第十七話 ボケナス
レメゲトンの玄関には、「CLOSED」の札がかけられていたが、灯りは点いたままだ。そして、中から複数人の声もする。
「急にお呼びしてすみません!」
ドアを開けると、感極まったようにアミィが走り寄って来た。その後ろには
「あれ、サウジーネ?」
同僚がマンションへ送ったはずの彼女が、なぜかアミィにくっついていた。
「と、ゼパールさん?」
よく見ればカウンター席に、ビールの大ジョッキを携えたゼパールも座っていた。
今日も純白のタンクトップ姿だが、その清潔さが、今はとても目に痛い。
その高露出好青年が、ジョッキをカウンターへ置き、こちらに向かって深々と頭を下げる。
「お久しぶりです、光さん。先日は、どうもお世話になりまして」
「いえいえ。こちらこそ、警察の手配ぐらいしかお役に立てず」
未だ沈みがちな頭を振って、慌ててぺこり、とお辞儀を返した。
「それで、えーっと、皆さん、閉店してるのに、どうしたんです?」
一つにまとめた髪を蒲公英色に変えながら、アミィがため息をつく。
「サウジーネちゃんが、一人であのマンションにいるのは怖いって、こっちに戻ってきちゃいまして」
「あら」
サウジーネを見下ろすと、ばつが悪そうに、緑色のジャージをつまんで身をよじっていた。媚びの見えない、幼児の仕草である。
「だって……いっつもだれかといっしょだったから」
アミィが優しく、彼女の肩を抱いた。
「お店にいた頃は、同僚の方にずっと、添い寝をしてもらっていたらしくて。ホテルに隠れていた時は、モンペリエの女性スタッフが夜間、付き添っていたんですが……」
「プランシー社様に引き取られちゃあ、そういうわけにもいかねぇってわけだ」
厨房から出てきたメフィストが、ふん、と鼻を鳴らす。
「野郎をお持ち帰りしてる暇があんなら、サウジーネをどうにかしてやれってんだい」
腕を組み、こちらをじろりと見据えてくる。
普段なら受け流すメフィストの減らず口が、なぜか今は目頭と鼻に、ツンとした痛みを与えた。惨めさや情けなさが、彼の粗野な言葉によって引き出される。
「こら! メフィストよ、女性になんて物言いだ!」
ゼパールが変わって、巨大な拳を彼の頭に沈めてくれたのが幸いだ。
首がめり込まん勢いでげんこつを喰らい、メフィストはたまらずしゃがみ込む。
「ってぇなぁ! なにしやがんでい、このボケナス!」
「だまらっしゃい! 正義の鉄槌だ! ついでに言えば、ナスにはな、ボケナスなどという品種はないのだ! ボケという名の花はあるがな!」
「知るかよ、お前の園芸豆知識なんざ!」
「なお、ボケは花を愛でて良し、実を食べて良し、の素晴らしい植物である!」
「だ・か・ら、興味ねぇ! もうお前、庭師にでもなっちまえよ!」
二人が揉めている内にそっぽを向き、サウジーネへ向き直る。
「それで、マンション出ちゃったの?」
うん、とサウジーネ。
「送ってくれたおじちゃんに、いっしょにねてって言ったけど、だめって言われちゃった」
思わず苦笑いしてしまう。
妖艶な見た目に幼子の思考という、退廃的なギャップに迫られて、同僚も慌てたことだろう。
「それにね、アタシ、ひかるちゃんのほうが好き」
「え」
図らずも、真っ直ぐに好意を向けられ、少し照れた。
頭をかきながら、ゼパールも話に加わる。
「実は、今夜は奥様宅にお泊めしようと提案したのですが、サウジーネさんにそう、突っぱねられまして」
「それはそれは……何かすみません」
心底申し訳なさそうな彼に、かえって恐縮する。
体を屈め、サウジーネと同じ目線になった。
「ねぇ、サウジーネ? ゼパールのお兄ちゃんのお家の方が、優しいおばちゃんと、賢いお兄ちゃんもいるし、広くて楽しいと思うよ。それに、美味しいご飯が食べられるよ」
「おーおーおー。プランシー社様が、一般人を巻き込んじまっていいのかねぇ?」
カウンターに肘をついての、メフィストの茶々入れ。
「私の部屋、ワンルームでベッドも一つしかありませんから」
そちらを見ず、つっけんどんに返す。
「ん? 何怒ってやがんだよ?」
ぶちぶちと呟く彼の声を、打ち消すように、
「やだやだやだ! ひかるちゃんがいい!」
サウジーネは首を振った。
手ごわいな、と少し肩をすくめる。
「どうして? 私のお家、すっごく狭いよ? ごはんも粗食だよ」
「そしょくでもいいのっ。だって」
「うん?」
「だって、ひかるちゃんがいちばん、かっこいいもん」
頭を殴られたような、いや、冷水を浴びせられたような心地になった。
彼女に悪気がないことも、むしろ褒めてくれていることも、分かっている。
だけど、今は言って欲しくなかった。
「光君」と呼ばれたり、「王子様」扱いされたり、「兄ちゃん」に間違えられたり、「デカ女」と嘲笑されたり……。
そして、「かっこいい」という賛辞。
普段だったら聞き流す、この褒め言葉が、とどめになった。