第十八話 義手
「えっ」
目を剥いてたじろぐサウジーネの姿が、みるみる間にぼやけていく。
「ひかるちゃん、なんで泣くのっ? いたいの? アタシ、わるいことしたの?」
そうじゃない、違う、と言ってやりたかった。だが、首を振るので精いっぱいだった。
目をギュッとつぶると、しずくが頬を流れ落ちるのを感じた。
「光さん、大丈夫ですか?」
「ど、どうされましたっ? もしや、私が何か不手際を?」
アミィとゼパールの声にも、うつむいたまま、首を振った。
「おいおい、なんだよ? お前ぇ、酔ってんのか?」
メフィストの声も、がさつな足音と共に近づいてくるが、同じようにただ、首をふるふる振って応える。顔を上げられるわけがない。
石のように固まっていると、思った以上にすぐ傍から、舌打ちの音がした。
「ったくよぉ。今更取り繕っても、遅ぇってんだよ」
いらついた声と同時に、腕を掴まれ、引っ張られた。体温高いなこの子、赤ちゃんみたい、などとぼんやり考える。
そのまま、彼にされるがまま引きずられた。ただ一度、サマーセーターの袖口に目を押し付けて、涙を拭う。
がに股のメフィストにずるずると連行された先は、店の奥のカウンターだった。
改めて見渡せば、店内のテーブル席は全て、椅子が上げられていた。
代わりに、昼間は滅多に使われないカウンターにだけ、丸椅子が並べられていた。
不安げな表情をたたえるゼパールの隣へ、無理矢理座らされた。
「ったくよー。中身はお子ちゃまの嬢ちゃんもいるってぇのに、グダグダ酔いやがって。教育に悪ぃじゃねぇか!」
「メフィストよ」
ジョッキを降ろし、静かな表情になったゼパールが、メフィストをひたと見据える。
「……なんだよ」
「サウジーネさんを気遣う慈悲は見事だが、宿毛さんも相当、意気消沈のご様子だぞ?」
「んなもん、見てりゃ分かるよ」
「それならば、もう少し穏やかな言葉を選び、落ち着いた物言いをするべきではないか? そもそも、君のぺらんめぇ口調と怒鳴り声も、教育にはよろしくないと思うのだが」
キリリとしたゼパールの視線に、うるせぇ!と、怒声がぶつけられた。
「どうせ俺ぁ、お前さんと違って、お育ちがよろしくねぇんだよ!」
二人の無益な応酬を傍らで聞いていると、幼き頃の自分と、両親の姿が想起された。
幼少期、母に正座をさせられては、よくお説教を受けていた。そうやって母がガミガミ叱っていると、なだめるように父が割って入る、というのが宿毛家の通例だった。
もっとも、母はここまで口は悪くなかったし、父もマッチョではなかった。むしろガリガリだった。
「ほらよ」
呆けていると、グラスに入れられた氷水が、カウンターに置かれた。
メフィストが酒瓶を置いている棚にもたれ、苦い顔になっている。
「サウジーネを預けなきゃいけねぇのに、ベロベロ状態じゃあ安心出来ねぇだろ。さっさと酔い醒ませってんだよ」
サウジーネのお預かりは、決定事項なのね。
グラスを両手で包み込んで、一応、小さく頷いた。そのまま一口水を飲むと、いつもと同じ、ほのかに漂うレモンの香りが口中に広がった。
ほぅっと、安堵の息がこぼれる。
「落ち着かれたようで、よかったです」
ゼパールの笑みに、弱々しくだが、笑い返した。
ワカメのような髪をかき回し、メフィストがこちらを覗き込んだ。幼さの残る鋭利な顔を、小難しそうにしかめている。
「でもよ、そんな酔ってる様子でもねぇな……」
カウンターに頬杖をついたまま、しげしげ眺められるのは、いい気がしない。
「……あまり、見ないで欲しいんですが」
しっしっと手を振り、凄んだが、あっさり流された。
「いきなり無音で泣き出した奴が、どうこう言えた立場かってんだよ。……悪酔いってぇか、外で痛い目でも見て来たか?」
少し和んだ心が、途端に時化に入った。
無言はこの場合、肯定とみなされる。
にやり、とメフィストの表情が悪魔的になった。やはり彼の本性は、いじめっ子である。
「あれだろ、お前。慣れねぇ合コンで、やらかしたんじゃあねぇの?」
「まさか、光さんに限ってそんな」
有り得ない、とゼパールは笑って否定したが。
図星である。
「……私だって」
「んぁ?」
「うむ?」
上半身を起こし、メフィストが眉を寄せる。
隣のゼパールも、姿勢を正した。
「私だって、好きで、こんな、可愛くない見た目に、生まれたわけじゃないもん!」
後日冷静になって思い返せば、頭を抱えて悶絶するであろう絶叫を上げた。それも、皆がこちらを伺っている場面で。
私が怒涛のわめきを上げる中、メフィストもゼパールも、遠巻きに様子を見ていたアミィとサウジーネも、一様に固まっていた。
「別に、好きでデカくなったわけじゃない! 好きでキツい顔になったわけじゃない! 本当は小さくて、可愛くて、ふわふわした女の子になりたいもん! なのに、男見下してそうとか、すぐヤれそうとか、何で勝手に判断されなきゃいけないわけ?」
吐き出すほどに、煮えたぎった心が加速していく。
再び涙が溢れて来るのと同時に、手にも力がこもっていった。
「メカっぽいって……何よ、それ。勝手に人となり決めつけてんじゃないわよ! デカいからって、勝手にモデル体型扱いとか、逆に迷惑なんだから! 私、あんなガリガリじゃない! 鍛えてるもん! そもそも元はと言えば、向こうが店員さんに絡むから……!」
ゼパールが無言で、メフィストの脇腹を小突く。
「あー……ほら……」
なだめるように、メフィストが手を挙げた。
「分かった、分かったからさ。ちったぁ落ち着けって」
「分かったって、何が!」
困り顔に笑みを貼りつけた彼を、ギリリとねめつける。
「えっと……」
「だから、何が! 分かったの!」
「いやー……、正直に言っちまうと、支離滅裂すぎて、全然意味分かんねぇな」
「なら、適当に答えないでよ! どうせ聞く気もないくせに!」
ヒステリックな拒絶に、メフィストの顔色も途端に曇る。
「おい。どうせって何だよ?」
「こら、お前まで興奮してどうするんだ」
「うるせぇ!」
今度はメフィストが、なだめようとするゼパールの頭を殴る。しかし、鋼鉄の皮膚に競り負け、手の甲が出血する。
血の吹き出す手を振りかざし、メフィストはわめいた。
「ってぇー! ほら! 怪我しながらも、健気に聞いてやってんじゃねぇか!」
「怪我は自業自得でしょ! デカ女の愚痴なんて、興味ないくせに!」
ヒステリックに無意味なことを問い詰めるのと同時に、ガラスの割れる、甲高い音がした。
握り締めていた、グラスの割れた音だった。氷水が、手の甲・指を伝ってテーブルへ流れ落ちていく。
ゼパールが、目と口をあんぐり開けている。
ひゅっと、メフィストの喉の奥で、音が鳴った。そして口を大きく開き、
「てめぇ、何してやがんだよっ!」
怒声と同時に、こちらへ身を乗り出す。グラスの残骸から、強引に私の両手を引きはがした。
「お前ぇはゼパールか! てめぇの手なんだから、少しは労われってんだよ!」
「そうですとも、光さん。ですから私は、常にこの、大ジョッキを使っているんですよ」
「うるせぇ! 呑気にアドバイスしてん、じゃ……」
両手に刺さったガラスの破片を摘み取りながら、異常に気付いたらしい。
そうだろう。触って、間近に見れば、どれだけ精巧でも分かるはずだ。
手を見つめ、次いでこちらへ、赤い瞳が向けられる。
いつも強気なその目は珍しく、困惑で揺れていた。
「義手、両方とも」
つい、すねた口調になった。やはり酔っているのだろうか。