第二話
下顎を掻いてあげると、彼(あるいは彼女?)は「ごろごろ」と喉を鳴らして目を細める。
身体の大きさから考えて、まだ生後一年にも達していないだろう。背中の星形の黒ぶちが印象的な白猫。けれどその飄々とした面構えには、どことなく知性の煌めきが窺える。お師匠は、そんな子猫を頭の上に乗せて、絆創膏だらけの顔で恨めしげにわたしたちの交流を見守っている。
リルカとしても可愛いペットは嫌いではないから、事務所の新しい仲間として迎えるのにやぶさかでない。けれど、モノには順序というものがある。というわけで――
「一週間も店番すっぽかして拾ってきた掘り出し物がコレですか」
「うっ……、いや、その……」
まずは皮肉を口に乗せてみると、お師匠は頬に汗など垂らしつつ弁解の言葉を並べ始めた。
「ホ、ホントだったらもっとちゃんとしたアイテム引き取ってこれるはずだったんだけどね。先方の都合でなぜかコレに」
「『いや』も『はず』も『なぜか』もいりませーん。だいたいお師匠ときたらいっつもじゃないですか! この前だって、知性杖の契約間違えて切っちゃった女の子に、ただで再契約の段取りしてあげてたし。そんなだからご自身の使い魔にまで『ダメメガネは脳がユルくて困る』なんて言われちゃうんです」
「あうっあうっ」
内角を狙って抉り込むようにジャブを放つと、お師匠は大仰に仰け反って胸を押さえた。子猫が迷惑そうに机の上へと飛び降りる。
どうやら返す言葉もないらしい。たまに虐めてあげないと、すぐに立場を忘れちゃうからこれもいい薬だろう。というわけでここで右ストレート。全体重を乗せて目標をぶち抜くように、打ったコースと同じ線上を同じスピードで引き戻すのが作法です。
「ま、お師匠の実力じゃこんなもんでしょう。最初から期待もしてなかったですから、気に病まなくて結構ですよ」
「しくしくしく……」
かくてお師匠は、応接室の椅子の端っこで膝を抱えて縮こまる座敷童に成り下がったのだけれど、そろそろ飽きてきたのでリルカは次の話題に進んだ。
「で、その絆創膏はいったい何やらかしたんですか」
「もちろんその子に引っかかれたんだよー。♂か♀かわからなかったからさ、仰向けにして調べようとしたらこのとおり」
「そーいうデリカシーのないことするからです。偉い偉い、よくやったぞちびちゃん」
よしよしと頭を撫でると、子猫は「どんなもんだい」とばかりに髭をぴくぴくさせた。
「あ、この子の名前、もう決まってるんですか?」
「ううん、相手の人も自由につけてくれって言ってたよ」
「それじゃわたしが名付け親になってあげます! 命名、ドラえも」
「却下」
「なーんで即答なんですかぁ!!」
「著作権とか色々絡んじゃいそうだからダメですっ。×。NG」
珍しくはっきりと反論してきたので、渋々ながら引き下がって折衷案を提示。
「わかりましたよ。それじゃ休暇中に名前いくつか考えときますから、そのなかからちびちゃんに選んでもらいましょう」
「へ? 休暇中?」
「お師匠がどこかほっつき歩いてる間、わたしずっと店番してたんですからね? なんかティムくんも、他所のバイトで忙しいのか連絡取れないし。もう予定も入れちゃいましたし、まさかダメとは言いませんよね?」
「え、それちょっと困るかも!? だいたいキミがいなかったら、誰がこの子の面倒見」
「言いませんよね?」
――ホントに、もう少ししっかりしてくれないかなあ。仮にもわたしのお師匠なんだし。
リルカはひとつ欠伸をすると、昨日の出来事から意識を切り離して、眼下の中央公園に目を向けた。ガラス張りの待合室の向こう側に、水妖ウンディーネとウォーターウォークに興じる子供たちの姿が視界に映る。
空気の実を膨らませて水上を駆け巡っているけれど、なかのひとつが転げて列からはみ出してしまう。ごろごろごろごろ、どすん。腰に刀を帯びたサムライと、そのサムライに肩車されて笑っている男の子の彫像にぶつかってやっと停止。実のなかで上下逆さまになってぷんぷん怒っている女の子と、その下敷きになって潰れている保護者と思しきお兄さんの組み合わせがおかしくて、つい噴き出してしまう。
「ちっ、今日がどれだけ大変な一日になると思ってんだか。いい気なもんだぜ」
「うっさいわねー、どこで噴き出そうがわたしの勝手でしょーが」
げっそりした様子で隣の椅子に腰かけているジャイアンが水をさしてきた。先日と同じヤクザスーツで、陰鬱なオーラを隠そうともせずに貧乏揺すりを繰り返している。その姿はまるで、雨雲を呼び出そうと苦心する祈祷師のようにも――残念ながら本日は晴天なり、絶好の旅行日和です――見えてくるから不思議だ。
「いきなり含み笑いする女ってのもかなり不気味なもんだよな」
「貧乏揺すりで雨乞いしてる男ってのもちょっと危ないわよね」
「へっへっへ」
「ふっふっふ」
ふたりの間に渦巻く険悪な空気を察したのか、近くにいた他の旅行客たちが、揃って用事を思い出したかのように席を立つ。結果、待合室のなかでリルカとジャイアンの周囲だけがぽっかりと空いてしまう。
さて、なぜジャイアンがこんなにも情緒不安定なのかというと、それはもちろん件の依頼にリルカを連れて行くハメになったからである。
一週間前、まるで暴風雨のような試練の荒波を越えて、やっとの思いで目的地に辿り着いたと思ったら肝心の秘術師の姿はなく。おまけにどういうわけか、見習いのほうが話を聞いて張り切り始めたからさあ大変。説得にも耳を貸さず、懇願も足蹴にし、道理を説いてもポイ捨てする。「理不尽が服着て歩いてやがるっ!!」と心のなかで悲鳴をあげたジャイアンを誰が責められよう? かくて流されるままに首を縦に振らされて、 いまは仲良くロンシャオ行きのワープポートで、次の発着便を待っているという有様である。
ジャイアンからすると、こんなのはまったくの予定外なのである。
『依頼主』からの用件は、あくまで件の店の店主を引っ張って来いというもので、その弟子の話など欠片も出てきてはいない。そしてこれがジャイアンにとって一番切実なところなのであるが、今回の仕事はガキの使いではないのである。しくじると本気で首が――もちろん比喩でも何でもなく――飛びかねないのだ。それゆえにジャイアンの嘆きは深い。
一方のリルカは終始ご機嫌。ジャイアンの不安もどこ吹く風といった按配である。
来る日も来る日も、身の入らない雑務ばかりをこなしている毎日に飛び込んできた非日常。秘術師の力を借りに来たジャイアンとスネオ――結局、リルカは連中の名前をこれで確定させてしまった――をお供に謎の怪異に挑むわたし。これにわくわくしないで何にわくわくしろというのだ。リルカの気分はすっかり摩訶不思議アドベンチャー状態なのである!
その証拠に、今日の彼女はアカデミーの制服ではなく、貸衣装屋で借りてきた風水師の術師服――ロンシャオではこっちのほうがウケがいいと思ったのだ――に身を包み、おまけに彼女の旅行用鞄のなかには、この日のためにお店から抜いてきたアイテムがごっそりと詰め込まれている。
ノビタくんこと我が家のお師匠に黙っての作戦決行なので少しばかり良心も痛むけれど、今回の一件を逃す手は絶対にない。現状の安寧に浸かり続ければ、その分だけ夢の実現から遠ざかっていくのは確実――そんなことは、お師匠が持って帰ってきた掘り出し物を見れば明らか。いまは黙って行動あるのみ!!
そんなこんなでリルカは燃えに燃えていたのだが、ちょうどそこに次の発着便の予定を調べていたスネオが戻ってきた。
「スネオさん、おかえりなさい。どうだった?」
「発着はもーちょい先っすね。とりあえず飲み物買ってきましたよ」
「あら、気が利くじゃない」
ホットココアのカップを受け取って啜ると、程好い甘味が喉の奥へと流れ込んだ。
ただ待っている時間ほど退屈なものはない。昨日、柄にもなく遠足気分で目が冴えて眠れなかったせいか、今頃になって眠気が取れずに困ってしまう。もしかすると、椅子の座り心地のよさも一役買っているかもしれない。リルカは眠気覚ましも兼ねて、これから向かう目的地について、ふたりから情報を集めることにした。
「実を言うと、ロンシャオ行くのって初めてなのよね。どんなとこなの?」
ジャイアンとスネオはしばし顔を見合わせ、
「一言で言えばカオティック。猥雑、雑多、無秩序。ここプライムシティとは正反対っス」
「俺たち華僑が切り開いた自慢の都さ。白と黒の境界も曖昧なアンダーグラウンド、おかげで空まで空きチャンネルに合わせたTVの色とくらぁ。ちっと裏路地行くと拳銃の弾があちこち飛び交ってたりするけど、商売繁盛のためにゃ自分のカアチャン質に入れるような図太い連中ばかり。どいつもこいつもしぶとい。それにな、あまり大きな声じゃ言えねえが……『市外』の連中が姿を見せるのなんてロンシャオぐらいのもんさ」
超大型浮体式構造物、方舟。その基底部に広がる隔離都市……それが市外だ。方舟五大都市層から外れた都市であるがゆえの呼び名で、かの地では法の庇護が存在しない。その本来の名称は廃棄層――言わば、管理局指定のゴミ捨て場である。管理局の治安維持法に触れた思想犯罪者等の島流し先であり、一度落とされれば二度と戻ってはこれない……という話になっているのだが、やはり何事にも抜け道というのは存在しているらしい。
「話には聞いてたけどホントに物騒なとこなのねえ。ウチのアカデミーって精霊交渉の実践で課外授業とかやるんだけど、ロンシャオが候補地にならないのってそれが理由なのかしらね。でも、話だけだとちょっとイメージ湧かないわね」
「あ、俺いいモノ持ってますよ」
スネオが鶏冠を揺らしながらビジネスバッグを漁ると、なかから『方舟ナビ ~ ロンシャオ編 ~』が出てきた。差し出されたそれを受け取って捲ってみると、都市建設に風水的思想を取り入れた異郷の街並みが図解入りで紹介されていた。
四角四面のビルや立体交差路が立ち並ぶプライムシティとは、建築物の様相からしてまったく違う。あたり構わず屋台や出店が立ち並んでいて、軒先に並んでいる品々も酒や食料はもとより、護身用の電磁ロッドや銃器に箱一杯に詰め込まれた違法ソフトウェア、果ては寿司バーなんてものまで映っている。
景色は総じて薄暗い。豆電球のようなか細い明かりに照らし出されている。空は灰皿から零れ落ちた退廃の色――ジャイアンの言ったとおりだ。
「ここと違って清浄化装置が何世代も前のオンボロだからなあ。街のそこかしこで排気ダクトがごうごう音立ててるけど一向にラチが明かん。管理局も半ば匙投げてやがるのか、新しいのに取り替えようって話もとんと聞かねえ。おかげで最近はあちこちの屋根で、グランフォレストから仕入れてきた花やら植物やら育てるのがトレンドになってるな。排気煙を吸わせてリサイクルだと」
「ふーん、今度ウチのプーカにもその話教えてあげよっかな。最近のプライムシティは、ごみごみしてて鬱になっちゃうよとか言ってたのよね……って、あーっ!」
そこでページを捲るリルカの手が止まった。彼女の目に飛び込んできたのはこんな見出しだった。
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爆弾魔、ロンシャオの北仁商店街に爆破予告。プライムシティの予告と同一犯か!?
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「うわー、ロンシャオにも出たのねコイツ」
「そーなんすよ。おまけに北仁商店街って俺っちの地元ですし……ちょっと勘弁っすねえ」
スネオが萎れそうな声でそんなことを呟く。
この爆弾魔という単語、実は今週のオンライン検索サイトに打ち込まれる、上位常連キーワードだったりする。
このところ方舟各地で怪しい事件――たとえば先週の二番街で起きた幻想種災害(ちょうどジャイアンたちが店に入ってきたときに目を通していたニュース)――が相次いでいるが、爆弾魔というのもこれの類で、つい最近、風精翼艇に時限解呪式の炎蛇爆弾を仕掛けたという犯行声明が各種TV局に投書されるという事件があった。
結局は性質の悪いイタズラ予告だったのだが、それでも都市住民が不安に陥れられたことは間違いない。事件というのは実際に巻き込まれてみないとなかなか実感も湧かないが、それでも最近はそのための当たり籤が手の届く位置まで降りてきて他人事ではなくなってきているとリルカも思う。こいつらとロンシャオくんだりまで出かけることになっているのが、いい証拠ではないか。
「あら、あんたたちでもそんなこと思ったりするんだ」
「なんだその『あんたたちでも』ってのは。おまえ、俺たちを何だと思ってやがる」
「社会の害悪。ごくつぶし。ダメブラザーズ。てっきりテロとか起こす側の連中だとばかり」
「おまえなあ……。ヤクザってのは義を重んじ、弱者を助けて強きを挫く任侠の人なんだよ。間違っても堅気の連中に手出すような真似なんぞするか馬鹿たれ」
「ふーん?」
疑いの眼差しでジャイアンを見つめて、残っていたココアを飲み干すリルカだったが、一向に眠気は覚めてくれない。それどころかいまにもまぶたが閉じてしまいそうだ。ああ、一昨年の暮れに死んだミルカお婆ちゃんが、川の向こうで手を振っているのが見える……。
「ふあーあ。……ねえ、次の便が来るまでまだ時間あるのよね? ちょっとわたし寝るから時間になったら起こしてちょーだい」
「お子さまはオネムの時間ってやっちゃな」
「あんたも突っかかるわねー。一眠りしたら相手してやるから覚えてなさぃ……」
捨て台詞を吐き終える間もあらばこそ、リルカは眠気に負けて夢の世界へ旅立っていった。そんな彼女の様子を伺うダメブラザーズ。互いに顔を見合わせると、
「……寝たか?」
「……寝ましたかね?」
ぺちぺちリルカの頬を叩いて、起きる気配がないのを確認してようやく安堵の溜息。
「小生意気なクソガキめ、次に起きたときの顔が見物だな」
「とりあえずボスのとこ帰って報告っすね。ああ、気が重いなあ」
次の発着便が着て待合室から人気がなくなるのを見計らった後、ふたりはリルカにさるぐつわを噛ませてロープでぐるぐる巻きにすると、旅行用の大型鞄に放り込んでそのまま彼ら本来の目的地へと向かうのだった。