トラウマ
「悪い。まだ、終われそうにないんだ。こっちに来られるか?帰りはクルマで送るから―」
川原からの電話で、麻里は電車で自宅とは反対方向へむかうことに。帰宅ラッシュと重なり、車内は混雑している。待ち合わせの駅までは乗り降りが激しく、乗客は減る気配がない。でも、次の駅でやっと外の空気が吸える―。
電車が減速をはじめ、ホームに到着する。いざ降りようと思った瞬間、乗り込んだ方とは、逆の扉が開いてしまった。麻里はパニック状態になりつつも、
「すみません! 降ります!」
大声をあげて、なんとか通してもらうことができた。電車から降りて、出口を目指す。すると、改札機のむこうに川原の姿が見えた。麻里はホッとして川原の元へ駆け寄ったが、あまりの緊張感で、ふらついてしまった。川原は、慌てて麻里を抱き止める。
「大丈夫か!?」
「………」
麻里をクルマまで連れて行くと、川原は急いで自動販売機でお茶を買って戻って来る。
「ほら」
ペットボトルのフタを開けて麻里に渡した。
「ありがとう…」
麻里は、お茶を一口飲むと、大きく深呼吸をした。
「学生のころ…、人混みで通り魔に襲われたことがあって」
「…そうか」
麻里はそのとき切りつけられた左肘の傷痕を見せた。
「それ以来、人混みが怖くなって…」
「ごめん。俺が呼び出したから」
「ううん。でも、はじめての場所は、やっぱり緊張しちゃって」
麻里は川原にもたれかかり、
「…早く、会いたかったから」
とつぶやいた。川原は麻里の肩を優しく抱いて、
「今日は家で過ごそう…」
そう言って、麻里を自宅へと連れて帰った。
「どうぞ」
「…おじゃまします」
川原の部屋は、わりと整頓されていて、家具はモノトーンで揃えられている。
麻里はソファーにチョコンと座っていると、川原が、キッチンからコーヒーを淹れて持ってきた。
「ほら」
「ありがと…アチッ!」
「こっちへ」
川原は、急いで麻里をキッチンの流し台へ連れて行く。
「ごめんなさい。手が震えて…」
「大丈夫か?」
「…うん」
タオルで手を拭いていても、まだ手を震わせている…。川原は、そんな麻里を強く抱きしめた―。
プルルル プルルル…。
枕元にあった川原の携帯電話が鳴る。
「もしもし。―あぁ、わかった。すぐ行く」
麻里も起き上がろうとすると、
「あ、いいよ。寝てて」
川原はシャワーを浴び、身支度を整えていた。ネクタイを締め、髪もキレイにセットすると、
「送ってやれないから、明るくなってから帰るんだ。これ。失くさないでくれよ」
と、麻里に合鍵を渡した。
「うん。いってらっしゃい…」
川原は麻里のおでこに優しくキスをして、出掛けて行った。