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幻代群像 -MystArk-  作者: 水沫ゆらぎ
緋色の伝書鳩
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第二話

「お待たせいたしました」

 そう言ってウェイターが運んできたアイスココアには、これでもかと言わんばかりの大量の生クリームが乗っかっていた。浮いているというより、まるきりグラスに閉じ込められた活火山のジオラマといった有様である。

 伝票をテーブルの端に置き、慇懃にお辞儀して地上へと降りていくウェイター。その後ろ姿から視線を外して店内を見やれば、程よく空いた客席。カウンターに佇んで携帯端末を弄っている営業マン、ボックス席でお喋りに花を咲かせている女学生たち、資格試験の参考書と格闘しているフリーター、あとは……トレイ置き場の近くの給仕ドロイドが、電子ピアノのケース片手に呆けているぐらいのものだ。

 喫茶 Luft Garten は、その名の示すとおり空中庭園を模した喫茶店である。

 業者と専属契約を結んだ風の精霊たちの働きで、実際に付近を遊覧飛行しながらのティータイムを楽しめるというのがウリで、わたしにとっても大学入学前からの馴染みのお店である。何かに行き詰ったときなど、ここで地上を眺めながらぼうっと時間を潰すのだ。

 今日もまた、空飛ぶ二階席から下界を眺める。見知らぬマンションの立ち並ぶ住宅区域を地上車がすいと過ぎていき、脇の歩道を、寄せては返す波のように人々がせわしなく歩いている。わたしはその光景を見て蟻の行列を連想するのだけど、互いに無関心に進んでいく無軌道振りから考えるなら、むしろファンアートや落書きのほうが近いのかもしれない。


 彼らはどこへ向かっているのか? その道はどこへと続いているのか? そんな取り留めのないことを夢想しつつ、わたしはスプーンを動かし始める。崩れて、溶けて、混ざり合って。切り崩した生クリームを少し舐めとって、束の間の甘さに酔いしれる。

 わたしにだって、このぐらいの喜びに浸る権利はあると思う。今日は朝から予定が狂いっ放しで、ようやくその元凶から解放されたのだから。ペットショップで買った鳩も休憩には賛成のようで、鳥籠の止まり木に足をかけてのんびり構えている。連れ歩いていたときは、鳴きっ放しで少し困っていたのだ。

 頼まれていたスーツを届けると、ハルカは待ってましたとばかりに両手を合わせてきた。

「お願い! 風精翼艇に置いてきちゃった機材入りの鞄、取ってきてほしいのよ」

「……あのねえハルカ。さっきも聞いたけど、あなたいったい何やってるのよ?」

「撮影に決まってるでしょ。某プロダクションに縁故で内定もらったって話、しなかった?」

「おめでとう、初耳だわ」

「ありがと。で、そこの宿題で一本自主制作映画撮ってこいって話になったのよ」

「で、なんでわたしが鞄を取ってくる話になるの? 置き忘れた人に取りに行かせなさいよ」

「それができたらあんたに頼まないって。人手不足で回収のローテも組めないのよぉ。なかなか食いついてこないのよねー」

 そう言うと、ハルカはうるうると目を潤ませてわたしの手を握ってきた。

「あんた、今日講義入れてないでしょ? 一生のお願い! あたしを助けると思って!!」

「……あなたの一生って何回あるのよ……」


 こんな具合のだるいやりとりの果てに、なぜかわたしが『置き忘れた鞄』とやらを取りに行くことになってしまったのだ。自分でも愚か過ぎると思わないでもなかったけれど、でも結局は断るのも面倒臭くなってしまったわたしの負けなのだろう。

 そんなわけで溜息をつきながら風精翼艇駅に向かったのだが、そこでもアクシデント発生。環状路を一回りして戻ってきた風精翼艇を捕まえるのはワケなかったが、ハルカのミストカードから転送されてきたスナップショットを呼び出すと、表示されたのはメーカー生産品の極ありふれたデザインのボストンバッグ。そして網棚の上にはまったく同じ型のバッグがふたつ並んでいて、どちらが目当ての代物なのかわからない。片方の持ち主が近くにいるはずだと周囲を探すも、それらしい人影は見当たらない……。

 もうこのあたりで忍耐袋の緒が切れて、適当に片方を掴んでハルカのところに戻るとちょうどお昼過ぎ。忙しそうな彼女に別れを告げて、やっとアイスココアを飲みながら一息ついているというわけだ。

 噴水の飛沫が着水して水面に広がる波紋を眺めて。

 人工植樹が風になぶられる、微かなざわめきに耳を澄ます。

 目につく光景の一つひとつが、耳に残る響きの一つひとつが、一瞬たりと同じ形ではいられずに変容していく。


 これが生きるということの代償なのだろう。時間は止まらないし、巻き戻らない。どんなにゆっくり流れているように感じても、二度とあの懐かしい日々に還ることは許されないのだ。

 小さく溜息をつくと、不意にテーブルに大きな影が落ちた。

《お嬢サン、落し物デスよ》

 見上げると、影の主は花柄のハンカチを差し出してきた。お手洗いから出てきたときに落としたかしら? そう思ってまじまじとハンカチを眺めるのだが……。

「……それ、わたしのじゃないわ」

《む、おかしいデスね。ガールハントの作法に則ったつもりだったのデスが》

「――――」

 荒唐無稽な展開に、さすがのわたしも言葉を失ってしまった。

 実際、これは異様な光景だった。状況の当事者としても、仮に外から眺めていたとしても。男に寄ってこられるのはいつものことだし、女でもハルカに声をかけられた。けれど。

 ――ドロイドにナンパされたのは、生まれて初めてだわ。

「わたしって、そんなに声をかけやすそうなタイプに見えるかしら?」

《正直に申し上げマスならば、むしろかけ辛いタイプかと推察しマス》

「そうよねえ。じゃあなんでかしら……」


 なんとはなしに小首を傾げると、ドロイドは電飾の目を賑やかに点滅させて言った。

《それはもちろん、麗しい淑女とお昼をご一緒できたらと思ったからでありマス。それにワタクシ、寂しそうな令嬢を見かけると放っておけないのデス》

 目を丸くする、では全然足りなかった。

 もしかしたら、口まで開いていたかもしれない。

 胃の底から、抑えようのない笑いの衝動が込み上げてきた。このドロイドはとんでもない勘違いをしている。ともすれば噴き出しそうになるのを必死に堪え、聞き返してみる。

「寂しそう?」

《心ここにあらずといった様子デシた。ワタクシ、その寂しさを払うお手伝いをできればと思ったのデス》

 もしかしてこれは怒るところなのかしら? 率直ではあるけどあまりにぶしつけな言葉の前に、どんな態度を取るべきか決めあぐねる。

 最近のドロイドは人間とまったく見分けがつかないほど精巧だったりもするけど、眼前の彼はその定義に当てはまらない。無機質で無骨なその外装からは、彼が何を考えているのかまったく窺い知れない。

 普段ならさっさと席を立っていただろうが、今回は相手がドロイドという特異なケースなためか、その先を見てみたいという好奇心のほうが勝った。

 結局、わたしの口から出てきたのは、条件つき歓迎の返答だった。


「……わたしに名前を聞かないこと。それがルールよ」

《互いをよく知るにはまず自己紹介、とオーナーからお借りした本には書いてありマシたが》

「人に名乗るの、好きじゃないの。この条件が呑めないなら相手はお断りさせていただくわ」

《上級編シチュエーションということデスね。了解しマシた》

 よくわからないことを呟くドロイドに席を勧めると、彼は関節部のパーツから空気を排出して腰かけた。ドロイドの持っていたピアノケースが小さく音を立てる。

「てっきりわたし、あなたのこと店員さんだと思っていたわ」

《HAHA! こんなメーカーの保障期間もあやふやなポンコツを雇うのは、オーナーみたいな物好きな人だけデスよ》

「随分と自虐的なのね」

《NO。ありのままの真実というやつデス。それにこのボディはワタクシの誇りデスよ。――ああ、申し遅れマシた。ワタクシ、ナナシと申しマス》

「……名無し?」

《YES。名無しのナッちゃんでナナシ。オーナーに名付けていただきマシた》

 思わず眉をひそめてしまう。わたしの提示したルールに対する意趣返しかとも思ったけれど、どうも目の前のドロイドは本気でそれを言っているように思える。

「どういうことか、聞いてもいいかしら?」


《回路の劣化により、一時記憶領域以外に格納された大半のデータが読出不能になってしまいマシた。ブートセクタに傷がついただけなので、専用のバイナリエディタで修復すれば取り出せると業者の方は仰るのデスが、いかんセん、ワタクシのBIOSが現行のオペレーティングシステムに対応していない型のものデシて、データの復旧には一から機材を集める必要があるとのことデシた》

 いきなり専門用語らしき単語が続出して焦ったものの、落ち着いて話を噛み砕くと大意は取れた。

「ええと……つまり記憶喪失ってことかしら?」

《Maybe……。いまはもう、自分の本当の名前もわかりマセん》

 単なる電子音声のはずなのに、わたしはドロイドの語り口に言い知れぬ孤独の響きを聞いた気がした。身振りも手振りも存在しない、ただそこに座ってぽつぽつ喋るだけの彼の言葉に、思わず引き込まれてしまいそうな本物の感情が宿っている……。

《But……。ワタクシにもひとつだけ、忘れられない記憶、ありマス》

 ドロイドはピアノケースをテーブルに乗せて蓋を開いた。手入れの行き届いた電子ピアノと一緒に仕舞い込まれていたのは、経てきた歳月の永さを思わせる、一枚の古ぼけた写真だった。色褪せたなどという段階はとうの昔に通り過ぎ、かつての形のまま残っているのが奇跡と思えるほどにくたびれた一枚。彼は壊れ物を扱うようにそっとそれを摘み上げ、わたしに差し出してきた。


「この……写真は?」

 あちこち擦り切れているが、どこかの家族の集合写真だというのはかろうじてわかる。立派なお屋敷を背に映る三人――車椅子に乗ったローティーンの愛らしい少年と、その肩を抱いて微笑んでいる和装のお姉さん。男の子を挟んで立っているのはお父さんだろうか?

《失われた記憶の、ただひとつの手がかりデス。ワタクシに残されたのは、この写真と……そして名前も失われた友達との、決して失われぬこの約束――》

 ナナシと名乗ったドロイドは、在りし日の約束を歌うようにそらんじた。

《いつか、あの子が方舟に還ってくる日のために。あの不格好な演奏会の続きをやるために。おまえはずっと、そのへたくそなピアノを弾き続けろ、と。それはワタクシにしかできないことだと、彼女は告げたのデス》

 ――息をすることさえ罪深く思える一瞬。

 ドロイドの紡いだ言葉は、渇き切っていたはずのわたしの心に雨露と化して染み込んだ。

 枯れ果てたと思っていた憐憫の情――その数年ぶりの感触に、わたしは若干の戸惑いと心地よさを覚えて目を瞑る。


 テーブルに舞い降りた沈黙の帳。その静寂の意味を勘違いしたのか、ドロイドは戦々恐々といった感じで聞いてきた。

《退屈させてしまいマシたか?》

「いいえ。……素敵な約束ね、ドロイドさん」

 写真を返して感想を述べると、ドロイドはゆるく首を振った。否定とも肯定ともつかない、絶妙なしぐさだった。

《Oh……。気がつけばワタクシばかり喋ってしまいマシた。麗しき令嬢は、なぜひとりでこのような場所に?》

 攻守交替というわけだ。さっきまでは怖いもの見たさで会話に付き合っていたはずなのに、いまはもう進んで自分自身の秘めた想いを吐露したい気分になっていた。

「ここね、彼との思い出の場所なの」

 黄金の日々に想いを馳せると、鮮やかな色つきの郷愁が胸をよぎった。

「彼、売れない絵描きさんでね。ここから見える風景をとても大切にしていたの。デッサンの技法とか、贔屓の画家の展覧会に行ったとか行かないとか。そういった何でもないことを、ずっとふたりで喋っていたわ」

 それは本当に他愛もないことばかりで……だけど決して手の届かない過去。


《それではワタクシ、彼氏殿に怒られてしまいマスね》

「その心配はないんじゃないかしら。……だって、もう彼じゃないもの」

 器用に肩を竦めていたドロイドが、そのままの姿勢で固まる。

《HaHaHa……》

「…………」

《コ、ココ、コレハ失礼……麗シキ令嬢ニ何トイウコトヲ……》

 どういう構造になっているのか、ドロイドの呟く声までも裏返っている。

「ふふ、謝らなくていいわ。ちょっと意地悪してみたかったの」

 目にはてなマークを浮かべるドロイドに、わたしは忍び笑いしながら種明かしをする。

「わたしは麗しき淑女でも、寂しそうな令嬢でもないわってこと。……もう二歳になる一児の母親です。ちなみにその彼が、いまのわたしの旦那様」

 さらなる衝撃の真実を明かされて、停止と混乱のメビウスの輪に嵌まるドロイド。その滑稽な様子を見ていると、少しだけ罪悪感も――フェアじゃなかったかな――湧いてくるけれど。でも嘘は言っていない。目の前のドロイドに対しても。自分に対しても。

 どうにか折り合いをつけたのか、ドロイドは両手を挙げて降参の意を示した。

《一本取られマシたよ、ミセス。とてもお若くていらっしゃる》

「ありがとう。詩人さん、あなたもとても紳士的だったわ」


 ドロイドは照れたように目を点滅させると、再びピアノケースのなかから何やら用紙を取り出して、手渡してきた。

「これは?」

《パンフレットデス。クリスマスに中央公園でコンサートやりマス。よろしければ、ミセスもご家族と一緒にどうぞ》

 つやつやした黒表紙には、印刷されたさきほどの写真とともに、『Lost Memory』という金箔文字が躍っている。もしかしてバンド名だろうか? だとするなら、これほど相応しい名前もないと思う。わたしはパンフレットを受け取って聞いてみた。

「お友達との約束?」

《YES》

 その答えに一切の迷いはなく。

 それは硝子の刀身のように透き通った、彼の矜持の響きだった。

 もしかしたら――わたしは思った。彼の歌った約束は……遠い世界で起きた本当の、いまなお彼のなかで続いている物語なのかもしれないと。


「素敵な時間のお礼にひとつだけ」

 わたしは席を立とうとするドロイドを見つめて言った。

「忘れられないことってあるものよ? わたしが失くしたものは、もう二度と還ってくることはないけれど――でも、だからかしらね。ずっと、胸の奥で燻り続けているわ」

 遙かな追憶に満たされて、わたしはそっと想いを言葉に乗せる。

 黄金の日々は戻らない。壊れたグラスに水を注いでも、割れた隙間から漏れ出てどこかへと消えてしまう。そんなことはわかりきっていて……けれど、それを選んだのはわたし。あの人の代わりに痛みを背負うこと、それがわたしにできるたったひとつの償いだったから。

「見つかるといいわね、あなたが失くした大切なモノ」

 それが、わたしたちの別れの挨拶だった。

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