第三話
お仏壇の供え物、カビてるから取り替えるよう言っといてくれないかねえ――と、夢でお婆ちゃんにお願いされている最中にリルカは目覚めた。……あり得る。お母さんってば大雑把だから、去年の夏にお饅頭置いたまま忘れっ放しってのは、大いにあり得る。
さっそく問い質さないと……と、そのときようやくリルカは、自分がロープでぐるぐる巻きにされて地面に転がっていることに気づいた。
「あれ? あれれ? 何よこれっ!?」
両手は腰の後ろで縛られ、両足もガムテープ漬けにされた正統派芋虫スタイルである。
リルカは首だけ振りしきって――いまはそれしかできない――自分の置かれている状況の把握に努めた。ちょっとしたワンルーム程度の空間を、天井に吊らされた壊れかけの蛍光灯がちかちか明滅しながら照らし出しているのが見える。壁の色は煤ぶれた灰色で、背中のほうからはストーブか何かがごうごうと唸る音。どうやらここは個人向けの貸倉庫か何からしい。
「よォ、お譲ちゃん。お目覚めかい」
深みのあるテノールだった。リルカは尺取虫のように伸縮運動を繰り返して反転――足元のほうから聞こえてきた呼びかけの主を視界に入れた。
まず初めに思ったのは「この渋カッコイイおじさま、どちらの俳優さんだったかしら?」だった。座り心地の悪そうなパイプ椅子に器用に腰かけて、右手は吸いかけの煙草を、左手は何かのハードカバーをそれぞれ弄んでいる。リルカからは双眸を見通すこともできない深い色のサングラス、煤ぶれたインナーに身を包んだ体躯は、刃物で不要な肉の一切合財を削ぎ落としたかのように無駄がない。そして面長の頬から鼻にかけても刃物でつけられたようなよぎり傷。ハードボイルドという単語を擬人化したかの如きその風貌、どこか見覚えがある……。
「ええと、……以前にどこかでお会いしましたっけ?」
「ふむ? いや、これが初めての顔合わせだと思うね」
おじさまはそう言うと、リルカに一切の興味を失ったようにハードカバーに視線を戻した。
リルカは納得いかずに眉根を寄せる。違う、初めてじゃない。絶対にどこかで会ったか、もしくは見かけたことのある顔だ。それも極々最近……。喉元まで出かかっている答えが形を成さないもどかしさ。けれど、いまは他に聞いておかねばならないことがある。
「渋くて素敵なおじさま、なんでわたしロープでぐるぐる巻きなのか説明してくださる?」
「あのボンクラーズどもがお譲ちゃん連れてきたときからその格好だったよ」
あのボンクラーズ。
その言葉に触発されて、リルカの脳裏に様々なシーンが再生された。待合室から見下ろした中央公園の景色。ワープポートの受付窓口に並ぶ人の群れ。そうだ、思い出した。わたし、ジャイアンとスネオを連れてロンシャオに出かける最中だったのよ。それで次の発着便を待ってたら眠くなって、それで……
――と、そのとき玄関口と思しき扉が開いた。
「ボス、ただいま戻りやしたぜ」
「おう。ご苦労」
渋カッコイイおじさまは、手元の本から視線も上げない。
戸口から姿を見せたのは、例によってジャイアンとスネオだった。どうやら食料の買出しに出かけていたらしく、ふたりとも両手にスーパーの袋を提げている。
連中の姿を見つけた途端、リルカの怒りが急騰した。
「あんたたちぃ~っ!!」
「お、起きたなクソガキ。へっへっへ、いい格好だな」
リルカは腹筋に力を入れて飛び上がろうともがき――がどうにも上手くいかない。二人組の好奇の視線に晒されながら、ぴょこぴょこ身体を揺するしかないその姿は、まるで二足歩行を夢見て立ち上がろうとしているアザラシのようだ。
「これやっぱりあんたたちの仕業ね! いったい何の真似よ! とっとと解きなさいよっ!!」
「解きなさいで解いたら仕事になんねえだろーが」
「ぜんっぜん意味わかんないわよ。仕事ってロンシャオの土地隆起の霊査じゃなかったのっ」
噛みつくように叫んだリルカに、ジャイアンは意地の悪い顔でこう告げた。
「ああ、あれ全部でっちあげ。作り話」
「……~~ッ!?」
二の句を告げずに口をパクパクするしかないリルカに、買い物袋を机の上に置いたスネオが肩を竦めて苦笑する。
「俺たちの本当の仕事は、リルカさんのお師匠さんをここに引っ張ってくることだったんス」
「あ、あ、あ……あんたたちっ、わたしを騙したのねーっ!!」
「呼んでもないのにおまえが勝手についてきたんだろーが!!」
思わずといった様子でツッコミを入れるジャイアンだが、リルカの耳は都合の悪い事実を聞き入れるようにはできていなかった。彼女の右耳に吸い込まれたツッコミはそのまま左耳から抜けて地面に転がり、そして消えた。
「うあ、こいつ人のツッコミそのままポイ捨てしやがった」
ジャイアンの更なる指摘もまるっと無視。
リルカは身体をくねらせて、どうにか壁にもたれることに成功した。
「お師匠を連れてくるつもりだったなんて……あんたたち、いったい何を企んでんのよ?」
ジャイアンとスネオは、どちらからということもなく顔を見合わせる。
……沈黙。
ふたりは同時に傷のおじさまのほうを向いた。
「「どういうワケなんで、ボス?」」
「……おまえら、少しは脳味噌使ったほうがいいぞ……」
会話に参加していなかったにもかかわらず、妙に疲れた口調のおじさま。
おじさまはリルカへと向き直ると、口直しでもするかのように煙草を旨そうに一服。
「何を企んでいる、ねえ……」
テーブルの上の灰皿に灰を落としつつ、
「お嬢ちゃん、花火はご存知かな?」
「ええと……『たーまやー』とか『かーぎやー』ってやつですか?」
「そうそう、そいつだ。俺はその花火ってやつが大好きでね」
おじさまはにまっとした表情を浮かべた。
「特に打ち上げ花火が夜空に映えるのなんて見ると、本当に心が踊ったもんさ。知ってるかい? 単に打ち上げ花火といってもその咲き方、仕込み方で色々と呼び名もあってな。ま、大別すると三つだな。割物。ポカ物。型物。割物はベーシックなタイプで丸く咲くやつ、ポカ物は割れると不規則に星が散るやつ、型物は呼び名のとおり何らかの形を描くやつだな」
「へえ、詳しいんですね」
「そりゃそうさ、商売道具だしな」
リルカの合いの手に、おじさまは見入っていたハードカバーをひらひら振ってみせた。いったい何の本だろうと不思議に思っていたそれは、なるほどよく見ると花火の図鑑だった。表紙のベイエリアの夜空に、牡丹花火が大きく花開いている。
「夜に沁み込んでいく火薬の匂いも、夜空に敷かれる薄ぼんやりとした煙幕も、やかましいぐらいに耳朶を揺さぶる祭囃子も、何もかもが大好きでね。ガキの頃から、夏になると会場の特等席に陣取って、首が痛くなるまで花火で染まった空を見上げたっけなァ」
おじさまは貸し倉庫の天井を見上げる。その口元には、堪え切れない笑みが浮かんでいる。
「なかでもプライムシティのなんて最高だよな。お嬢ちゃんだって見たことあるだろ?」
「ええと……夏祭りならお婆ちゃんに連れられてよく行ってましたけど。最後におっきな花火があがるやつ……大会提供花火っていうんでしたっけ?」
「そうそう、それだそれ。あの世界の果てに落ちていく火花と灰のオーロラにゃ言葉もなかったね。理屈じゃない、魂が魅せられたんだよ。俺もいつかあんな凄ぇ花火を打ち上げてやる、この感動を俺の手で生み出して他の連中にも味わわせてやるんだって心に決めたもんさ」
喋っていて興奮したのか、おじさまは調子を落ちつかせるようにサングラスを外して磨き始めた。露わになったのは、顔面に刃物で切れ目を入れたような鋭い琥珀色の目……。
「かくて夢だきゃでっかく膨らんだものの、人生ってのはなかなか上手くいかない。俺んちは貧乏だったから、空にでっかく花を咲かせるなんて道楽に注ぎ込む金は、家中引っくり返したって出てきやしなかったのさ。まあこれは市外の人間なら誰だって似たり寄ったりだけどな。みんなその日を食い繋ぐのに必死で、他に目を向ける余裕なんてありゃしねえ」
「――ん、市外?」
怪しい単語が出てきて思わず鸚鵡返しに呟いてしまうリルカだが、おじさまは聞こえていないのかそのまま独白するように先を続ける。一見穏やかではあるけれど、その実、語り口の勢いは留まるところを知らない。余人の介入を許さないその様子は、まるで静かに接近しつつある台風のようだ。
「こいつぁいけねえって思った。だってそんなの不公平じゃねえか。飯食えば腹は膨れるが、それじゃ渇きは満たされない。世界にゃあんな綺麗な魔法があるのに、金がないってだけでそいつを味わうことができないなんて酷い話があるか?
だから俺は、胡坐をかいてこの問題をじっくり考えた。方舟に生きるすべての人間に、あの魔法を知らしめるにはどうすればいいか? いけすかねえ金持ちどもだけじゃない。疎んじられ、虐げられてきた貧乏人にも、脛に傷ある日陰者にも等しく伝えるにはどうすればいいか。で、考えに考え抜いた挙句、花火の代わりにこいつを使って仕事する手を思いついた」
おじさまは新しい煙草を咥えると、懐からライターを取り出して火をつけた。すると驚くべきことに、ライターから炎に包まれた小型の蛇が顔を出したではないか! そいつがちろちろと赤く燃える舌を伸ばして煙草に火を移すと、真っ白な煙が立ち上った。
「うお、変わったライターっじゃないっすかボス」
「イケてるだろ? 躾けるの、苦労したんだぜぇ」
「あはは……」
呑気な会話を繰り広げるボンクラーズとおじさまだが、対照的にリルカの臓腑は一気に冷たい緊張によって支配された。あれは……パイロヒドラだ……! 彼女の使い魔兼お湯沸かし係のピィちゃんと同じ火妖の一種だが、とても凶悪な性格(成体になると緑色の瞳が変質して、目を合わせた相手に狂気をもたらすとも言われている)で人に懐くなど聞いたこともない。
「花火って綺麗だよな? なんでだと思う」
おじさまの琥珀色の双眸が、妖しい光を宿したようにリルカには思えた。
「俺はさ、魂の燃える姿に似てるからじゃねえかと思ってる。みんな焦がれてるんだ。聖書にもあったろ? 神は土塊から人を創り給うたって。あの気取った天使たちと違って、余計なものくっつけて生まれてきたから、人間は自分の魂に触れることもできない。だからその渇きを満たすために花火を見上げるって寸法さ」
一分前まで寝惚け眼だった危機意識がやかましく喚き立てる。
いまやリルカは、はっきりと傷のおじさまから危険な臭いを嗅ぎ取っていた。単に花火が好きなだけのマニアとは明らかに一線を画す『何か』が傷のおじさまにはあった。得体の知れぬという表現がぴったりのもやもやした信号。おじさまをどこで見たのか思い出せない事実が、すぐに致命的な代償を生むであろう予感に責められる。
「涙ぐましい話じゃないか、神さまの設計不良のおかげで俺たちゃいつまでも渇きから逃れられない。こんなちんけな方舟に乗って当て所なく彷徨い続けにゃならん。――まあ、恨み言ばかり言ってもしょうがない。苦難に耐え忍ぶのが現代人の美徳ってやつだろ? オーケイ、つべこべ言わずに任せてください。お手軽簡単手間要らず! 原価無料、送料無料、お代は散ってのお帰りよ。良い子の魂も悪い子の魂も、きっちり咲かして魅せまさぁ――ってな」
丸い玉が破裂するようなしぐさをおじさまがして見せると、ライターから顔を出していたパイロヒドラの幼生体が「キューィ!」と歓声をあげた。
リルカの頭のなかで、断線していた記憶の糸がぴたりとくっついた。
「あああ、思い出した! あなた、爆弾魔じゃない――!!」
倉庫中に響き渡るリルカの叫び声。ジャイアンとスネオは、さきほどの巻き戻しのようにまた顔を見合わせた。
ややあってからジャイアンが口を――
「はは、おまえなに馬鹿なこと言って」
「へえ、俺ってばそれなりに有名なんだな」
――開いたままの姿で、コカトリスに突かれたかのように石化する。
「「……ボ……ボボボ……ボス?」」
ぐぎぎぎぎ、という効果音とともにボンクラーズがおじさまのほうへと振り向く。
「あれ、おまえらに言ってなかったけ? そうそう、俺がその爆弾魔ってやつ。しかし言うに事欠いて爆弾たぁ……ま、いつの世も芸術が理解されるのは死んだ後ってことかね」
ぽりぽりと頭を掻いておどけるおじさま。
沈黙。
「「――――はあぁぁぁぁああっ!?」」
ずざざざ! ボンクラーズはいっせいにおじさまから飛び退った。
「ぼ、ぼぼぼ、ボスが……爆弾魔ぁ!?」
おじさまは特に気にする風もなく、磨き終えたサングラスをかけて楽にしている。
「なんであんたたち気づかないのよ! 少し顔上げて歩けば、街頭のライブビジョンでいくらでもニュースになってたでしょうが!!」
「自慢じゃねえが小銭拾うのに必死で地面から顔上げる暇なんざどこにもなかったわっ!」
リルカが食ってかかると、ジャイアンは唾を飛ばしてそれに反論する。スネオはというとふたりの漫才――もとい口喧嘩に付き合う余裕もないのか、絞められたニワトリよろしく泡を噴いて壁に張りついている。
「プライムシティに来たのも仕事でね。取引先に俺の芸術作品を納品しに来たんだが……お嬢ちゃんのセンセイはそのついでだな。取引先のお偉いさんがちょっとお話したいんだと。俺も詳しいことは知らんがね」
爆弾さえ作れればあとは全部オマケと言わんばかりのその口調に、リルカはふつふつと怒りが湧いてくるのを自覚した。泡立つマグマのようなそれは、あまりにかけ離れた価値観を持つ爆弾魔に対し、半ば安全装置として働いていた恐怖感――人は理解し難い存在に遭遇したとき、無意識の内に怯懦し回避を図る――をもあっさりと塗り潰し、唇を噛み締めるしかなかった彼女の背中を押した。
「いったいどこに爆弾仕掛けるつもり?」
「せめて花火と言って欲しいね。ちゃんと『或る冬の日のクリスマス・ホーリー』ってタイトルもついてるんだぜ?」
「パイロヒドラを街中で呼び出すなんて、いったいどれだけ死人出ると思ってんのよ! 正気じゃないわっ」
「ハハハハ! 結構、結構!」爆弾魔は膝を叩いて爆笑した。「正気のままで辿りつける芸術なんて、たかが知れてるしな」
「素敵なおじさまだなんて、一瞬でも思ったわたしが馬鹿だったわ! あんたなんか『素』を抜いて『敵』よ!!」
「いいねえ、お嬢ちゃん。俺も活きがいいのは嫌いじゃないぜ」
義憤に燃えるリルカの反応を楽しんでいるのか、爆弾魔は面白そうな笑みを浮かべて椅子から立ち上がった。そのまま脇にかけてあったロングコートを着込み始める。
「今頃は秘術師のセンセイとブツを取引先に置いてきて俺の仕事は完了だったんだが、そこのボンクラどものおかげで予定が狂っちまった。ま、狂っちまったもんはしょうがない……おまえら! お嬢ちゃん返して欲しけりゃ身代金寄越せって脅迫状したためといてやったから、それ封して投函してこいよ。俺はこれから取引先に事情の説明してくるからよ」
爆弾魔はぺらぺらした用紙をジャイアンに押しつけると、最後にリルカへと振り向き、
「ってワケでお嬢ちゃん、俺は出かけてくるからここで大人しく留守番しててな♥」
「誰が大人しくなんかしてるもんですか! 覚えときなさいよ爆弾魔、いまにあんたのこと地べたに這い蹲らせて、正義は勝つってこと思い知らせてやるんだからっ!!」
「そりゃ楽しみだ、頑張れよお嬢ちゃん!!」
爆弾魔は愉快そうに笑うと、リルカとボンクラーズを残して倉庫の外へと消えていった。