けて足元がふらついたとしか見えない、完璧な仕事ぶりだった。
やがて風精翼艇は、プライムシティ三番街の外環状駅へと入った。乗客の何人かが乗降口のほうに振り向こうと身じろぎし、その動きが車両全体の乗客へと伝染していく。
エアブレーキの余韻を残して風精翼艇は完全に停止し、契約を終えたシルフたちが紋様から解き放たれて風に溶けた。同時に乗降口の扉が勢いよく開かれる。乗客はゲートの開いた競走馬さながらに一気に押し出され、イチローもその濁流に呑まれるようにしてホームに下りた。そのまま歩き出す彼の背後で扉が閉まり、ゆっくりとモーターの回転音が響き始める。
四番街へと飛翔していった風精翼艇を見送りながら――イチローは今夜の稼ぎを片手に小さく口笛を吹いた。例のチンピラどもの姿はもちろん、誰かの咎めるような視線もない。改札を出た先にゴミ箱を見つけると、クレジット紙幣だけを引き抜いて素早く財布を放り込む。
下準備は入念に、犯行は迅速に、――そして後始末も忘れずに。
風精翼艇三番街の外環状駅から徒歩八分。
イチローの住処はプライムシティの一角、おんぼろマンションの四○七号室である。
すでに日も落ちている。いつもならテナント一階を借り切って二四時間営業しているコンビニで夕飯を買って部屋に戻る……のだが、今日は身体に溜まった毒を吐き出したい気分でもあった。イチローの両足は四○七号室への直行経路から脇に逸れると、駅からの人波でごった返す商店街をすり抜けていく。
冬の夜風に首を竦めながら歩くこと数分。イチローは目的の場所に辿り着いた。
彼のお目当ては、閑静な住宅街の一角に居を構える怪しげなバーだった。
地下へと下りていく薄暗い階段であるとか、愛想のない廃ビルの裏手であるとか、いわゆる『らしさ』を演出するオプションは何もない。ドアの前に掛けてある『SHOT BAR Rainy Day』の看板までなかったら、単なる一軒家にしか見えないだろう。そんな建物のチャイムを鳴らすと、なかから黒ベストに蝶ネクタイという姿の口髭のオーナーが出てきた。
「いらっしゃいませ……って、イチローくんか。一週間ぶりだね」
男は目を丸くしたかと思うと、ニヤリと笑ってお辞儀してきた。イチローは無言で肩を竦めて、案内されるがままなかへと足を踏み入れる。
暖房の効いた店内を仄かに照らし出す赤色照明。正面の壁一面を占めるバックバーには、どこから手に入れてきたのかウィスキーや香草酒、リキュールに至るまでぎっしりと詰め込まれているのが見てとれ……そして年代物のバーカウンターには客のひとりも座っていない。
「相変わらず盛況のようで」
「趣味でやってると、これぐらいがちょうどいいのさ」
イチローの皮肉にも動じず、オーナーはカウンターに入ってキャンドルを取り出した。火を灯してイチローの座った席の前に置き、続いておしぼりを取り出すと、あちちとお手玉をしながら手渡してくる。
「スーツ姿のイチローくんは珍しいね。いつもの革ジャケ以外にも、そんな小洒落たのも持ってるんじゃないか」
「ローゼンでバーゲンになってた安物ですよ。スモークのダブル、ロックで」
「かしこまりました」
オーナーがバックバーから酒を取り出すのを、イチローは見るともなしに目で追いかける。ロックグラスに入れられた丸い氷がからからと鳴る音を聴いて、ふと店内に何の音楽も流れていないことに気がついた。
「オーナー、なんかかけてよ」
「あいにくジュークボックスが壊れちゃっててね。修理に出してる最中なんだ」
「……バーってのは、雰囲気重視の商売だと思ってたんスけど」
いささか憮然としてツッコミを入れるも、オーナーはまるで堪えた様子も見せずに注文の品をコースターに乗せて出してくる。
「たまには店内に染み入る静けさに身を浸すのも、『雰囲気』の乙な愉しみ方じゃないかね? でも、どちらにせよ心配無用かな。おーいナっちゃん、ツマミ揚げたらこっち来てくれー」
オーナーが奥の調理場に向かって呼びかけると、微かに油の跳ねる音のする暖簾の向こう側から《ちょっと待ってくだサイ》と返事があった。
妙なイントネーションだとイチローは思った。まるで音響装置めいた……
「客も来ないのにバイト雇ってどーするんすか」
「最上のサービスをお届けすれば売上は後からついてくるってのがウチの経営ポリシーでね。まあ、黙って待ちたまえ。きっと驚くから」
ウィスキーをちびりとやりつつバイトとやらが出てくるのを待つこと数秒――暖簾を上げる銀色のマニピュレーターに、イチローの目がぎょっと見開かれる。
《お呼びデシょうか?》
イチローはまじまじとそいつを見つめてしまった。
ボーリングの玉にふたつの大型電球を埋め込んだような顔。流線型の胴体にくっついている球体関節からは、大量の黒いチューブが絡み合った人工筋肉の四肢が伸びていて、手首に繋げられたマニピュレーターは、できたてホヤホヤのポテトチップスを入れた小皿を載せている。
そいつはイチローを認めると、ポテトチップスの小皿を出してぴかぴか目を点滅させた。
《お待ちどうさまデス。熱いデス、お客サン気をつけて》
「な、驚いたろう? ウチの期待の新人、ナナシくんだ」
まるで人間のようなシルエットの主は、汎用人造無機知性体――通称ドロイドだ。
もっとも、これは驚くべき事柄には当たらない。人工知能が方舟市民の生活区域に普及して久しく、人々は彼らの助けなしでは満足にお湯を沸かすことさえできなくなってしまったのだから。イチローが驚いたのは、あまりにオールド・エイジめいたドロイドの外装に対してだ。
人工知能機器製造法が『管理局』によって発令されて以降、方舟五大都市で製造される人型ロボットの額には製造工場と製造年月日、それにエミュレーション・グレードという人型の模倣等級を記したマーキングが義務づけられている。だが、ナナシと呼ばれたこのドロイドにはそれがない。これすなわち、マーキングを故意に削り取られたのでない限りは、その発令以前に工場で生産されたドロイドであるということだ。
空気圧制御方式の人工筋肉なんて、もう古物屋を梯子したって見つかるかどうか。ナナシは明らかに時代の流れに取り残された過去の遺物だった。いったいなんだってこんな骨董品めいたオンボロを――イチローは口に出せずに心のなかで呟いてしまう。
「ナっちゃん、こちらの兄さんがキミの演奏をご所望でね。会話の邪魔にならないぐらいの音量で適当に繋いでくれ」
《適当に……と仰られマスと、ワタクシ、少し困ってしまいマスね》
ぽりぽりと顎を掻いて首を傾げるナナシ。イチローはオーナーへと視線を引き戻し、
「オーナー、まさかBGM代わりに彼がなんかやるわけ?」
「そのとおり。こう見えてナっちゃんはプロの演奏家でね、今度のクリスマスなんか中央公園でコンサートやることになってるんだよ」
《よろしければ、お客サンもオーナーと一緒に聴きにいらしてくだサイ。無料招待デスよ》
「はあ」
ドロイドが演奏家という胡散臭さに、ますます眉根が寄るイチロー。
《そうデスね、それではバラードにしマシょうか。おふたりとも、肩の力を抜いてごゆるりとお楽しみくだサイ》
そう述べて器用にお辞儀すると、ドロイドは微かな空気の排出音を残して酒場の片隅へと歩いていった。イチローの知る限り、そこには掛け布のかかったままインテリア置き場にされていた中古のグランドピアノが埋もれているはずだった。
いまグランドピアノに掛け布はなく、その上を占領していた花瓶や調度品の姿も見えない。
ナナシがグランドピアノの上蓋を開けた。
彼のマニピュレーターが、白と黒の鍵盤の上で鮮やかに躍り始める。
イチローは驚愕のあまり、ウィスキーを口許に運んだ姿勢のまま固まってしまった。
ナナシの無骨なマニピュレーターによって奏でられる数多の音の組み合わせは、まるで淡い雪のようにイチローの心の奥深くへと染み込み、そして虜にした。時には深く朗々と、時には細く繊細に。人の心に切なさをもたらす冬のメロディが、酒場に欠けていた最後の調和を満たしていく……
「見事なものだろう?」
口の端だけをくいっと持ち上げた得意げな表情で、オーナーはグラスを磨き始める。
「こいつぁ驚いた。オーナー、いったいどこであんなの拾ってきたんすか?」
「拾ってきた……って言うと語弊があるけどね。半月ぐらい前かな、中央公園に散歩に行ったらにわか雨に降られてさ。慌てて資料館に避難したんだけど、ちょうどそこで雨宿りしてたナッちゃんと意気投合したんだ。まあこの話は長くなるから次の機会に取っておくとして、それよりいまはキミのほうが気になるね。いったいどうしたんだい? そんなの着てビシッと決めちゃって」
途端、イチローの背中にどんよりとしたオーラがのしかかった。
摘まんでいたポテトチップスを噛み砕き、グラスに残っていったウィスキーをぐいっと一息に呷った。燃える水のような熱い液体が喉を通り過ぎ、入れ違いでふわふわした酩酊感が脊髄を駆け上ってくる。
「就職活動ってやつですよ」
苦虫を噛み潰すような面持ちで、イチローはぼそりと呟いた。
「お、イチローくんもやっと真っ当な道を歩いていく決心がついたのかい」
「それが潰えたからここで酒呷ってるってわけですよ。スモークのダブル、ロックで」
「一度や二度の失敗でへこたれるな少年。結果なんてのは瑣末な付属物なんだよ。大切なのはこうするとキミが決めたその意志。それを曲げずに貫いて生きることにこそ価値がある」
オーナーの出してきたニ杯目のウィスキーを受け取りながら、イチローはゆるゆると首を横に振って否定した。
「そんな大層な話じゃないっす。バイトの後輩がそいつにかかりっきりで呑む暇もないってんで、試しにどんなもんかってやってみたってだけですし」
「それだって、何かしら得るモノのひとつやふたつなかったのかい?」
「筋肉痛ぐらいのもんですかね。だいたい、働きたくない人間が働くための面接を受けに行ってる時点で間違ってますよ。明日を生きる金がないわけでもなし、特にやりたいことがあるわけでもなし。遊ぶ金だってコイツでいくらでも――」
イチローはグラスを置いて右手を出すと、人差し指を鉤手の形にしてくいっと動かした。
「――盗り放題。……早い話、頑張らなきゃいけない理由がないんですよね」
オーナーは不意に真顔になってかぶりを振った。
「悪いことは言わないから、早いとこその手癖は直したほうがいい。キミの腕がいいのは認めるけど、それでも世のなかに絶対なんてことはないんだ。たかだか日銭稼ぎにそれを使うのは、いつか訪れる破滅に向けて引き金を引き続ける行為と変わらない。……まあ、私にも覚えがあるからあまり言えた義理じゃないけど」
「知らない婆さんに指折られたんでしたっけ?」
「うん。あのときは死ぬかと思ったねホントに……。自分に盗れないものなんてないとばかり思ってたのに、一瞬にして常識が覆ったよ」
渋い顔で人差し指の付け根をさするオーナーを、イチローは疑わしい目で見つめた。
何度か聞いたことのある話だ。その後、やり過ぎたと思ったらしい婆さんに見舞いに来られて、そこに一緒についてきた娘さんにオーナーが一目惚れ。結局、それがいまの嫁さんなんだそうな。……ンな上手い話があってたまるかというものである。
「あ、嘘だと思ってるねイチローくん?」
「まあ、眉唾ではありますよね」
「そんなことないって。事実は小説よりも奇なりって言うだろ? 後でカミさんに聞いたら、見つかって指折られたのも納得だよ。お義母さん、都市警察のお偉いさんで、バケモノ退治の専門家だったんだと」
「さらに眉唾度上がってんスけど」
イチローは相槌を打つ気力も失くしてカウンターに突っ伏した。
力の抜ける会話の最中にも、酔いかけの脳にとっぷりと沈み込んだ旋律は甘美な誘惑を囁き続けていた。メロディに込められた魔力は幾重にも張り巡らされた壁を溶かし、あるいは擦り抜けていく。楽になってしまいなさい。もう耐えることはないのです。あなたを愛するものがここにいる。あなたの孤独を理解するものがここにいる……
「何かないっすかねえ……俺にも」
どうしようもないやるせなさに囚われて、ふと気がつけばそんな言葉を口走っていた。
オーナーはグラスを磨く手も止めてぽかんとイチローを見つめた。やがて、にんまりとした笑みを浮かべると「恋をしたまえ若人。恋はいいぞ、守る者がいると人生に張り合いが出る」と言った。
「俺は自分の人生だけで手一杯ですよ」
「よし、うちのアマネちゃんをキミにやろう」
「年上のムチムチしたおねーさんが好みです」
アマネちゃんというのは、つい先日五歳の誕生日を迎えたばかりのオーナーの愛娘のことだ。背伸びをしたいお年頃なのか、何かにつけてバーに出入りしており『SHOT BAR Rainy Day』の数少ない常連客であるイチローは、ありがた迷惑にも『遊び相手』認定されてしまっている。「何をアホなこと言ってんスか」との抗弁も虚しく、クリスマスの演奏会に彼女をエスコートすることを無理やり承諾させられてしまい、結局、苦笑交じりの渋い顔でイチローはまたグラスを傾けた。
「ホントに……何かないんスかねえ。俺の人生を劇的に変える何か。なんていうか……押し潰されちまいそうですよ」
なおも言い募るイチローに、オーナーは嘆息して肩を竦めてみせた。
「人生は平穏無事が一番じゃないかね? 上手い酒、可愛いあの子、それにウィットに飛んだジョークさえあれば方舟は進む」
「そして俺は置いてけぼりってわけですか」
「そう悲観するもんじゃない。今日は東へ明日は西へって言うじゃないか」
「元の位置に戻ってません、それ?」
「立ち止まるのも悪くはないってことだよ」
オーナーが何を言いたいのか図りかねて、イチローは無言のまま話の続きを促した。
「周りが進んだ分、違った景色が見えるだろう? それに状況も変わる。そのうち頼んでもないのに、とんでもないトラブルに巻き込まれるかもしれないじゃないか。だったらいまの平穏無事を楽しみなさいって話」
「そんなトラブルがあるなら、是非ともお目にかかってみたいもんですがね」
拗ねたような口ぶりで不貞腐れると、オーナーはしょうがねえなこいつはという苦笑いの表情を浮かべて眉根のあたりを掻いた。
いつの間にやら空になっていたグラスのなかで、からん、からん、と氷が鳴った。