第二話
朝夕のミサを終えると、神父としてのクロフォードの一日は終わりを告げる。
神に祈りを捧げ、方舟に祈りを捧げ、そして聖十字を抱く救世主像に祈りを捧げる。
その祈りに意味などないと知っていても、それ以外の生き方をクロフォードは知らない。
かつては彼も神を信じていた。孤児だった彼を救ったのはこの教会のかつての神父で、その人はそれを「神の思し召しである」と説いた。ゆえに神はいつでもクロフォードとともに在り、方舟は彼を包む庭として在り、救世主の像もいつでも穏やかな微笑を浮かべていた。
ずっと続いていくはずだったその日々に迷いを埋め込んだのは、彼の被るペルソナのもうひとつの顔だった。
ミサの後片づけを済ませて食料の買い出しに行くと、もう日が沈みかけていた。
街路樹に括りつけられた人工照明によって、煌びやかな彩りを見せる商店街。いまは仕事帰りのサラリーマンや、パンクファッションに身を包む若者たちでごった返しているが、アーケードの照明が落ちるとともに閑散とし始めるのが常だ。家電製品量販店の前で呼び込みを行っているドロイドの脇をすり抜け、クロフォードはスーパーの買い物袋片手に家路を急ぐ。
喧騒に彩られた人波を縫うようにして教会に戻るのに小一時間。
預かった子猫の世話をさせていたミリアムに礼を言って送り出し、クロフォードは慌ただしく仕事の準備に取りかかる。袋から取り出した鶏肉や色野菜を刻んでは大鍋に放り込み、並行して手鍋に溶かしたバターに小麦粉を分け入れて木ベラで伸ばす。お腹が空いたと鳴くまだ名前もない子猫に缶詰を与えつつ、最後に牛乳を加えてひと煮立ちさせる頃にはさらに小一時間が経過していた。
できあがったホワイトシチューを食器とともに鍋ごと盆に乗せ、クロフォードは聖堂の奥へと続く扉を押し開く。ずらりと並んだ灯火が、一片の光も差し込まぬ廊下をぼんやりと照らし出している。
廊下の奥には信徒の告解を聞き届けるための小部屋があるが、クロフォードは廊下の途中で立ち止まると、おもむろに右手の灯火を取り外し始めた。そうしてぽっかりと空いた隙間に手を突っ込むと、遠くで呪式錠が作動する音が響き――そしてクロフォードの目の前に、階下へと降りていく秘密の通路ができあがった。同時に全身を喩えようもない違和感が包み込む。侵入者を跳ね除ける呪術結界に捕らえられたためだ。
通路に満ちる空気そのものが、クロフォードの生体磁場と相克して逆巻き始める。
クロフォードは目を閉じ、息を止めて結界による走査の完了を待った。程なくして、叛意に満ちた空気からの圧力が完全に収束する。
クロフォードはひとつ頷き、秘密通路へと慎重に足を下ろし始めた。
地下へ、地下へ、螺旋回廊は続いていく。まるで闇の底へと沈み込んでいくように。
どこまでも続く仄暗い道。残された時間はあとわずか。
あの場所へ、あの場所へ、駆り立てられるように足は進む。
汚泥でできた足元のぬかるみから白骨が這い出てくる。骨しかない顔を憎々しげに歪め、恨めしそうに腕を突き出しては絡めとろうとする。
構ってなどいられないから、迷ってなどいられないから、両足はそれらを踏みしだいて征く。剣を突き刺すように容赦なく――ぱきり、ぱきり。その音が鳴るたび、刻み込まれる業。意志そのものを挫く痛み。血がしぶき、苦悶の声をあげて――だが、それでも歩き続ける。両足は動くことをやめない。
背が裂けても。腕が折れても。脾臓を貫かれても。――たとえ心臓の鼓動が止まっても。
――そんな幻想。
気がつけば階下の地面を爪先が叩いていた。クロフォードはそのまま歩みを進め、呪術結界の敷かれた螺旋回廊の外に出る。
背後で絶縁扉がスライド――機械的な施錠音とともに行き止まりになるのを見届けた後、あらためてクロフォードはあたりを見回した。オールドエイジめいた告解部屋への回廊とはうってかわって、柔らかな蛍光灯の明かりに満ちたまっとうな生活空間が視界に広がる。
……闇の底に着いたのだ。
クロフォードは廊下の先に見える木製のドアまで歩いていき、軽めに二回ノックした。
「夕飯の時間だぞ、キリエ」
直立不動で三つ数えてみるが返事はない。
まだ眠っているのかもしれない。クロフォードは一言「入るぞ」と断ったあと、ドアを開いて室内へと足を踏み入れた。
すると「ぼすっ」という効果音とともに、小さな女の子が抱きついてきた。
「お帰りなさい、パパ! キリエ、もうおなかぺっこぺこだよ」
「こら、物陰から飛び出て人を驚かせるのはやめなさい。いつも言っているだろう?」
「えへへ」
精一杯の威厳を込めて叱ってはみるものの、悪びれずに舌を出している少女の前ではまったくの形無し。クロフォードは長続きしない仏頂面を諦めて、キリエをじっと見つめる。
なんと似つかない親子なのだろうな――クロフォードは思った。
刈り上げられた金髪に碧眼、くっきりとした彫りの深い鼻梁のクロフォード。それに対して顔のどこを取っても薄く平べったく、血のように紅い瞳と艶やかな銀糸の髪が背中に落ちているキリエ。
加えてクロフォードはプロレスラーと見間違わんばかりの分厚い骨格を誇るのに、キリエはチャーミングな行動とは裏腹に、どこか病的な弱ささえ感じさせる華奢な身体つきだった。 どこを取っても血の繋がりなど感じられない。
だが、そんなことにはお構いなしに、クロフォードはキリエを慈しんで育ててきた。実の娘にするように、裏表のない真っ直ぐな愛情を以って接してきた。
ちょうど一○年前の冬の日、教会の花壇にひっそりと――それこそ月明かりに咲く宵待草のように、ひっそりと捨てられていたキリエを見つけて以来、ずっと。
「今日はキリエの大好きなホワイトシチューだぞ。たくさん作ったから、いっぱいお食べ」
食器にシチュー取り分けると、鍋のにおいに瞳を輝かせていたキリエが歓声をあげた。ふたりは席について食膳の祈りを捧げ始める。
天にまします 我らの父よ
ここに備えられた 食事を感謝します
これからいただく食事が 我らの血となり 肉となり
御身のために よりいっそう奉仕する力となりますように
方舟には 病気のため 貧しさのため
食べることのできない人々がたくさんおられますが その人たちを哀れんでください
やがて来る 救いの子の御名において お祈りします
最後を「いただきまーす!!」で締めくくると、キリエはさっそく目の前のシチューにかぶりついた。
食事の作法について説教すべきかとも思ったが――湯気の立つシチューと口のなかで格闘し始める娘の姿を見ていると、そんな気もどこかに失せてしまう。
「父さんの料理の腕前もなかなかのものだろう?」
「うん! サンタのお兄ちゃんも食べていけばよかったのに」
「……サンタ?」
予想もしない単語に思わず訊き返してしまう。
「煙突から降ってきて、新しい Wish & Tarot 持ってきてくれたの」
キリエはスプーンを置いてベッドまで駆け寄ると、枕元に置いてあった占い情報誌を拾い上げた。
表紙には確かに Wish & Tarot の文字が躍っており、そしてクロフォードはそのナンバーに見覚えがない。
その小冊子自体は、クロフォードがローゼンから通販で毎月取り寄せている――外に出すわけにはいかない娘の慰みのために――代物に相違ない。だが、その最新号がなぜキリエの手元にあるのか? いつもは新聞受けに突っ込まれており、それをクロフォードがキリエに届けているのに。それに……サンタだと?
ざわり、とクロフォードはうなじが総毛立つのを感じた。極度の緊張に揺れる視線は何かを求めるように宙を彷徨い――そしてキリエの左手薬指の上で止まった。娘の指には禍々しい赫光を放つリングが嵌められている。蛍光灯の明かりを反射しての輝きではない。リングそれ自体が持つ魔力から放出される負の輝き。
それは契約の証。漏れ出る緋色の煌きが、記憶の底に眠る忌まわしい光景とリンクする。
悲鳴と怒号とに彩られた冬の遊園地。
荒れ狂う焔の蛇は、クロフォードの一撃を受けて消し飛び――だがその調伏に至るまでに多くの命が失われた。或る者は爆風に煽られた送迎バスの下敷きとなり、或る者は幻想種に生きながらにして貪り喰われ、或る者はその凶眼によって魂魄を消し飛ばされた。
ITS(インテリジェンス・トランスポート・システム)制御のもと、空を飛んで災害救助に駆けつける警察車両と救急車のサイレンの音。高軌道からばら撒かれる消防隊の呪化合成聖水が、戦火の幻を押し流すように地上へと降り注いでいる。
そして、その涙雨に溶け逝くように横たわるキリエ。
震える両手で抱え上げた腕を濡らす、緋色の――
「パパ?」
愛し子の囁き声が、クロフォードを紅い幻から引き摺り出した。
息を止めて――あるいは心臓の鼓動さえ止めて没入していた。
クロフォードは何気なく気息を整えて、不安そうなキリエに「なんだい」と問い返した。
キリエは少しだけ逡巡すると「パパ、また怖い顔してたよ」と言った。
「パパ、わたしが退院してからいつもそう。ときどきお腹痛そうにしてるの」
クロフォードは不意を打たれて声も出せない。
「わたしは笑ってるパパが好き。幸運は笑顔の素敵な人に訪れるって Wish & Tarot に書いてあったし、それにサンタのお兄ちゃんも言ってたよ? ええとね『セッキャクギョーは笑顔が大切』なんだって」
キリエがぱたぱた傍まで寄ってくる。そしてクロフォードの顔を覗き込むようにして、
「わたし、笑ってるパパのほうが、好きよ?」
もう一度、キリエは一語ずつ区切って、そう言った。
胸元を水でできた鈍器で殴られた思いだった。柔らかなその感触に痛みはない、しかし身体の内側にまで確実に、響く――。
クロフォードは必死に微笑もうと頬を震わせる。教会に訪れる信徒に祝福を約束するいつもの微笑み。なのにクロフォードの表情は変わらない。哀しみを押し殺したペルソナが、べったりと顔面に貼りついたまま剥がれない。
――笑顔というのは、どういう顔だったろう?
まるで帰り道を見失って泣く孤児のような気分だった。
笑い方を忘れて、クロフォードは途方に暮れた。娘に微笑みかける、ただそれだけのことができない。追い詰められたクロフォードは、いよいよ彼に残された最後のモノに縋った。
神よ、神よ、どうか――。
けれど、クロフォードを救ったのは神ではなかった。
真剣に悩み始めたクロフォードがおかしかったのか、キリエが噴き出すように声をあげて笑ったのだ。
それは、まるで奇跡のような一瞬で――。
陽だまりに咲いた花のような笑顔だった。自らの幸せを振りまくことで、世界中に幸せを届けることができると信じて疑わない――そんな絶対的な揺るぎ得ないもの。
あれほどまでに頑なだった自らの頬がほころぶ感触に、クロフォードは驚きと、そして安堵を覚えた。己の腰ぐらいの背丈しかない娘の頭を優しくかき混ぜる。喉を撫でられる子猫のように、キリエは心地よさそうに目を細める。
「キリエはまるで天使みたいだな」
「なんで?」
「迷えるパパを救ってくれる」
クロフォードがそう言うと、キリエはくすぐったそうにクロフォードの服に頭を埋めていやいやをする。初めは照れ隠しかと思ったのだが、すぐにそうではないとクロフォードは気がついた。キリエの指に嵌められたリングが、急速に輝きを失っていく。
「……あれぇ?」
キリエがとろんとした表情でクロフォードを見上げた。
「……どうしてかな……パパぁ……わたし……なんだか眠くて……」
何が起きているのか自分でもわかっていないのだろう。突然の睡魔に抗うことさえ許されず、仄暗い墓所が呼ぶ深遠の眠りへと堕ちていくのだ。
「おやすみキリエ。何も心配することはないんだよ。明日になれば、また会えるから」
「うん……おやすみなさい、パパ……」
糸の切れた人形のように、その場にくたりと倒れ込みそうになるキリエを抱きとめる。その全身はすでに完全に弛緩しており、意識も失われてしまっている。
クロフォードはそのままの姿勢で、腕のなかの大切なモノを強く抱きしめた。風に吹かれて溶けてしまわぬように。そこに確かに在る温もりを感じられるように。
頬を伝う涙がぽたりぽたりと床に零れる。
もう二度と喪わない――クロフォードは思った。
この子の笑顔を守るためならば、私は――…