第四話
爆弾魔こと素を抜いて敵なおじさまとの邂逅から、すでに半日が経過していた。
初めは真っ暗だった窓の外も、うっすらと明るい日差しを帯びてきているのが見て取れる。
いま、この倉庫には地面に転がっているリルカ以外には誰もいない。爆弾魔は早々に『取引先』とやらに出かけてしまったし、ボンクラーズも青い顔を並べて身代金請求のお手紙を投函しに出ている。つまるところ、事を起こすには絶好のタイミングというやつなのだが、それにはどうにかして両手足を縛る戒めを解き放つ必要があった。
両足は太ももまでガムテープでぐるぐる巻かれ、両手は後ろに回されて縛られている。こんな状態では、上体を起こすことさえままならない。
こんなとき、奥様向けスリラーサスペンスものなら大抵カッターナイフが地面に転がっているものだが、残念なことに現実は早々上手くいかない。というより、リルカはいま絶賛大ピンチの真っ只中にいた。
……下腹部がきゅるきゅる悲鳴をあげているのである。
リルカが事の重大さに気づいたのは浅い眠りから醒めた直後のこと。目を覚ますとムカつく顔が軒並みいなくなっていてせいせいしたのだが、すぐに自分がなぜ目を覚ましたのか理解――彼女の生理機能が『Go! toilet!!』と喚き始めたのだ――して愕然となった。
トイレは倉庫脇の事務所にある。ボンクラーズの片割れが、そこに用を足しに行ったのを見ている。しかしこんな手も足も出ない状態では、戸口のドアを開けられない!!
かくてリルカは、全然戻ってこない連中に怨み節を吐きながら戦い続けていたのだ。
二時間前までは、神さまがこのきゅるきゅるを止めてくれるなら、今月のお小遣いを管理局の慈善事業課に全部寄付してもいいつもりでいたのだが、あいにくお腹のなかで暴れる波は治まるどころかさらに酷くなっていく一方。つい一○分前には、泣く泣く自分の寿命を一年分捧げてしまった。この分では、あと五分も経たないうちに家族の命にまで手をつけてしまいかねない。その場合、最初の犠牲者はリルカの姉である。コネでどこだかのプロダクションに内定もらった記念に家族でお寿司を食べに行ったことを自慢された(リルカはそのとき、秘術師養成校の同期たちと卒業前旅行に出かけていて食い逸れたのだ)怨み……。しかし、なるべくならそれは避けたい。人として……。
ともあれ我慢しようと思えば思うほど、意識のフォーカスがそこに当たってしまう。リルカは気を紛らわせたい一心で、バッグに入れてきた魔法の品々の効能を暗誦し始めた。
「ええと……シュブロールの振子。いわゆるダウジングロッドの一派で、精霊たちがどのへんで悪さしてるか割り出すために持ってきたのよね。ESメッセンジャー。精霊交渉用のアプリで、わたしが使ってるのじゃ心許ないからお師匠のこっそり借りてきた。ダメお師匠のくせに、やたらいいもの使ってんのよね。ルタの枝。これで作ったリースを首にかけとくと、魔除けの効果があります。また、煎じ液を飲むと酷い腹下し……ぎゃー! ダメ、ダメ、ダメぇ!! いまのなしぃ!!」
うっかりとんでもないことを口走ってしまい、慌てて取り消そうとするも後の祭り。下っ腹がぎゅるぎゅると蠕動し、ブツ(大きいほうか小さいほうかは推して知るべし)が外に出ようと蠢き始める。が、もちろんそれを許すわけには断じていかない。
リルカは歯を食い縛って耐える。必死の形相で耐える、耐える、耐える……!!
「……~~ッ!!」
永劫のような時間の果てに、悶絶しそうな痛みの波は一時的にどこか遠くへ退いていった。リルカは力尽きて額から地面に突っ伏した。頬を脂汗が滑り落ちていく。
勝ったのだ……ひとまずは。リルカは荒く息を吐いて、この偉大なる意志の勝利を祝った。そして次の瞬間、絶望的な思いに駆られて涙した。次に同じレベルの波が来たら、もう耐えられないかもしれない……。
リルカは囚われの身になって以来、初めて弱音を口にした。
「――も、もうダメぇ……! 助けてドラえもーん!!」
《どなたか、お呼びになられマシたか?》
がらがらがらと窓が開けられて、大型電球をふたつ乗せた無機質な顔が首を覗かせた。リルカの口も半開きのまま固まってしまう。
それはドロイドだった……が、もちろん件のパルプコミックに登場する青いタヌキとは似ても似つかない。あからさまな古臭さを感じさせるオールドタイプだ。
「うわあ、あんたいきなり何なのよ!?」
《フム? その『何』は、どのような意味における問いかけデシょうか?》
「あんた何者? 何しに来たの? なんで窓から出てくるの?」
《オゥ……たった一言に、そのような三重の意味を込めておいでデシたとは。言葉とは非常に奥深い……旧き時代、天界へと続く塔を建てんと試みた人間たちを、神が裁きの雷を以て打ち据えたのもわかろうものデス。ああ、こちら、人間がみな同じ言葉を喋っていたのが不敬に発展した理由デスとして、世界に言葉が散らばったという逸話なのデスが……ご存知デスかお嬢サン?》
「ご存知に決まってんでしょ。伝承とか旧約聖書とか、ウチの学校の必修科目だもの」
《グレイト!! お若いのによく勉強されていらっしゃる。ここでお会いしたのも何かの縁……お嬢サン、ワタクシと近代方舟史の夜明けについて語り明かしマセんか? 互いに見識が広まって、よろしいのではないかと》
「その前にとっとと質問に答えなさいよ。こっちは急いでるんだから!!」
《これは申し遅れマシた。ワタクシ、ドロイド演奏家のナナシと申しマス。今日はアルバイトの予定もなく、こちらをふらふら散歩していたところ、お嬢サンの悲鳴を耳にしたのデスよ。窓からご挨拶しているのはもちろん窓が開いていたからデス。HAHAHA!!》
ナナシと名乗ったドロイドは、何がおかしいのか笑うように顔面のパーツを振るわせた。
《ところでお嬢サン、お名前は?》
「リ・ル・カ・よ! とにかくあんた、せっかく通りかかったんだから、この縄解いて帰りなさいよ」
《フーム。初対面だというのにずけずけとモノを仰るお嬢サン、戒めに手足を封じられている理由、お聞かせ願えマスデシょーか?》
「悪い連中にさらわれて目下囚われの身なのよっ、見ればわかるでしょーが!!」
《オゥ……そのような可憐なシチュエーションに当てはまるレディとは露ほどにも思わず。てっきりワタクシ、『放置ぷれい』なる趣向に興じているのだとばかり。それでは》
ドロイドは《よっこらしょ》と呟きながら窓枠に足を乗せた。黒いチューブが複雑に絡み合ったデザイン。いまどき空気圧制御方式のドロイドなんて、どこの売り場を探したって残っていない。思ったとおりの旧型で、まるきり夏休みの工作課題にでも出てきそうなチープさだ。にもかかわらず、そいつは実に身軽に倉庫に足を滑り込ませてリルカの隣に着地した。
《いやはや、これは見事なぐるぐる巻き……。結び目はこちらデシょーか?》
「ひゃああっ! コラ、変なとこ触るな!!」
《痛っ、蹴らないでっ、フレーム折れマスッ》
かようなやり取りを経つつ、ドロイドはリルカを縛る腕のほうの結び目を見つけると、銀色のマニピュレーターを操って一つひとつ解きほぐし始めた。
遅々として進まぬもどかしい時間。静寂があたりに満ちる。暴れていたリルカも急に押し黙り、ドロイドが戒めを解くのをじっと耐え続けている。というのも、さきほど最後の力でドロイドと問答を繰り広げたせいか、お腹の波がとてつもない奔流となって戻って来ようとしているのを、リルカは明敏に感じ取っていたのだ。
《解けマシたよ、お嬢サ……ギャアッ!!》
手首への圧迫が緩まり、地面に縄が落ちたその瞬間。
リルカはドロップキックでドロイドを踏み倒し、そのままトイレへの最短距離を飛び跳ねていった。
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木漏れ日系BGM……しばらくお待ちください。
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「ふっふーん、こーなっちゃえばもうこっちのもんよ♪」
トイレから出てきたリルカは、両足を縛っていたガムテープの束を地面に放り捨てると、満足げに大きく伸びて屈伸運動を始めた。そんな彼女に、窓の下で正座して待っていたドロイドが恨めしげに一言。
《オゥ……これがかの有名な『踏まれたり蹴られたり』デスか。パルプコミック等にのみ存在する表現手法だと思っていマシたが、まさかこの身で味わうことになりマスとは……》
「あーもー、過ぎたことをうじうじと。乙女の一大事だったんだから、ちょっとぐらい勘弁しなさいよ」
《……乙女……?》
ドロイドが顔を六○度近く傾けて不審の念を表明するも、リルカは取り合わない。
「手始めは、あのダメブラザーズどもを捕まえて血祭りにあげないとねっ」
《ジーザス……もしかしてワタクシ、とんでもない過ちを犯してしまいマシたか……?》
リルカは深刻そうな面持ち(たぶん)で呻いているドロイドに、すっと右手を出した。
「ってわけであんた、なんか秘密道具出しなさいよ。空気砲とか、熱線銃とか、地球破壊爆弾とか」
《申し訳ありマセんが、そのような物騒なアイテムは装備しておりマセん》
「使えないわねー」
《あ、あんまりな言われよう……》
電子音声に哀愁さえ漂わせて……ともかくも、ドロイドは挙手して質問の意を表明した。
《えぇと、リルカサン。そもそもなぜ、このような場所に監禁されていたのデスか?》
「あの最低な連中に騙されたのよう。あいつら『土地が暴れて困ってるから助けてくれー』なんて大嘘ついて、ウチのお師匠をとっ捕まえようとしてたのよ。で、代わりに一肌脱いであげたわたしを騙してこんなところに連れ込んだってワケ。……そうそう、ここどこなの?」
《プライムシティ郊外の放棄領域デス。なるほど、それでこのような人気のない場所に転がっておいでだったのデスね》
ドロイドは器用に腕を組み、両の目玉に当たる大型電球を点滅させた。
《営利誘拐は立派な犯罪デス。然るべきところに届け出て、助力を請いマシょう》
「まあ、それが妥当なとこだとは思うけど……そんな上手くいくかなあ?」
リルカはあたりに視線を巡らせた。地面に転がされていたときには気づかなかったが、色々詰め込んできたバッグはパイプ椅子近くの机上に放置されていた。爆弾魔の眺めていた花火の写真集が、寄りかかるようにして立てかけられている。リルカは写真集を脇にどかすと、バッグを開けて中身を確認し始めた。
「おねーちゃんに借りてきたハイビジョン・カムコーダもあるし、ミストカードもある……。盗られてるものはなさそうね。あいつら、ちょっと抜けてるんじゃないかしら。……あったあった」
リルカはバッグから携帯端末を取り出し、電波状態を確かめた……が、放棄領域であるためかアンテナはひとつも立たない。窓の外を眺めてみれば、打ち棄てられた建材や廃棄路線の残骸がそこかしこに転がっている。枯れ果てた荒野といった様相で、プライムシティの市街区は砂埃の遙か彼方に在りにけり。おそらく爆弾魔たちは、ホバーか何かでここまで移動してきたのだろう。無理ではないだろうが、市街区まで歩いていくのはかなり骨が折れそうだ。
「んー……ここから脱出して、都市警察に駆け込んでる間に逃げられたら元も子もないし、やっぱり連中が帰ってきたところをどうにかしてふん縛っちゃうのが一番かしらね。それに尻尾を巻いて逃げるなんて、わたしの気もおさまらないし」
《末尾が動機の大半を占めていそうなのは、ワタクシの気のせいデシょーか?》
気のせいじゃないの? と、視線を逸らしてしらばっくれて、
「……それにあのダメ・ブラザーズはともかく、その後ろにすっごいのがついてんのよ」
《すっごいのと申しマスと?》
「爆弾魔よ、爆弾魔。いま世間をお騒がせ中の」
《……ええと、先日からライブビジョン等でお茶の間の話題を独占している、あの?》
「そう」
《……ジョークではなく?》
「マジ」
状況が結びつかなかったのだろう。ドロイドは両の目を点滅させた後、力の抜けるような音ともにフリーズ……やがて全身から空気を排出して、自動で再起動し始めた。
リルカはそんなドロイドを無視してひとりバッグ漁りを再開する。もしもいまドロイドに意識があったなら、泡を噴いて逃げ出すこと間違いなしの、恐ろしい決意の片鱗を鼻歌に覗かせながら。
「やられたらやり返す――それがたったひとつのわたしのやりかた♪ まさか何時間もトイレに行けないなんて夢にも思わなかったし……あいつらにはたーっぷりとお灸を据えて、わたしの味わった苦しみの万分の一でも思い知らせてあげないとねぇ?」
リルカは鞄のなかから『それ』を取り出すと、その顔に悪魔のような笑みを浮かべた。